それでも朝日は昇る 1章5節

 グラウスが王宮薔薇園にもぐり込んだその日の昼下がり、オフェリアは父である国王・クレメンタインに呼ばれ、彼の執務室に赴いた。
「失礼します」
「お姉様、おっそーい!」
 扉をくぐった途端、ぶつけられた声。腰に手を当てて怒った素振りを見せる少女の姿に、オフェリアは微笑を浮かべた。
「ごめんなさい、エリーナ」
 第二王女・エリーナは姉姫のそんな様子に、軽く頬を膨らませる。
「せっかく父上が贈り物を下さるっていうのに、何してらしたの、今まで」
「贈り物? 今日は何も特別なことはないはずだけれども」
 不思議そうに呟くオフェリアに、クレメンタインは笑って答える。
「ガルテンツァウバーの新大使殿の進物に、よい細工があってね。どれでも好きなものを選びなさい」
 その言葉に、オフェリアはほんの少しだけ表情を曇らせた。見ればテーブルの上には、見事な細工の首飾りが幾つも上がっている。
 ガルテンツァウバーは宝石の名産地だ。大使が王室への手土産として携えてきても、何の不思議もない。だが――。
「私は結構ですわ、父上」
「……相変わらず遠慮深いな、オフェリアは」
「えー、姉上が受け取らないんじゃ私だって受け取れなくてよ」
 がっかりした顔をする父と、ふくれる妹を等分に眺め、オフェリアは観念したようにこっそりと小さなため息をもらす。
「判りました。ありがたく頂戴しますわ。……でも、父上」
「なんだ?」
「アイラシェールの分は?」
 実に何でもないことのように言うオフェリアに、クレメンタインは微かに表情をこわばらせた。そして努めて冷静に、娘に言う。
「お前が見立てて、持っていってくれないか? オフェリア」
「ここに呼ぶことができないというのなら、父上が塔に行かれればよろしいのですわ。違いまして?」
 厳しい口調で言い募るオフェリアに、クレメンタインは渋面を作る。どんよりと重く長い沈黙が、執務室の中に降りた。
 こうしていつもいつも無意味に繰り返される問答。折れるのはいつも立場の弱いオフェリアの方で――。
「どうか、どうかお忘れにならないでください、父上。あの子もまた父上と母上の子です。私やエリーナと何ら変わるところのない、ただの娘です。あの子をどんな環境に置こうとも、そのことだけはどうかお忘れにならないでください」
 重苦しい気分と倦怠を抱えて執務室から出たオフェリアは、その足で真っ直ぐ薔薇園へと向かう。赤薔薇の園の奥には、古びた塔がぽつんと建っている。
 入口につけられた呼び鈴の紐を引いた。からから、という小気味のいい音が鳴ると、やや間があって誰何の声が上がった。それはオフェリアの耳になじんだ少年の声だ。
「カイルワーン、私です。開けてくださらないかしら」
 やがて閂を外す音がして、威勢よく扉が開いた。姿を見せたのは、黒髪黒目の少年。その面には、満面の笑みが浮かんでいた。
「オフェリア様、ようこそおいでくださいました」
 礼をする少年――カイルワーンに、オフェリアも満面の笑みを浮かべて応える。
「元気そうね。どう? 変わりはなくて?」
「アイラが手を焼かせてくれて、ほとほと困ってます」
 大した困った風もなく言うカイルワーンに、オフェリアはころころと快く笑った。
「その問題児は自分の部屋ね。行ってもいいかしら」
「勿論」
 階段の上。扉をノックすると、これまた勢いよく扉が開いた。自分に抱きついてきた人影を、オフェリアはためらいもなく受け止める。
「オフェリア姉様!」
「ごめんね、アイラ。なかなか来れなくて」
 そう言ってオフェリアは、自分にしがみつく末の妹――第三王女アイラシェールの、本当は純白の髪をそっと撫でた。

「ねえ、お母様どうしたの? なんで泣いてるの?」
 問うたのは自分。母はただ泣くばかりで答えてくれなかった。
 その光景を、オフェリアはいまだにはっきりと覚えている。大陸暦一二〇〇年ちょうど――暦の節目の年ということで、紀元節が一際盛大に催された年。
 燦々と日の光が差し込む明るい部屋。その白い部屋の真ん中で、丸テーブルに身を投げだして母が泣いていた。
 明るい夏の日だった。
 数日前に生まれてきたはずの弟か妹。それがどこにもいない。城は重苦しい雰囲気に包まれ、誰もが俯き、明るい顔をしようとしない。
 母がお産に入る時、城の中はあんなにも明るい騒ぎに包まれていたというのに、とオフェリアは哀しい気持ちで振り返る。
「ねえお母様……赤ちゃんは?」
 そう問うた時、一際激しい泣き声が上がった。気が狂ったかのような――獣が吠えているかのようなけたたましい泣き声に、オフェリアはびくり、と身を震わせ、一歩、二歩とあとずさる。
 いつも優しい母親が、この時ばかりはまるで別人のように――別の生き物のように思われて、恐ろしくて仕方がなかった。
「お母さんをそっとしておいてあげなさい。赤ん坊が死んでしまったんだ。仕方ない」
 困惑する娘二人に、父である国王はそう言った。その時父が浮かべた、苦り切った表情をいまだにオフェリアは忘れられない。
 あの時は父は、果たして何を考えていたのだろうか。
 母親である王妃に、娘二人が会わせてもらえなくなったのは、それから間もなくだった。理由はどんなに聞いても教えてもらえなかったが、宮廷人たちのささやきは嫌でもオフェリアの耳に入ってくる。
『……やはり王妃様は気が』
『狂れられた、のか』
『……やはり生まれたお子の噂は、本当なのか』
『ああっ、恐ろしい! その話はお止めになって』
『生まれてすぐ死んだとはいえ、あのような恐ろしいものを……』
 暗い影の落ちた宮廷。その裏で密やかに、そして誰の耳にも入らずにはいられないほど頻繁に、口にされた噂話。 その言葉の意味は、五歳のオフェリアには当邸理解できなかったが、一つだけ、何となくではあるが判ったことがある。
 母に会わせてもらえなくなったことと、死にながら生まれてきたという弟妹は関係があるらしい、ということ。
 だからといって、納得も理解も何もできはしなかった。
「会いたいのっ! お母様に会わせてっ!」
 泣いて喚いて周囲を困らせて、時にはしおらしく懇願して三年。八歳の誕生日の日、オフェリアはようやく母の寝室に入ることを許された。
 あの真っ白な部屋に、三年前のあの日と同じように母は座っていた。遠い目をして、窓の外を眺めながら。
「お母様。おかあさまっ!」
 駆け寄った。手を掴み、そう呼びかけた。だが応えはなかった。どれほど呼びかけても、何も応えてはくれなかった。 ただ遠いところを見るだけの、虚ろな瞳。
 その時オフェリアは、周囲の人間の『狂れた』という言葉の意味を、身をもって理解させられた。
 母は昔の母ではない。あの優しかった母はもうどこにもいない。そのことを痛いほど思い知らされ、オフェリアはたまらず部屋を飛び出した。
 泣きたかった。けれど人目を憚らず泣けるところなど、王宮の中にはなかった。
『王女たるもの、万民に涙を見せることなどあってはならない』
 自分が泣くたび、父や乳母が険しい顔つきでいう言葉。優しい言葉も慰めも返ってこない。返ってくるのは叱責だけだ。それがオフェリアには、なによりも辛い。
 涙をこらえながら走り回って、ついに辿り着いたのは王宮の奥。
 さわさわと風に葉擦れの音をたてる赤薔薇の木。
 そして決して近づいてはならないと父王に戒められている、薔薇園の奥の『赤の塔』。
 それが間近に見えた。
「お母様……お母様っ」
 赤薔薇が少し怖くはあったけど、ここなら誰も来はしない。ここなら声を上げて泣ける。ぎう、と裾を握りしめ、嗚咽をもらそうとしたその時。
 ひょこり、と目の前に現れた人影。
「……誰? 何で泣いてるの?」
 気づかわしそうに問いかける幼女のその目。その色彩。
 直感した。
 妹だ、と。
 妹は、死んでなどいなかったのだ、と――。

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