それでも朝日は昇る 10章7節

 カイルワーンがバルカロール侯爵の宿営を訪れている頃。竈の火を前に独りくつろいでいたカティスの元を、一人の貴族が訪れた。
 背を覆う銀色の髪を絹紐で束ね、同じ色に輝く半甲冑を身につけた、三十代前半の青年。彼は粗末な宿営の野辺で、宮廷と何ら変わらぬ優雅な礼を取る。
「カティス殿下にはお初にお目にかかる。我が名はフィデリオ・ヴェスヴィアス。ジェルカノディール公国の、王だ」
 吟遊詩人もかくやと思わせるほど、柔らかな物腰で礼を取りながらも、大胆不敵に言ってのける公爵に、カティスは立ち上がって向かい合った。
「カティス・ロクサーヌだ。アルバ最大の友国の王に、自ら足労いただいて恐縮だ」
 公爵の告げるところを違うことなく読み取って、厭味も含めてカティスは応対する。
 我は一国の王にあって、臣に非ず――それは公爵の自信であり、挑戦でもある。
「それで、公爵御自ら、俺を訪ねてくださったのは?」
「殿下の腕前を拝見したい」
 挑みかかるような、小馬鹿にするような笑みを浮かべ、ジェルカノディール公爵はカティスを誘う。
「聞くところによれば、殿下は傭兵――しかも剣士だというではないか。ならばその腕前を、試させてもらいたい」
「なぜ?」
「君主は安閑と守られているだけでは務まらない。兵たちの先頭に立ち、自ら武器を握って戦う務めがある。なおかつ、その中で、決して倒されず生き残り続ける義務がある。君主が倒れれば、それだけで兵の士気は挫け、軍は潰走する――傭兵であるのならば、そのことはよくお判りであろう?」
「その通りだ」
「これからアルバは、動乱に明け暮れることになるだろう。必要なのは、玉座にぬくぬくと座り、臣下に守られるだけの意気地なしの王ではない。自ら剣を握り、激しい戦いの中でも生き残れるだけの意気と技量の持ち主だ」
 公爵は、腰の剣に手をかけた。かちゃり、と鳴る柄。
「そうでない者に、私とジェルカノディール公国は臣従を誓うことはない。国の命運を共にする領主国の王として、認めない」
「……いいだろう。その挑戦、受けて立つ」
 真剣な眼差しで答えたカティスに、公爵は蠱惑的な笑みを浮かべて告げた。
「舞台と観客は用意してある。来られよ」
 そうして連れていかれたのは、議場の天幕の前。そこには夜にもかかわらず、全諸侯が集っていた――カイルワーンと話し込んでいた、バルカロール侯爵を除いて。
「なるほど、観客」
 半分の感心と半分の呆れをもって、カティスは呟いた。
 これは考えようによっては、謀られたとも言える。ここで自分が無様な姿をさらせば、あの脅しに揺れていた諸侯の気持ちは、一気に離れていくだろう。もはや挽回の機会は、ない。
 だが、それにしても、と内心でカティスは嗤う。政敵と呼ぶべき他の諸侯を一堂に集めて、その面前で自分が破れた時どうなるか、彼は考えなかったというのだろうか。自分を陥れようとした罠だとしても、わざわざ自分を餌にしなくてもよいではないか。
 よほど自分に自信があるのか、もしくは他に考えるところがあるのか、それともよほどの酔狂なのか――楽しそうに、意地悪そうに笑う公爵の顔からは、その内心は伺えない。
「お言葉だが、ジェルカノディール公、貴卿に剣など扱えるのか?」
「貴卿はありとあらゆる武術試合に、一度たりとも参加されたことがないではないか。そんな貴卿が剣を振るったところで、結果など見えておろう」
 場から上がった声に、公爵は腰の剣を抜いた。焚かれた篝火にきらめく白刃、その切っ先が、野次を飛ばした一人の貴族の方に向けられた。
 斬りつけたとしても、到底届く距離ではない。だが、ぴたりとぶれることなく静止した切っ先が、無言の脅しを突きつける。
「あんなお遊びで勝ったところで、何の益があろうよ。馬鹿馬鹿しい」
 あっさりと言い捨てた公爵に、居合わせた者たちは唖然とする。そんな観客を捨ておき、彼はカティスの全身を眺める。
「殿下は、甲冑を身につけるつもりはないのか?」
「今回はいらないと相棒に念を押されたもんでな、持ってこなかった」
「ならば、私がこれをつけているのは、公平ではないな」
 言うと、公爵は留め金を外し、甲冑を外してしまう。高価なそれを無造作に脱ぎ捨てると、慌てて従者がそれを受け取り、場から運び去った。
「なんて馬鹿な! 格好つけるにもほどがあろう」
「違うな」
 驚きと嘲りを含んで上がった声を、否定したのは公爵本人ではない。
 低く、冷静に告げられた声。
「そんな重いものをつけていては、自分の方が不利だと――そういうことだろう? 公爵」
 もはやカティスは、かけらも笑ってはいない。勝負に向かう前の緊迫した面差しで告げた彼に、公爵は嬉しそうに笑った。
「さすが。よく判っておられる」
 カティスは周囲の貴族たちのように、公爵を侮ってはいなかった。甲冑の下から現れた体格。全体的に細身ではあるが、衣服の下の筋肉が無駄なく鍛え上げられているのが、カティスには判る。
 振らなくてもいい。握っている姿を見るだけで判る。あれは、飾りや象徴として腰に剣を帯びている者ではない。
 無言で腰から剣を抜く。王剣レヴェル――王権の象徴、アルバ随一の国宝であるそれを、カティスはただの剣として、握る。
「なんと……レヴェルでお相手してくださるか」
 喜色に弾んだ公爵の声に、外野のどよめく声がかぶさった。
「貴様は、王剣を何と心得ているのか!」
「レヴェルに何かあったら、どうするつもりだ」
「やかましい」
 一喝した低い声が、原野に響く。
「この程度で折れてしまうものならば、王剣など――王権など、その程度のものだ!」
 さまざまな感情を内包して上がるどよめきの中、実に嬉しそうな顔をして、公爵は己の剣を構える。何の装飾もない、実用的な――本物の剣士が握るべき名剣を。
「その意気、まさによし!」
 叫びは、開戦の合図。風を切り、踏み込んできた公爵の最初の一撃を、カティスは受け止める。
 ぎぃん、と鍛え上げられた金属が触れ合う音が響き、両者の渾身の力が刃を通してぶつかる。
「私を殺すつもりでかかってこられよ……そうでなければ、貴方が死ぬ!」
 高揚した声が耳を打ち、カティスはその言葉を正面で受け止めた。
 おそらく、公爵は本気だ。そして彼はきっと、自分が死んでも――自分を殺してしまっても、痛痒を感じないのだろう。
 カティスには到底真似できぬほどの矜持と覇気の持ち主。それが、彼だ。
 きり、と刃と刃が擦れ合う。少しずつ、自分が押されているのを感じて、カティスは一気に剣と己の身を引いた。
 一瞬体勢を崩した公爵の剣を、下から打ち上げる。その打撃を難なく受け止めた公爵もまた一歩引くと、突きを繰り出してきた。ひゅん、と風が切る音にカティスが身をかわすと、切っ先は耳元をかすめた。
 はらり、と二筋、三筋、金の髪が散る。
 カティスの背筋を、冷たいものが流れた。
「まだ貴方は本気を出していない……そうだろう? 戦場はこんなものではないはずだ!」
 上段から振りかざされた剣。片手で繰り出されているとは思えないほど重いそれを、カティスは顔をしかめて受け止める。左手で右手を支えてなお、手に走る衝撃と痛み。
 公爵の剣をなぎ払うと、カティスは握り方を変えた。籠柄に人指し指を一本引っかけて握る――それは叩くためではなく、突くための握り方。
 カティスは、公爵の言う覚悟を決めなければならなかった。
 だが、彼が言う通りに、彼を殺すこともまたできない。どんなに公爵本人が仕掛けてきたことであっても、彼を殺せばジェルカノディール公国は敵に回る。他の貴族とて、自分を恐れるだろう。それはどうあっても、避けなければならない事態だ。
 これだけの技量の持ち主を、殺すことなく屈伏させる――そのあまりにも至難な条件。
 圧倒的に、自分に分が悪い。
 それでも繰り出したカティスの突きを、公爵はすんででかわす。その瞬間、青い目がにやり、と笑った。
 次の瞬間、渾身の力ですくい上げられた剣。鈍い音をたてて手からもぎ取られたレヴェルは公爵の足元に転がり、反動でカティスは地面に崩れる。
「ご覚悟!」
 公爵の宣告を、誰もが本気と受け取った。カティスめがけて振り下ろされる剣。血しぶきが上がり、彼が息絶える様を誰もが想像したその瞬間。
 カティスは、その場の誰もが想像しなかった手段に出た。
 地面に倒れたまま、公爵の軸足をしたたかに蹴りつけたのだ。
「くぅっ!」
 さすがの公爵も、これにはなす術がなかった。彼が体勢を崩し転ぶと、カティスはすかさずその体を押さえ込む。
 剣帯から抜き放った短剣の切っ先が、公爵の喉元に突きつけられた瞬間、全てが決した。
「お前の負けだな」
 ほんの少し手を動かせば、喉を突かれるその体勢。青い目が驚愕に満ちて、すぐ近くにある緑の瞳をしばし凝視し続け、そして。
 やがて、満面に苦笑を浮かべた。
「そのようだ」
 カティスが短剣を収め、立ち上がると、ぶつけられたのは当然の罵声だった。
「卑怯者!」
「あのような卑劣な手を用いて、恥ずかしくないのか!」
 レヴェルを拾い、衣服についた土を払うと、カティスは忌ま忌ましそうに告げた。
「何を馬鹿らしいことを言っているんだ。それじゃあ戦場で騎士道を守って、正々堂々と戦えば、誰か手加減をしてくれるのか?」
 その一言に、しん、と水を打ったように場は静まった。
「一対一で騎士同士が戦うだけだった昔ならいざ知らず、どこから銃弾や矢が飛んでくるか判らない、何人が徒党を組んで一人に襲いかかってくるか知れない戦場で、卑怯もくそもあるか。一軍の将がしなければならないのは、正々堂々と華々しく戦って散ることではなく、どんなに無様でも卑怯でも生き抜いて、自軍を統率し、味方の兵を鼓舞することだろうが。……俺は何か、間違ったことを言っているか?」
 答えられる者がない場は、沈黙が支配し、やがて。
 笑い声が上がった。
「……ジェルカノディール公爵?」
「貴方の覚悟、見せていただいた。――貴方とは、気が合いそうだ」
 王子に対するにしては不遜に言う公爵に、カティスは苦笑して言い返した。
「俺はお前ほど物好きでもないし、自信家でもない。……よくまあ、今までそれほどの剣才を隠して、化けの皮をかぶり続けていたものだ」
「私は騎士である己というものに、何の価値も見いだしていないのですよ」
 はっきりと、公爵は言いきった。
「私にとって価値のある自分とは、領主である――王である私だ。それ以外の私など、私にとって何の意味もない。剣技など、戦場に赴いた時、己の身を守るためのものでしかない。そのために武術試合などに参加させられて、いらん怪我をしたり、あまつさえ命を落としたりするのも、それを買われて軍務になどつかされて、余計な出兵に駆り出されるのも本末転倒だ。そうは思わないだろうか?」
「それなのに、どうしてこんな真似をした? 今まで大事にかぶり続けていた化けの皮も脱ぎ捨てて、あまつさえ己の命まで危険にさらして。もうお前の実力は、ここに居合わせた者全てに知られてしまったぞ?」
「貴方には――貴方を見極めることには、それだけの価値があったのですよ。陛下」
 不敵に笑って告げられた言葉――その最後の一言に、カティスは目を見張る。そして、それは居合わせた全ての者たちもまた。
 彼は今、何と言った?
「私とて、この動乱を前に、己の保身だけを考え続けることで、自領と領民が守れるなどとは思っていない。何にしても、賭を打たなければならないと思ってここに来た。――だがその賭は、貴方のおかげで、ひどく面白いものになりそうだ」
 ぱちり、と音をたてて外された剣。アルバの全貴族の前で、試すように、挑発するように、公爵は己の選択を見せつけた。
 戸惑うカティスに跪き、捧げられた剣。
「私を臣に迎えられよ。カティス陛下」
「……俺は、まだ王じゃないぞ」
「私は王子になど、膝を折りはしない。私が膝を折る者は、ただ一人。私が認めた、アルバ王国国王、ただその人だけだ」
 カティスさえ唆すように、挑むように、ジェルカノディール公爵は笑う。
 取り囲む、諸侯の動揺と惑乱の中。
「アルバ最大の領地と領民を、貴方にお預けする。その代わり、私とジェルカノディール公爵領、その全てが貴方の王国と治世を全力で支えるだろう。損な取引ではないはずだ」
「取引か……言うな、お前も」
 どこまでも自信たっぷりの公爵に呆れたように答え、カティスは手を伸ばし、先程まで自分に向けられていた剣を握りしめた。
 もとより選択肢など他にはないのだが、それでもこの結果は――ジェルカノディール公爵という人物は、意外にも彼にとって小気味のよいものだった。
「悪いが、望みに反して、お前には軍の先頭に立ってもらう。残念だが俺は、お前の実力を知ってしまった。拒否できると思うなよ」
「それはそれでまた面白い。領地と領民を守るため、己の身を第一に守らなければならない主君より、領地と領民を守るために己の命を懸けられる主君の方が、武人としてどれだけ幸せなことか、陛下ならばお判りになるだろう?」
 それはもしかしたら、ジェルカノディール公爵の屈折した本心なのかもしれない。法外な誉め言葉にカティスが照れて、そっぽを向いた時、その視線の先に見慣れた姿を見いだした。
 人だかりをかき分けて現れた人影に、カティスは軽く手を挙げた。
「……騒ぎだね」
 事態を面白がっている笑顔で歩み寄ってきたカイルワーンに、カティスは言った。
「武官の長を捕まえた。そうなんだろう?」
「そういうこと。彼を懐柔するのは君だろうと思っていたけど……まあ、ご苦労さん」
 カティスをそう労って、カイルワーンは記憶に思いを馳せた。
 ジェルカノディール公爵フィデリオはこの後、元帥として自分たちが再編した国軍を率いる。四方八方から攻められた王朝初期、カティスと彼がそれぞれ師団を率いて、それぞれの戦場で奮戦し、自分が消えた後は国軍の全権を預けられる。
 自分がいなくなった後、カティスを支える右腕と左腕が、これでそろった。
「貴卿も覚悟を決められたようだな」
 カイルワーンと共に現れたバルカロール侯爵は、ジェルカノディール公爵に声をかけた。その言葉と、同志を――共犯者を見るその眼差しに、公爵は侯爵の選択を知る。
「ほう、侯爵もか。となれば、大勢は動くな。……それならば、どれ、少し陛下たちを楽にしてやるか」
 ジェルカノディール公爵は居並ぶ貴族たちを、からかうように呼ばわる。
「さて、ここにおわす全ての諸侯諸賢らをお誘い申し上げる。――こっちに、来ないか? こっちの方が面白いぞ」
 その端的な物言いに、バルカロール侯爵は勿論、カティスとカイルワーンでさえも呆気に取られた。
 だがそれにも構わず、ジェルカノディール公爵は言い放つ。
「こっちに来れば、貴卿らは面白いものに立ち会えるぞ。王位継承ではなく、貴族の内紛でもない。王朝交代――そう、革命にだ!」
 他を圧して響く声は、イプシラントに初めてその言葉を――概念をもたらす。
「陛下、貴方はブロードランズを名乗る気はないだろう?」
「……ああ」
「それでいい。腐った王朝など受け継がなくていい。我々が――民が望むものは、新しい国、新しい王だ。古き、由緒正しいものを受け継ぎながらも、それを正すために民の中から立ち上がる者。民の中で育ち、民の痛みを理解する流離した貴種――全くもって貴方は、民を熱狂させるものを、不足なく持っておられる」
 カティスの癇に触りそうなことを言った公爵は、彼が怒り出す前にふと表情と声音を変えて続けた。
「無論それが貴方の本意ではなかったことは、貴方の幸せではなかったことは、昼間にお聞きしたが、それでも貴方は己の望みを曲げてここへ来た――貴方が逆らえなかったものが何か、私には判る気がする」
「公爵……?」
「賢者カイルワーン。貴方が民に、カティス陛下の噂を流して歩いたことはもはや予想に難くない。だが、真実はむしろ逆なのではないか?」
「逆、とは」
「貴方が民が喜ぶような噂を流したから、民が飛びついたのではない。民が望んだから、貴方たちはそれに逆らうことができなかった。民が貴方たちという英雄を欲したから、貴方たちはそれにならざるを得なかった――違うか?」
 ひやり、と背筋に寒気が走った。カイルワーンは驚愕の眼差しで、公爵を見つめる。
 それをまさか、他人に――しかもアルバの貴族に指摘されるとは、思ってもみなかった。
 そう、薔薇は四色四輪ではない。薔薇は五色五輪なのだ――。
「陛下。貴方を民が望むような英雄にしたのは――貴方に王になる定めを与えたのは、血ではなく、レオニダス先王でもない。民、そのものだ。そのうねりに、その圧力に、その脅迫に、貴方たちとて逆らえなかったのだ。一介の領主程度の我々で、どうして逆らえよう?」
 何も告げられていないにも関わらず、運命というものの――カイルワーンやカティスが苦しんだ運命というものの存在、もしかしたらその本質さえあっさりと掴んでしまった公爵に、カイルワーンは戦慄を覚える。
 最近カイルワーンは、思うことがあった。
 自分たちにこの運命を与えた存在がいるのだとしたら、そんな力があるのだとしたら、その正体は、もしかしたら――と。
 神と呼ばれるものの正体とは、もしかしたら――と。
 そうして公爵は、運命を握りしめて他の貴族たちに突きつける。
「王は我々が選ぶのではない。戦いの勝者でもない。もう、決まっていたのだ。そのことを、貴卿らも受け入れられよ。逆らえないのなら、楽しんだ方が得というものだ」
 この後も紆余曲折はある。様々な事件も起こる。だが大勢は、この一言で決したのかもしれない、とカイルワーンは後に思い返すことになる。
 その言葉の深みを、運命と呼ばれるそのからくりを、彼らの他に誰も真に理解してはいなかったのだとしても。

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