それでも朝日は昇る 10章8節

「陛下、閣下、今度は何を企んでおられます?」
 翌日――六月二日の昼過ぎ。陣営の端で佇んでいたカティスとカイルワーンの元を、ジェルカノディール公爵が訪れて問う。
 その呼ばわりに、カイルワーンが顔をしかめた。
「何だ、その閣下というのは。ジェルカノディール公爵」
「フィデリオと呼んでくれ、と言っているでしょう。――貴方以外の誰のことだと思っているんです、カイルワーン閣下」
「だから、なんで僕が閣下なんだよ」
「往生際の悪い方だ。……確かに今は無位無官かもしれませんが、陛下が即位されれば、貴方は自分が何になると思っているんです」
 敢えて二人は答えない。
「宰相でしょう? 違いますか」
「……だろうな」
 カティスはなぜか、あまり嬉しくなさそうに答えた。
「それだけの地位にあるものを、他に何と呼ぶんです。たとえ陛下が任じていなくても、貴方が今現実に占めている席はまさにそれ――いいや、それ以上だ。それだけの方を、我々臣が他に何と呼べと? いい加減覚悟を決めなさい。示しがつかない」
「……むず痒くてかなわない、と言った君の気持ちが、よーく判ったよ、カティス」
 苦虫をかみつぶしたような顔で呻くカイルワーンに、カティスは無言で同意する。『殿下』までは覚悟を決めていたカティスだが、このジェルカノディール公爵の『陛下』攻撃には、一日すら経過していない現時点ですでに、ほとほと辟易しているのだ。
「殿下、閣下。物見の兵から、今この陣営に大規模な隊商とおぼしき集団が近づきつつあると報告が……どうなさいました?」
 現れたバルカロール侯爵は、思わず顔を手で押さえてうなだれるカイルワーンと、笑いを噛み殺しているジェルカノディール公爵を見て、訝しげに問いかけた。
「そら、みなさい。……まあ、私としては、目の前で下手に気取られるより、素で不平をもらしていただいた方がよほど光栄ではあるのですがね。――さて、そんなことはともかく、バルカロール侯爵の報告、これも貴方がたの企みでしょう?」
「ああ。僕たちの待ち人だ」
「……なるほど。そういうことですか」
 公爵はしたり顔で頷いた。彼にはその一言だけで、その待ち人の正体も、これから起こる事態も予測がついたのだろう。小さく含み笑いを浮かべ、そして言う。
「観客がまた、集まりそうですね」
 公爵の預言通り、その集団が陣営に到着する頃には、多くの群衆が集まって騒然とした雰囲気になった。そうなれば当然、事態を聞きつけた諸侯たちが自然集う。
「また貴様たちか。一体何度騒ぎを起こせば気が済むんだ」
 声を荒らげたフレンシャム侯爵の子息アランは、カティスたちに到達する以前にバルカロール侯爵の冷笑に迎えられる。
「アラン卿。いかに貴卿であろうとも、王子である方にその態度は無礼に過ぎよう?」
「どこの馬の骨とも判らぬ奴が、王子などとはお笑いではないか!」
「少なくとも、ここにいる者たちはそうは思ってはいない。そのことが判らぬほど貴卿が愚鈍であるのならば、フレンシャム派に先はないと言っておこう。だからこそ、私とジェルカノディール公は殿下に臣従を誓ったのだということをな」
「何だと……」
 顔面に朱を登らせるアランに、侯爵は近づいてきた大集団に示して言った。
「そして貴卿は、閣下の恐ろしさを理解していない。おそらく閣下の真価は、人望でも容姿でもなかろうよ。――あれだけのものをたった一人で用意できる人物が、貴卿は恐ろしくないのか?」
 砂煙を上げて近寄ってきた大集団。先頭と最後尾を守っているのは、数百はくだらない軽装の騎兵。彼らに挟まれるように何十台も連なった荷馬車は、荷を満載している。一軍と呼んで差し障りのないその集団は、どの貴族も使用していない、見慣れない旗を掲げていた。
 八重咲きの白薔薇――それが後のロクサーヌ家の紋であることを知るのは、この世界ではまだカイルワーンとアイラシェールのただ二人だけ。
 集団は、陣営と多少の距離をおいて静止した。進み出た幾人かの人物を、群衆と諸侯の注視の中、カティスとカイルワーンが迎えた。
 極上の笑みがこぼれる。
「長旅、ご苦労でした、フロリックさん。よくこの困難な時世の中で、これだけの物資を集めてくれました。心から御礼を申し上げます」
「我らが独裁者の手から立ち上がったあの日以来、この時が来ることは我らにとって悲願でした。真の王が我らの中から立ちあがること。その後押しをし、それを支え、新しい王朝の輝かしい幕開けに、我らの名を刻むこと。そのためならば我らレーゲンスベルグギルド連合――いえ、レーゲンスベルグの全ての民は、いかなる労苦も惜しみはいたしません」
 フロリックは恭しく跪くと、カティスを見上げる。そして、よく通る声で告げた。
「カティス王太子殿下。レーゲンスベルグに住まう者全てを代表して、慶賀を申し上げる。我らと王国との間に、友愛と敬意に満ちた親密な関係が、末永く結ばれることを、心より希求いたしております」
「都市の力なくしては、もはや王国は何もできはしない。都市の全ての力が、王権に対し最も忠実であることを期待している」
 この言葉の意味を、多くの群衆は理解しなかっただろう。ただの慶賀の挨拶――だが両者の用いた言葉は、そのまま時代の変革を映しているのだと、貴族たちは感じた。
 そしてカティスの登場は――彼が大都市レーゲンスベルグから現れ、彼らの支持を受けていることもまた、そのまま時代を表していた。
 もはや王権――国は、都市の生産力・資金力なしでは立ち行かない。その影響力は日々増大していて、そして彼らは今、自分たちを被支配者ではなく、対等の協力者として認めてくれる王を、その手で選んだのだ。フロリックという男が告げたことは、そういう意味。そしてそれを、カティスは認めたのだ。
 今まで、王は、我々が選んでいたのだ――多くの貴族は、その情景を眺めながら思った。まずは血統が、宮廷の論理が、数と所領の力が、権謀が次の王を選んだ。それなのに、それらを全く介さない別の力が働いて、予測もしなかった人物を王にせよと彼らに命じる。
 どうして、と問いかけても、答えはない。
「ここに持参いたしました品は、新たな王と王朝に対する恭順と、忠誠の証。どうぞお納めください。簒奪者への反抗とはいえ、紛れもなく王権に反旗を翻した我らを、どうぞお許しくださいますよう」
「ありがたく貰い受ける」
 歓声が上がった。それは民の歓迎であり、諸侯の動揺を示している。そんな周囲を見回し、ジェルカノディール公爵はかたわらのバルカロール侯爵に呟いた。
「今さら、何を驚いているんだか。奴らは、陛下たちが一文なしだとでも思っていたんだろうかね。レーゲンスベルグの領主ともあろう人物が、富豪でないわけがなかろう」
「閣下の外見は人を惑わす。そのことを、ようやく諸侯たちは実感したようだ。だが、それにしても」
 二人は、後方に広がった荷馬車の列を見た。山と積まれて縄をかけられているのは、水か酒の樽だろうし、整然と積み上げられた木箱の中身は穀物だろうか。そして遠目では確認できないが、にわかには信じ難いものが積まれた馬車もある。
 その威容。
「閣下は、おそらくこの日が来るのを見越して、ずいぶん前から準備を進めていたのだろうな。……私が訪れ、殿下が決意を固めるその日まで、何も明かさず、たった独りで」
 だがそれは、彼の愛するアイラシェールを滅ぼすための準備。
 その心理を、内心を、バルカロール侯爵は量ろうにも量りきれなかった。
 そして隊列は進み、荷は解かれ始める。そうしてその場に居合わせた誰もが、カイルワーンが打ち続けてきた布石が上げた成果を、目にすることになる。
 まずカイルワーンが検めたのは、糧食の荷。その量を確認すると、背後に声をかける。
「バルカロール侯爵、ジェルカノディール公爵。君たちに頼みがある」
「何でしょう?」
「君たちが雇用している傭兵を二千ずつ、カティスに譲ってやってくれ。対価は糧食か貨幣、君たちが必要としているもので支払う」
「承りました」
「これにレーゲンスベルグの竜騎兵千を足せば、五千だ。ようやく一軍の体裁が整ったな」
 やれやれ、とばかりに言い放ったカイルワーンの言葉は、諸侯の耳目を集めた。
「竜騎兵とは耳慣れない言葉だが、閣下、それは?」
 ジェルカノディール公爵が興味津々に問いかける。期待通りの反応に、カティスが大声で呼ばわると、一人の騎兵が駆け寄ってきた。
 鎧は身につけていない。外套に帽子。腰には長剣を帯び、肩からつり下げた帯で、砲身の長い銃を背負っている。そしてそれは、レーゲンスベルグからやってきた騎兵たちの標準的な装備だった。
「竜騎兵隊隊長のファベルジェと申します。カティス殿下より、カイルワーン様のお噂はかねがね」
「僕はまだ量産型フリントロックの試射と、君たちの練兵具合を見せてもらっていない。ここにおわす諸侯方も、興味がおありだろう。見せてくれ」
「承知しました」
 ファベルジェの呼びかけに、何人かの騎兵たちが集まってくる。彼らが背負っていた長銃を手に隊列を組むと、カイルワーンは隠しから懐中時計を取り出して、秒針を睨む。
「始め!」
 隊長の合図に、隊員は一斉に射撃の準備を開始する。だがその様子は、諸侯たちの見慣れたものとはかけ離れていた。
 騎兵たちは何やら小さな紙包みを取り出すと、その端を食いちぎって銃口に押し込み、さく杖で突いた。そして何やら金具を押し上げると、火皿に点火薬を注ぎ、先程の金具をさらに押し上げ。
 次の瞬間、砲身を構えた騎兵は、後は何もせずに引き金を引いた。
 銃声が、荒野に鳴り響く。
 個人差はあったものの、ほとんど変わらぬ速さで射撃を行った騎兵たちと時計を見やり、カイルワーンはやがて隊長に笑いかけた。
「火縄銃のほぼ半分……上出来」
「ありがとうございます」
 荒れ野を埋めつくした人たちに、虚脱に似た驚愕が走った。それはジェルカノディール公爵、バルカロール侯爵も含めて、誰にとっても信じ難い光景だった。
 今の試射では、銃の発射に必要不可欠なある動作が、省略されていたのだ。
 そう、火種による着火をしていない――。
「これが僕の答えだ、ジェルカノディール公爵。剣ではなく、銃を主力の武器とする軽装騎兵を、特に区別して竜騎兵と呼ぶ。他国ではぼちぼち導入され始めてるが、僕たちも主力として編成してみた」
「閣下……貴方が著名な発明家でもあるということは存じておりますが、まさかこれも、貴方が実用化したのですか? 噂はありましたが、いまだ実用まで到っていなかった、あれを!」
 それはもはやよほどのことでは驚かなくなっていたジェルカノディール公爵ですら、驚愕に値する。
 そんな彼にカイルワーンは頷く。
「これがこれからの無条銃(マスケット)の主力、燧石型無条銃(フリントロック・マスケット)だ。火種を必要としない分だけ、格段に発射の手順が省略できることは見てのとおりだ。今の計測でおよそ従来型の火縄銃(マッチロック)の半分――つまりは、二倍の働きが期待できるね。……まあ、時間短縮には、紙弾薬包の成果も大きいけど」
 それはすなわち、一梃で二梃分の等価値であることを意味する。
「これを……閣下、貴方は、何梃用意されたのです……」
「見てのとおり、竜騎兵隊の標準装備だ。だから千だよ」
 この二日間、この目の前の人物たちに自分たちは驚かされ通しだった。だがこの時ほど彼らを驚愕に叩き込んだ瞬間もありはしないだろう、と諸侯たちは感じた。
 火種を使わない新型銃の開発は各工業都市で盛んに行われていて、歯車状の燧石が回転することで火花を発し、着火する輪燧銃はすでに実用化されている。だが輪燧銃は機構が複雑で制作費が高く、扱いも非常に繊細さを要求される銃だ。狩猟ならばまだしも、戦場で実用に耐えうる銃ではない、という認識が一般的だ。
 だがカイルワーンが開発した燧石銃は、見たところ扱いが至極簡便そうだ、と諸侯は感じさせられた。そしてすでに千梃もの数を、レーゲンスベルグだけで生産することができたことを考えれば、値段的にも時間的にも製作が容易なのだろう。火縄銃を押し退けて、主力になるという彼の意見にも頷ける。
 だが、それにしても千。その技術力。その資本力。自分たちがこの挙兵にあたって、数百の旧式火縄銃を入手するのに、あれほど苦労したのが、馬鹿を見たような気にさえなってしまうほどの力。
 レーゲンスベルグは、これを作るために、代官を追い出して隠れていたのだ――諸侯たちは、初めて彼らの独立の真意を悟った。彼らは日和見を決め込むために、独立したのではない。武力をもって、カティスの絶対的な後押しをするために――その功をもって、カティス即位後に工業都市として絶対の地位を築くために。
 そしてその糸を引いたのは――全ての黒幕は、勿論彼らの代表。
 目の前にいる、この小柄な青年。
 戦慄が、駆け抜けた。
「はは……はははっ」
 乾いた笑い声を上げたのは、バルカロール侯爵だった。訝しげに自分を見るカイルワーンに、侯爵は苦笑を満面にたたえて問いかける。
「貴方という人は、これほどまでの準備をして、それで殿下が立つことを拒まれたら、どうするおつもりだったんですか。よほど前から準備をされておられたんでしょう? それを殿下が、存じておられたとは到底思えない」
「もしカティスが王位を拒んだら、その時はこれを勝者に売りつけて恭順するつもりだったさ。その頃には千梃どころではなく生産が進められただろうし、そうでなくても好条件を提示した勢力どちらかに提供すればそれでいいと思ってた。商人は『賭』なんて打たない。どっちに転んでも、損はない。それがレーゲンスベルグの選択だったんだよ、侯爵」
 それが総代表を名乗った者の責任。カイルワーンは、レーゲンスベルグを運命の道連れにして滅ぼすつもりは毛頭なかった。
 だが決して、そんな選択をすることにはならないことも――運命が変えられることがないこともまた、薄々悟ってはいたことだけれども。
「だがカティスはここに来た。だからレーゲンスベルグは全力をもって、彼を支える。それは僕の意志だけではない。レーゲンスベルグの総意だ」
 レーゲンスベルグが彼を王にする――それがカイルワーンの実感。
 その時、遠巻きにしていた諸侯の中から、一人の青年が歩み出た。その人物をカティスとカイルワーンはよく知っている。
 ドランブル侯爵アストリア――カイルワーンが選んだ、カティスの第一発見者だ。
「ドランブル侯爵――いいや、アストリア。吟味に吟味を重ねただろう? 慎重派のお前でももう十分判ったはずだ。いい加減、こっちに来い」
 ジェルカノディール公爵の気安い呼びかけに、ドランブル侯爵は苦笑で応えた。そしてカティスの前に立つと、問いかけた。
「貴殿にお聞きしたい」
「何だろう?」
「貴方は、賢者の傀儡か?」
 その問いかけは鋭く、思わずカティスとカイルワーンも苦笑いを浮かべてしまう。
「そうかもしれないな。確かにそういう風に見えることは承知してるよ。俺がこいつの力なしで即位できるとも思えないし、俺よりもこいつの方が遥かに頭もよければ学もある。人望だって俺は、天使様とさえ呼ばれるこいつほどあるわけじゃない。だけどな、侯爵」
 緑の目が、自嘲と自信をない交ぜにして、笑う。
「考えるのはこいつの仕事だが、判断を下すのは俺だ。そのことくらいは判っている」
 それが王と臣下の違いのはずだ、とカティスは言外に告げる。
「俺に力が足りないことは――いいや、一人の人間がこの広い王国を治めるには、どだい力が足りないことは自明の理だ。だから俺は、この国を独りで治めようだなんて思っていない。だからカイルワーンの力もいるし、貴公たちの力もいる。多くのことを他人に任すつもりでいるし、その点で不甲斐ない男に見えるだろうし、傀儡に見えることもあるだろう。だが、それでも、最終判断を下すのは俺だ。どんな人間でも――たとえこいつでも、間違うことがあることも、たまに馬鹿をやることも、俺には判っている。なあ侯爵、王というものは――多くの人間を束ねる責務につく者の役目は、何でも自分でやることではなくて、配下が己の方針に従って忠実に働いているかを見定め、軌道を逸れた時には修正をし、その働きを評価し、方向性の判断を下し、そしてその責任を負うことじゃないのか? だから王の下に、臣従を誓う貴公ら諸侯がいるんだろう? 自領の王でありながら、貴公らは王を担いで臣従を誓うんだろう? 違うか?」
 カティスの問いかけに、ドランブル侯爵は淡く微笑んだ。迷いに迷った、その心に決着をつけて。
「それならば、私の意見にも耳を傾けていただけますか? あなたの王国のために、その責務の一かけらを私にも預けていただけますか?」
「……当然、期待している」
 跪礼と共に捧げられた剣をカティスが取った瞬間、勝敗は決した。
 一人、また一人とラディアンス派とフレンシャム派の貴族が、カティスに膝を折る。かつての主君を見捨て、雪崩を打って、突然現れたどこの馬の骨とも知れない青年を殿下と呼び、臣従を誓う。もはやその流れを、誰も止められない。
 こうして大陸統一暦1000年六月二日、カティス・ロクサーヌはアルバの全貴族に指導者として迎えられた。
 誰一人真実を知らないまま。誰一人彼をレオニダス先王の息子だと認めないまま。
 それでも彼は王太子となった――民の歓呼と脅迫の声をもって。そして、ほとんどの貴族の敗北感とそれに勝る安堵の思いをもって。

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