それでも朝日は昇る 10章13節


 カティスが扉幕をまくり上げると、カイルワーンは独り瞑目していた。
 敷物の上には、カイルワーンが書きなぐったのであろう何枚もの図面が散らばっている。それが自軍の進軍図であることをカティスは見て取った。
「悩んでるみたいだな」
「正直、恐いんだよ」
 カティスは意外な言葉を聞いた、と思った。カイルワーンがその虚勢ほどに強くはない、己に自信が持てないことは重々承知しているが、今目の前にしているのは変えようとどれだけあがいても、決して変えることのできなかった『歴史』だ。それをなぞるだけの進軍を彼が恐れる理由は、何だろうと思う。
「初陣だからか?」
 問いかけたカティスに、カイルワーンは静かに首を横に振った。
「そういうことじゃない。僕が恐いのは、イプシラントで戦う相手が、アイラだからだ」
 その言葉はカティスに痛ましそうな表情をさせ、それ故カイルワーンは彼の誤解を悟る。
「ああ、誤解してるね。彼女にどう思われるかが恐い、という話ではないんだ。その覚悟は、レーゲンスベルグを出た時にもう固めた。今言いたいのは、僕が今対決する相手もまた、預言者であることが恐い、ということなんだよ」
 カイルワーンは、二枚の図面を拾い上げる。
「正史は、イプシラントの戦いにおける両軍の布陣、経過を詳細に記している。だけど僕はこれを正直になぞっていいのか、迷っている」
「アイラシェールもまた、それを知っているからか」
「アイラには、国軍が敗退することが判っている。僕たちの布陣もまた判っている。彼女ならば覆す手だては打てる。だが問題は、彼女がそれを打つかどうか――打つと判っているのならば、対処法もあるんだが、どうだろう」
 もはや賭なのだ、とカイルワーンは思う。白か黒か――二つに一つ。
「裏をかけばいいのか、裏の裏まで考えるべきか、やはり正攻法で行くべきなのか――相手がアイラでなければ、こんなにも悩まない。恐いと思うことなんてない。だけど歴史をなぞればいいことに安心を覚えるのならば、それこそまさしく僕が天の繰り人形である証拠なんだよな……」
 深々とため息をもらしたカイルワーンに、カティスは少し考えた後に告げた。
「思い悩むな。俺たちは、どうあがいたって勝つ」
「カティス……」
「歴史はそうなっているんだろう? ここで国軍が負けなければ、アイラシェールをアルベルティーヌ城で追いつめることなんてできないんだろう? ここで何かが間違って俺たちが負けて、それで歴史が変わるというのならばそれはむしろ御の字だ」
 どんなにあがいても、歴史は変わらなかった。だったら、変えないようにと思い悩むことこそ馬鹿らしいと、さばさばとカティスは告げる。
 まかり間違って、変えることができるのならばそれはむしろ重畳だ。だがそんなことは起こりはしないことを、カティスもカイルワーンも痛いほど判っているのだ。
「……そうだね」
 自分たちの運命に対する皮肉の形をとった慰めに、カイルワーンは自嘲の混じった笑みで応えた。そして手にしていた紙面の一枚を、カティスに渡す。
「こっちで行く」
 進軍図を目にしたカティスは目を見張った。
「お前……本気か?」
「みんなは驚くだろうね。でもこれが正攻法だよ」
 大陸統一暦1000年六月八日、カティスと同じ動揺を諸侯は味わう。
「前衛右翼はカティス。左翼はジェルカノディール公爵。ここは正面から国軍とぶつからなければならない。主力同士の正面衝突になるから、最大の激戦となるだろう。――公爵、だから君に竜騎兵五百と、カノン砲十二門を預けた。君なら有効に使えるだろう。任せた」
「承知しております」
「殿下を前衛に置くのは危険ではありませんか。殿下にもしものことがあれば、全てが水泡に帰するのですから」
 当然上がる声に、カティスが小さな笑みを浮かべて否定した。
「俺が先頭を切らなければ、誰もついてはこない。違うか?」
「前衛は、最大の火力を保持する隊が務めなければならない。任せてやってくれないか」
 王子と軍師の言葉に、渋々といった雰囲気の沈黙が場を支配する。
「バルカロール侯爵とドランブル侯爵は交戦開始後、本隊から左右に展開して渡河。側面に回り込め。後衛はメイナスチュール伯爵、リリベット子爵に任す。本隊の構成は細かいから、後で個別に説明する。そして」
 不意に、カイルワーンは最も離れた場所で成り行きを見守っていた人物を見た。
「ラディアンス伯、貴方には選りすぐりの騎兵だけを率いて別行動を取ってもらいたい」
「なっ……」
 声が上がった。言われた本人も一瞬、動揺の表情を見せた。だがカイルワーンは一向に介することなく続ける。
「君は相当数の火縄銃兵を所持しているはずだ。彼らを率いて本陣を離れ、川下から渡河。遊軍として斜め後ろから敵陣を急襲してもらいたい」
 誰もが何かを言いたそうな顔をし、だがはばかって口にせずにいた。重苦しい雰囲気の中、それを口にしたのは当事者。
「賢者よ。それで私が貴君を裏切り、その銃口を自軍に向けたら、どうする?」
「僕たちは負けるね。君の進路は、敵だけでなく味方の前衛をも急襲できる。そうなれば間違いなく、自軍はガタガタだ。敗走するより他ないだろうよ」
「それが判っていて、私にその役を任せるというのか」
「そうだ」
 恐ろしいほどきっぱりと、カイルワーンは言ってのけた。カティス以外の人間の全て動揺を受け止め、かけらも動じることなく告げる。
「僕とカティスは君に、全軍の命運を預けた。僕たちが国軍に勝てるかどうかは、君の手に委ねられている――他ならぬ君の手にだ。それがどうしてなのか、君ならば判るはずだ」
 裏切るなとも、信じてるとも言わず、ただそれだけをカイルワーンはラディアンス伯に突きつけ、軍議を打ち切る。
 天幕を出ていく彼に、小声でカティスは問いかけた。
「さっきの言葉の意味は、何なんだ。俺には、意味が判らなかった」
「何の意味もないよ」
 その返答に、カティスは唖然とした。
「だから伯爵にも、判りっこないだろう。それが僕の意図だ。だが、ああ言えば、それがどういう意味なのか伯爵は悩むだろう? そして彼は僕の言葉を、自分の受け取りたいように解釈する。そういうことさ。そして僕は、彼がそれをどう受け止めようが、知ったことじゃない」
「……お前、性格悪くないか」
「彼にはこんななあなあではなく、極限状態で、しかも自分の意思で選んでもらう。君に背くのか、完全に服従するのかを。君を救うか、君を滅ぼすかという二択――選べばもはや後戻りはできないことは、彼にも判るだろうから。そして」
 預言者の目が、意地悪く細められた。
「彼は裏切らない。だから戻ってきたら、手厚く遇してくれ」
「……了解」
 ノアゼットと組み、反旗を翻したフレンシャム侯とは違い、ラディアンス伯はカティス即位の後、忠実な臣下となる。カティスの次男であるセンティフォリア公爵の妻に、彼の孫娘が選ばれるほどに。
 かくしてラディアンス伯の軍勢は本陣を離脱し、本隊もまた進軍が開始される。大陸統一暦1000年六月九日、遠眼鏡で国軍が視認できるほどの距離で陣を張ったカイルワーンは、軍議の終わりにカティスの腕を掴んでこう言った。
「悪い。ちょっとこいつを借りる」
「閣下、どちらへ」
「密談だ。護衛はいらない。誰もついてくるなよ」
「そういうわけには参りません!」
 静止の声を無視し、カイルワーンは侍従に連れてこさせていた馬のもとに歩み寄る。事態を面白がったのか、それとも何事かを悟ったのか、カティスが無言で駆け寄り跨がると、カイルワーンに手を伸ばした。
 あっと言う間に走り去ってしまう馬影を見送り、ため息をつくバルカロール侯爵の肩を、ジェルカノディール公爵は気の毒がるように叩いた。
 カイルワーンの指示通りに、カティスは馬を走らせる。陣営を抜けて、原野を渡り、示されたのは小高い丘。速度を落として登らせると、その頂上でカイルワーンは馬を止めさせた。
「君に、これを見せたかった」
 そこからは、イプシラントの野に広がる五万の陣営、その全てを見渡すことができた。
 その威容にカティスが息を呑むのを感じて、カイルワーンは静かに言った。
「ブレイリーに聞いた。君が他の傭兵団の人たちの信頼を集めるようになった理由、レーゲンスベルグ傭兵団が膨れ上がった理由を。彼らは、君に命を救われた人たちなんだってね」
 極限の戦場でのカティスの選択。それをブレイリーは、カイルワーンにある危惧と共に告げた。だから今日、カイルワーンはカティスをここに連れ出した。
 戦場で傭兵が最優先にしなければならないことは、敵を倒すこと、そして戦利品を略奪すること――すなわち、己の利益を確保することだ。だがカティスは、それに背いた。
「敵を倒すより、略奪に走るより君は、危機に襲われた隣人を救うことを優先させた――時には、自分の身すら危険にさらしても。そのことに感謝し、恩義を感じ、レーゲンスベルグ傭兵団に合流した人が沢山いるのだと、ブレイリーは言ってた」
「……それで?」
「彼はそのことを、とても苦そうに話してくれたよ。君の行いを責めるわけではない。そういう君のことを間違っているとも言わない。だが、その根底にあるものが――そうせずにいられなかった、君の心が不安だったと」
『あいつにとって、それは贖罪だったのかもしれない』
 ブレイリーは、切なそうにカイルワーンに告げた。
『自分が存在し、生きていることを罪だと思っているあいつは、自分の命を他人の命よりもずっと軽いものだと、価値のないものだと思っている節があるんじゃないかと思えて。自分の命を投げ出し、他人の命を救うことで、贖罪を果たそうとしているんじゃないかと思えて……それが恐かった』
 彼が言いたいことが、カイルワーンにはよく判った。そして、そうせずにはいられなかったカティスの心理もまた。
 けれども――だからこそ、カイルワーンはカティスに言わなくてはならない。
「君の気持ちは、僕には判るような気がする。それでも僕は、君に言う。――カティス、君は死ぬな。誰を楯にしても、誰を見殺しにしても、君は生き残れ」
 冷酷な言葉を、カイルワーンは己の痛みと共に告げた。そしてカティスは、不快そうに――納得できなさそうに顔を歪めたが、反論はしなかった。
 そんな彼に、カイルワーンは眼下を指さす。
「あの巨大な影の全てが人だ。一人一人を視認することなんてできない。けれども、あの全てが人だ。愛しい者が、故郷で待つ者が、己の生活が、夢が、希望があるただ一人の人間だ。明日、彼らの多くが死ぬ――君の名を叫びながら。君に救いを求めるのではなく、君を讃え、君への忠節を叫びながら、明日多くの民が死ぬ」
 カティス陛下万歳――そう叫んで死んでいく者がいる。それが紛れもない現実なのだ。
「彼らと自分の何が違うのか――そう言いたい君の気持ちは判る。僕だってそう思う。だが現実に明日、君のために身を投げだし、君のために死んでいく者がいるんだ。万歳と叫び、誇りと満足を胸に死んでいく者がいるんだ。その者全てを君の手で、君の剣で、救うことはできない。ならば君がしなければならないことは一つ――生き残ることだ。彼らの死を踏んででも、生き残ることだ」
「カイル……俺は」
「安易に人を楯に使え、味方を見殺しにしろ、と言っているのではないよ。君の力で救える者は、力のかぎり救ってくれ。だが、己か他人かの選択を迫られた時、君は他人を選んではいけない。己を捨ててはいけない。一人の命を救うために君が命を投げ出したら、別の場所で君のために死んでいった者たちはどうなる。君の名を呼び、君の王国のために命を投げ出した者たちの気持ちは、どうなるんだ。それは彼らの人生と、願いに対する冒涜だ。それは君には、決して許されない!」
 カティスは瞑目した。何かを悼むように、何かに苦しむように目を閉じたまま天を仰ぎ……やがて、カイルワーンに向かって小さく頷いてみせた。
 そんな彼に――その痛みに、カイルワーンは眼下を見下ろしながら呟いた。
「重いな……君が背負ったものは」
「……ああ」
「無責任だよな。誰も君がどんな人間であるかなんて知りやしない。君が苦しんだり、痛みを覚えたりする全く同じ人間だなんて考えもしない。無責任に期待し、望み、盲従し、命を投げ出していく。君自身の気持ちになんか構うことなどなく。だがそれでも」
 目の前の五万の兵。そして背後に存在する一千万のアルバ国民。その膨大な、膨大な、無辜の民。無知で、無力で、それ故に最も大きな力を握ったその存在。
「それでも、彼らは――一千万のアルバ国民は、君を愛している。それもまた紛れもない現実なんだ。そのことを、どうか覚えていてくれないか」
 カティスは答えなかった。その瞳は一心に眼下に注がれ、カイルワーンの言葉をかみしめているようだった。
 影はほの揺れる。日は傾き、最後の夜が忍び寄る。そして夜が明ければ、戦端は開かれ、野はおびただしい血に染まる。幾多の者の、願いも、思いも、人生さえも呑み込んで。
 大陸統一暦1000年六月十日、早朝。もはや誰もが眠ってなどいない。全軍が準備を整え、進軍の合図を待ち望む。
 カイルワーンは、勿論戦闘には参加しない。幾人かの護衛と共に戦場を離脱するため、カティスの元を訪れ、別れを交わす。
 カティスはカイルワーンの贈った濃紺の半甲冑を身につけ、佇んでいた。手には戦斧を持ち、腰にはジェルカノディール公爵に贈られた長剣――装飾のない、質実な剛剣を帯びていた。
「これを頼む」
 渡されたのは、レヴェル。一人、二人と剣を交わすのならばまだしも、乱戦になる戦場ではいかにレヴェルが名剣であろうと心もとない。戦場の剣は、斬るためではなく叩くためにあるのだから、さすがにレヴェルでそれをするのはカティスでもためらわれた。
「確かに預かった」
 カイルワーンですら、素手で触ることはしない。白絹の布でくるんで押しいただき、そして長身の親友を見上げる。
 歴史は変わりはしない。彼は必ず戻ってくる。それが判っていても、心にきたすのは不安。
 それでも、見送ることしかできない。
「夕刻に、また、会おう」
「ああ」
 そして二人はお互いに背を向ける。それぞれの役割へ、それぞれの場所へと向かう。
 鼓手の、そしてラッパ手が鳴らす音が響き渡る。全軍に進撃を命じる。遠ざかりながら、カイルワーンはそれを胸の奥で聞く。
「これで満足か……神よ。我らを作った、残酷な神よ!」
 胸の中で言葉をかみしめるカイルワーンの苦痛を、その声を、汲み取れる者は誰一人としてそこにはいない。
 天より他に、聞くものとてない。

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