それでも朝日は昇る 11章2節

 戦場で幾多の命が散っていき、思いもまた散っていく。
「陛下万歳! アルバ王国に栄光あれ!」
 国軍前衛部隊右翼。自らが斬り殺した者の最期の叫びに、エスターは泣き出しそうに顔を歪めた。
 自分たちは、今まで何をしてきたのだろう。何のために戦ってきたのだろう。
 民のためだと信じていた。身分をなくし、不平等をなくし、貴族が不当に占有する富を分配してこそ、民は救われるのだと信じていた。王位という縛りがあるからこそ人は争い、それが民の意志とかけ離れたところで決定されるからこそ、争いが、悲劇がやまないのだと信じていた。
 それなのに、救いたいと真実願ってきた国民が――貧しき民が、王の名を呼びながら死んでいく。自ら王政を望み、どこの馬の骨か判らない男を王と呼び、己の命を投げ出していく。
 どうして、と叫びたかった。どうして自分たちの思いが通じないのかと。
 国軍本隊左翼。リワードは全身を朱に染め、荒い呼吸で戦場を見渡す。
 自分の周りには、自軍の兵の屍が累々と広がっている。
 この日が来ることは判っていた。あのウェンロック王を弑してしまったあの日から、とうに。
 自分が信じた人が、忠誠を誓った人が、道を踏み外していくのが判った。理想も、侯妃の思想も、本当は団長の言い訳にしかすぎないことは判っていた。一度とて誤ったことのない彼が、誤ったことを認められないばかりに招いた事態がこれなのだということも。
 だがそれでもいい、と思った。自分とエスターと、騎士団員たちは。彼のおかげで束の間の夢を見た。不遇を託ち、誰に省みられることなく打ち捨てられるしかない身の上の自分たちが、ほんの一時の楽しい夢を見られたのだ。そのために滅ぶことになったのだとしても、本来遂げるはずだった惨めな一生を思えば、それでも幸福な最期だろう。
 だが、とリワードは思う。そのために巻き込んでしまった者のことを、犠牲になった者のことを思えば、胸の奥の良心が痛む。
 彼らは、何のために戦ったのだろう。何のために生きたのだろう。それは国軍に雇用された兵士だから? 我々に逆らえなかったから? それとも、我らに正義があると感じたから?
 判らない。判らないが、すまない、とは思う。
「リワード様」
 不意にかけられた声に、リワードは顔を上げた。そしてそこに佇む老練の騎士の姿に目を見張る。
 ブライアクレフ老男爵の側近は、乱戦の戦場を自分を探して走り回ったのだろう。汗だくになりながらも、馬上からリワードに手をさしのべる。
 その意味。
「お館様が、すまなかったと……そうリワード様に、伝えてくれと」
 苦渋に満ちて震える言葉に、リワードは静かに首を横に振った。
 今なおその手を差し伸べてくれる優しさに、リワードは胸が詰まる。実父ですらそれほどの優しさを示してくれたことは、一度とてなかったのに。
 だけど――だからこそ、その手は、取れない。
「義父と、母に、伝えてくれないか。私こそすまなかったと、感謝していると、リワードが……リワード・イントリーグがそう言っていたと」
 あまりにもよくできた、男爵自慢の継子の訣別の言葉を、家臣は重く受け止めた。無言で一礼をし、駆け去っていく騎士を見送り、リワードは何とか空馬を捕まえる。
 退くしかない。そう思った。そしてそれをフィリスに進言し、説得できるのは、おそらく自分以外にはいない。
 国軍本隊右翼は、革命軍前衛左翼と衝突していた。フィリスはそこで、左翼隊を統帥する将帥に遭遇した。
「無残な姿だな、フィリス」
「ジェルカノディール公爵……」
 アルバ随一の大貴族は、吟遊詩人もかくやと思わせる容貌を全く損なって、そこに立っていた。銀の髪は振り乱し、手にしているのは無骨極まりない戦斧。だがそれにまとわりついた血と肉が、彼の戦果を語る。
 汗と血と泥で汚れた顔に紛れもなく浮かぶ喜色は、凄惨極まりなく、だからこそ彼は人を惹きつける力を持っているようだった。
「ここでお前を潰せば、終わりだな。陛下に余計な手間をかけさせずにすむ」
 ぶん、と風を切る音がして、戦斧が振り下ろされた。重いそれを軽々と振ってみせる公爵に、フィリスは騎士としての名乗りを上げることもなかった彼が、どれほどの体力と技能の持ち主であるかを悟る。
 型も何もない、人を殺すための剣。それは騎士よりも、遥かに傭兵に近い。
 すんででその一撃をかわすと、自分の諸手剣を構えて、フィリスは問う。
「どうして、貴様ほどの大貴族が、どこの馬の骨か判らない男に臣従を誓った! レオニダス王の庶子だという戯言を、貴様ほどの男があっさりと認めたというのか!」
「陛下がどこの誰であろうが、関係などないのだよ。先王の子であろうがなかろうが、そんなことは関係ない。おそらくは、大部分の貴族にとっても、民にとっても、そうではないのかな」
 飄々として答える公爵に、フィリスは苛々しながら叫ぶ。
「ならば、なぜ!」
「判らないか、フィリス」
 がっ、と鈍い音がして、諸手剣が戦斧の一撃を受け止めた。渾身の力でぶつかり合い、組み合いながら、公爵は告げた。
 フィリスの根底に、敗北を告げる言葉を。
「陛下が、英雄だからだ! 民が国の重みを自分たちで等分に分かち合うのではなく、一人の人間に負わすことを選んだから――救世主という名の犠牲者を欲したから、己を捧げた陛下と閣下を民と我らは全力で支えるんだ! 英雄とはそういう存在なのだと、お前には判らないか!」
 一瞬の動揺が、勝敗を決める。戦斧は諸手剣を弾き飛ばし、公爵の顔に笑みが閃いた。
 振り下ろされる戦斧の軌跡をフィリスが脳裏に思い浮かべた瞬間、荒々しい斬撃の音が割って入る。
 捨て身で突進したリワードとバーナビーが、公爵の戦斧と自身を弾き飛ばす。
「団長!」
「退却の命令を! これ以上は無理です!」
 すかさず態勢を立て直したリワードが、フィリスに駆け寄り叫ぶ。自失の態にある彼の頬を叩き、胸ぐらを掴んだ。
「貴方がここで死んだら、誰が城の侯妃をお守りするんです! そうでしょう、団長!」
 詭弁だと判ってはいた。だがそれしか、フィリスを建て直す言葉はない。
 フィリスは、今まで一度も見せたことのない弱々しい表情で、小さく一つ頷いた。
 革命軍前衛右翼、最大の火力を持つ最強部隊は、ある弱点を抱えていた。これ一つを落とせば終わり、という致命的な弱点が。
 だがそれこそが最強の証であり、うねる士気の中心であることを、誰もが自覚している。
「陛下!」
「陛下万歳!」
「我らが英雄王に栄光あれ!」
 もはや戦場の兵たちは、カティスを殿下とは呼ばない。彼らにとってもはやカティスは至尊の存在――王以外の、何者でもない。
 すでにカティスは、戦斧を放り出していた。少しは軽い長剣に持ち替え、向かってくる兵をその刀身で叩き潰す。
 ぐしゃり、とひしゃげる人の形。砕け散り、飛び散る血と肉。
 重い。全身が、心が叫んでいる。それが身につけている甲冑のせいでも、捨てた戦斧のせいでも、ましてや疲労のせいでもないことを、カティスはよく判っている。
 重い。重くてたまらない。
「陛下っ!」
 悲鳴が上がった。一人を屠る間に、背後から敵兵が忍び寄ってきていることに気づかなかった。一瞬の隙をついて振り下ろされる刃。
 思わずカティスは身を強張らせ、目を閉じ、そして。
 吹き出した血が、飛沫が、カティスの頬に降りかかった。
 大きく手を広げて、自分と敵兵との間に立ちはだかった歩兵の体が、ぐらりとかしぐ。
「うおぉぉぉぉぉっ!」
 地を蹴ったカティスの一撃が、敵兵に叩き下ろされる。どう、と音をたてて転がるのは、自分の楯となって死んだ味方と、自分が叩き殺した敵兵。
 どちらも、アルバの民。どちらも、ただ一人の人間。
「陛下、ご無事で!」
「陛下!」
 叫びが耳にこだまする。酸いものが喉元までこみ上げる。けれども何もかもを呑み込んで、カティスは手にした剣を振り上げる。
 今は泣くことも、悼むことも許されない。自分のために失われた命でさえも。
 その頃、一方的な展開となっている戦場を、遠目で眺めて佇んでいる機影があった。
 どうしたらいい。ラディアンス伯爵エルムショーンは、ただその言葉を胸の中で繰り返す。
 耳に甦るのは、賢者の言葉。
『僕とカティスは君に、全軍の命運を預けた。僕たちが国軍に勝てるかどうかは、君の手に委ねられている――他ならぬ君の手にだ。それがどうしてなのか、君ならば判るはずだ』
 判らない。自分にはその言葉の意味が。
 王位は目の前にあった。レオニダス王がウェンロック王以外の子を残さずに死去した瞬間から今まで、それに向かって邁進してきた。その道より他に、自分にはなかった。
 それなのに、目の前では予想もしない光景が繰り広げられている。
 それが不快だった。信じ難かった。受け入れられなかった。
 だが――。
 ここでカティスを殺して。革命軍を敗北に追い込んで。それで?
 その先は?
「お館様、どうなされるのです。お館様!」
 側近の焦りに満ちた言葉に、ぎり、と彼は唇を噛んだ。腰の剣を引き抜き、手綱を握りしめて、有らん限りに叫ぶ。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 君主の絶叫と突進に、家臣と兵たちは続く。走り、辿り着く先は退却を始めている国軍。その真横。
「あれが我らの敵なり!」
 この瞬間、イプシラントの戦いは終結した。

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