それでも朝日は昇る Ending(2)

 大陸統一暦1005年九月二十七日。それは何の変哲もない一日で終わるはずだった。
 深夜、カイルワーンが自分の寝室を訪ねてくるまでは。
「なんだ、カイル。こんな遅くに」
 カイルワーンは、自分の許可さえあれば、この部屋まで立ち入ることを許されている。火急の相談があると衛兵に取次を頼み、訪れた彼は、ひどく寂しそうな――だがどこか、晴れやかな顔をしていた。
 長い間背負っていた重荷から解き放たれたようだ、と感じた。
「君にも何も言わないで行こうかとも思ったんだけど、それじゃあんまりだから、来た」
「……なに?」
「別れを言いに来た、カティス」
 突然の言葉に、カティスは一瞬、彼が何を言ったのか、その意味が判らなかった。
「……どういう意味だ」
「僕は今から、この城を出ていく。そして二度と戻る気はない。……戻ることは、できない」
 頭の芯を殴られたような、そんな錯覚を覚えた。誰からそれを告げられたとしても、これほどは驚かない。愕然として言葉もないカティスに、申し訳なさそうにカイルワーンは笑った。
「後のことは、万事を君に任せる。君が一番いいようにしてくれればそれでいい。汚名なら、消える僕にかぶせろ。君が負うことは、ない」
「冗談じゃない!」
 思わず叫びが漏れた。何もかもが、信じられなかった。
「それが歴史に刻まれているからか? 今日、賢者カイルワーンが城から消えることになっているから、お前は出ていくというのか? そんな、そんな馬鹿なこと!」
「それは違うよ。確かに今日僕がここから消えることは、歴史に刻まれていることだ。消える日を今日にしたことは、確かに歴史の定め。だけどそこに理由は、ちゃんとある。時を越えてすぐの時には判らなかった。だけど今になれば、ちゃんとその理由はあるんだよ。そしてこの形が最善だと、僕も思うんだ。……それは僕の我が儘に過ぎず、国と、王としての君のこれからを考えれば、お世辞にもいい方法だとは言えないけれども」
「だったら、どうして!」
 苛々と叫ぶカティスに、静かにカイルワーンは告げた。
 ひどくやるせない、痛ましい顔をして。
「カティス、君はもうその理由に気がついているはずだ」
 言われた瞬間、全身に痺れが走ったような、そんな錯覚に捕らわれた。
 全身が、音が聞こえるほどはっきりと、震えた。
 そう、本当は判っていた。カイルワーンがなぜ、今消えようとしているのか。
 消える理由を歴史に残さないためには、消えるしかないからだ。
 それが歴史に残れば、カイルワーンは自分に出会った瞬間に桁外れの絶望に捕らわれることになる。生きる希望の芽を、摘むことになる。
 そしてその、消える理由。
 本当は判っていた。この五年間の彼を、ずっと見てきたのだから。
 だけど認めたくなかった。止める手だてを、打つ手だてを、何一つ見いだせなかった。だから見ないふりを、気づかないふりをしてきた。そしてそれは、廷臣たちも一緒。誰もが判っていながら、真実を彼の口から告げられるのが怖くて――自分の恐れを認められるのが嫌で、誰もが口を閉ざしてきた。
 だが本当は誰にも、この日がいずれ来ることが判っていたのだ。
「もう……駄目なのか」
 かすれたカティスの問いかけに、カイルワーンはただ頷いた。
「他に、方法はないのか」
 助けを求めるような声に、カイルワーンは答えなかった。答えられなかったのだと、カティスは悟った。
 行かせるしかないのだ。カイルワーンがアイラシェールを見送るしかなかったように、自分も彼を見送るしかないのだ。それがどれほど苦痛でも、それがどれほど耐え難くても。
 それしか、ないのだ。
「カティス、君に一つ、預言を残していく。僕の最後の預言だ」
 カイルワーンは笑い、全ての願いを込めるように告げた。
「君はアイラがいることから判るように、いずれ妻を迎える。いずれアイラにつながっていく、君の子を産む女性だ。その人のことを、僕はよく知らない。彼女のこともまた、歴史には何も残っていないんだ。だが僕はその人が、君を理解し、君を支え、君の慰めになってくれることを信じて疑わない」
「俺の……妻」
 問い返すカティスに、小さくカイルワーンは頷いた。
「どうか彼女に伝えてくれないか。カイルワーンがよろしく言っていたと。カイルワーンが、カティスのことを頼むと、そう言っていたと。彼女ならばきっと、全てを判ってくれる――そう僕は信じている」
 自分のことを頼む、そう言うカイルワーンの心境はカティスにも判っている。自分が決して強くはないことを、唯一身をもって知っているのがこの目の前の親友だった。そしてそれをさらけ出すことが許されるのも、ただ一人彼だけだった。
 そのたった一人の人を、今自分は失う。それなのに、何もできない。
 何も、言ってやれない。
「これから二百年が過ぎれば、また僕は生まれてくる。そしてまた時の鏡に運ばれて、この時代にやって来るだろう。その僕を、レーゲンスベルグ街道の山中で最初に見つけて、揺り起こしてくれるのが、君であることを、僕は心の底から誇りに思う」
 それが別れの言葉だと、カティスには判った。
 行かないでくれと言いたかった。
 最後までそばにいてくれと言いたかった。
 泣いて駄々をこねても引き止めたかった。力ずくで閉じ込めたっていいと思った。
 だがそれは、できない。できないのだ。それが、判る。
 だから、カイルワーンが差し出した手を、握るしかなかった。強く、強く、握るしか。
「僕は何も覚えていない。君も何も知らないだろう。次に出会う僕たちは、僕たちであってそれでも同じ僕たちじゃない。僕たちはそれぞれが一人であって、それぞれ自分だけの人生を歩んだ。それでも、それでも言わせてくれないか、カティス」
 強く強くその手を握り返し、カイルワーンは言った。
 その最後の言葉を、黒く濡れた瞳で。
「また、会おう」
「……ああ」
 そして、握りしめられた手は、名残を惜しんで、離れた。
 もう二度と、握り合わされることは、なかった。
 それから二ヶ月ほどが過ぎたある日のことだった。カティスは夢を見た。
 荒れ野に、小さな骸が転がっていた。
 見すぼらしい身なりの、痩せこけた骸が一つ、ぽつんと荒野に転がっていた。
 骸は鳥がついばみ、腐って溶け、骨が見えていた。葬る者とてない一面の荒野の中で、骸は次第に大地に還っていく。
 そんな、何の脈絡もない夢だった。
 だが、目覚めた瞬間、気持ちが不意に落ちた。
 その瞬間、ひどく納得してしまったのだ。
 ああ、らしい、と、脈絡もなくそう思ってしまったのだ。
 嗤いたくなって、嗤いたくなって仕方がなかった。
 カティスは寝台の上で、声を上げて嗤い続けた。声が嗄れ、喉が潰れるほどに、ただ独り嗤いつづけた。
 涙が、後から後から流れ落ちた――。

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