それでも朝日は昇る Ending(1)

Ending ―大陸統一暦1007年―


 それから、七年の歳月が過ぎた。


 大陸統一暦1007年六月、アルベルティーヌの城下町には活気がみなぎっていた。行き交う市民たちは感謝と親愛の念を込めて、そびえ立つ城の尖塔を見やり、そこに住まう彼らの王を讃える。
 新王即位後巻き起こったセンティフォリア、ノアゼットとの三国戦争は、五年後の1005年、二国の併合というアルバにとって最も輝かしい戦果を残して終結した。その直後に起こった、要職にある人物の失踪という不可解な事件――混乱も乗り越えた。そうして二年。アルベルティーヌは復興からさらなる発展へと向かおうとしている。
 そんな人々に唯一不安があるとすれば、今年三十三になる親愛なる彼らの王が、一向に王妃を迎えようとしないことだ。やれ隣国フェディタのお姫様が選ばれたの、いや忠臣の令嬢を気に入っていて、彼女が成人なさるのを待っているらしいのと盛んに噂はされるものの、どれ一つ信憑性のあるものはなく、また側妾の一人を置く気配もなく、臣下だけでなく国民までやきもきさせている。
 そんなアルベルティーヌの下町――貧民街とも言うべき界隈に、子供たちが集まっていた。そしてその中心に、一人の女性が座っていた。
 長い黒髪を流し、琥珀色の大きな目をした、褐色の肌の女性。木箱に腰をかけ、手には見事な艶のあるリュートを手にしている。
「ねえ、ベリンダ、もう一曲お歌を聴かせて」
 子供の願いに、女性――ベリンダは、にっこり笑うと撥を手にした。
「そうね、じゃあこんな歌はどう? 今は意味が判らないかもしれないけれども、あなたたちが覚えていてくれて、大きくなってから思い出してくれれば……いいな」
 ぴん、と鳴る弦。明るい曲調の上にかぶせられる張りのある歌声。

   深い森の奥深く 小さな小屋がありました
   小さな小屋の小さな部屋に 大きな鏡がありました
   青い鏡は魔法の鏡 くぐった者に魔法をかける
   見えたものは何でしょう それは願った遠い時
   見えたものは何でしょう それは己の明日の朝
   雪白の姫は夢を見る 青い鏡のその前で
   遠いあの日に行けたなら 己を解く道あるだろか
   愛しいあの人救う道 見つけることができようか

 歌っていたベリンダは、ふと視線を感じて顔を上げた。自分を取り囲んでいる子供たちの後ろに、自分を一心に見つめている男がいた。
 堂々とした体躯。上等とは決して言えない服装で、腰に剣を下げているから、傭兵か何かだろうか。だが金の髪と、珍しい緑の目のせいか、とても華やかな印象を受けた。
 この近隣には見えない顔――ふさわしくない気配のする男。
 手が、止まった。
「あなたは?」
「……お前の言うことは真実だ。誰が知らなくても、俺だけはそのことを知っている」
 男の言葉に、ベリンダの息が止まる。そんな彼女に、男は静かに続けた。
「だが真実を明らかにすることだけが、正しいことではない。そしてそれは、彼女の本意でもない」
 真っ直ぐにベリンダを見つめて、男は告げた。
「ベリンダだな……探した」
 その男の一言に、ベリンダは確信した。
 そんなことがあっていいはずもない。確証もない。だが彼女の勘は、一つの答えしかもはや紡ぎはしない。
 今の歌の意味。そこに込められた真実を知ることのできた者――その可能性があった者は、一人しかいない。
 怒りに、朱が顔に登る。
「あなたが? この私を? 魔女の残党として処分するため? ええ、カティス陛下!」
 ベリンダの叫びに、子供たちと通りすがっていた大人たちが、一斉に彼に視線を向けた。
 正体を身明かされたカティスは渋い顔をすると、気まずげに呟いた。
「もうばれたか……騒ぎにしたくない。ベリンダ、城に来て、俺の話を聞くつもりはないか」
 その言葉に、周囲の大人たちは一斉に悲鳴を上げて平伏し、子供たちの頭を掴んで押し下げた。だがそんな周囲の様子を一切意に介することなく、ベリンダは言い放つ。
「あなたが何を私に話すというの! あの子を――罪もないあの子を魔女にした、あなたが!」
 ベリンダはいきり立って叫んだ。敬意は浮かばない。不遜だという思いも浮かばなかった。心に浮かぶのは、この七年のこと――この七年の間に、貶められるだけ貶められた、彼女の愛する人の名誉のこと。
 尊称は消された。魔女と呼ぶことしか許されず、街にはありもしない悪評が蔓延し、むしろ王朝がそれを煽り立てた。前王朝の問題は、矛盾は全て魔女の名の下彼女のせいにされ、新王朝が負うべき不満はそらされた。民は困窮の中、彼女の救済によって生き延びたことも忘れ、彼女を罵り、そして後から来た王を讃えた。
 これが英雄のすること――これが、アイラシェールがあれほど会いたいと願い、そのために命を捨てた英雄。そう思うだけで、はらわたが煮えくり返るというのに。
「それに関しては、何の反論もできないな。一言も弁解できはしない」
「あなたは真実を知っていると言った。私の歌の意味も判っているのでしょう? それならばどうして、そんなひどいことができるの? あの子が何をしたっていうの?」
「それが彼女の、最後の望みだったからだ。それを俺は――俺たちは、お前に伝えなければならない。だから、探した」
 悪びれずに言うカティスに、ベリンダは愕然とする。
「何ですって……」
「知りたくないか? お前と別れた後に、彼女に何があったのか。彼女の最後の望みが、俺たちに残した言葉が何だったのか」
 真っ直ぐに自分を見つめるカティスに、ベリンダはアイラシェールの形見のリュートを握りしめて言った。
「……行くわ」
「それならば一緒に来い。この先に馬を預けてある」
 平伏している人たちに構わず、カティスはベリンダの腕を取ると、先に立って歩き出す。
 宿の厩で待っていたのは、見事な黒馬。カティスは先に跨がると、馬上からベリンダに手を差し延べる。
 触れた手は節くれだっていて、高貴な人間の手とも思えぬ荒れた感触がした。
「俺はあんまり馬が得意じゃないからな。振り落とされないよう、しっかり捕まってろよ」
 言って、カティスは馬を走らせる。宣言した通りの荒っぽい走りに、ベリンダは思わずその胸にしがみついた。――それは彼女にとって、極めて不本意なことであったけれども。
 馬はアルベルティーヌの市内を走り抜けて、真っ直ぐに城を目指す。大門の前で馬を止めると、門番は目を吊り上げた。
「陛下! また城を抜け出されたのですか! おやめくださいと私どもが何度――」
「説教なら、後で聞く。どうせ城に着けば侍従連中がやかましく言ってくるさ。それより、今日は大事な客が一緒だ。急ぎだから、怒られるのを承知でこっちから帰ってきたんだ。だから、とっとと開けろ」
 うんざり、と言った態で命じるカティスに、門番は無言で門扉を開く。前庭を進んでいく馬上でベリンダは、呆れたように言った。
「……そんなに抜け出しているの、王様が。呆れた」
「あの城に始終いたんじゃ、息が詰まるんだよ。たまには息抜きぐらいさせてもらったっていいだろ。お前を探さなければならない事情もあったし。――まあ、俺が直で見つけることになるとは思ってなかったけどな。まさか、こんな足元にいるとは思わなかった」
 ため息をもらすカティスに、ベリンダは不思議な感慨を抱く。
 英雄王カティス――誰もが憧憬と敬意を持って口にする名。そして彼女が今まで恨んできた人。その実像は、彼女の想像とあまりにもかけ離れている。
 車寄せでは、侍従らしい一団が待ち構えていた。一様に怒りに似た険しい顔つきをしながらも礼を取り、そして問いかけた。
「こちらの方は?」
「俺の個人的な――だが、大事な客だ。客間に――そうだな、『銀嶺の間』に通しておいてくれ。あと、何か飲み物と食い物もな。くれぐれも言っておくが、失礼のないように」
「……承知しました」
「悪いな。俺はどうやら、これから説教みたいだ。できる限り早めに切り上げてくるから、おとなしく待っていてほしい」
 すまなさそうに語るカティスに、ベリンダは険しい表情のまま、言い放つ。
「逃げたりしないわ。やけを起こしたりもしない。私はまだ何も聞いていないもの」
「……その通りだ。それではまたな」
 急かされるように――むしろ引っ立てられるように城の奥に消えていくカティスを見送るベリンダに、城の下官が声をかける。
「それでは、こちらに。ご案内します」
 案内されなくても判る、と言いたかったが、その言葉は呑んだ。自分が城の者たちに警戒されているのが、痛いほど判ったからだ。
 『銀嶺の間』は王宮の奥にある。元の後宮にほど近い――それは、王の居室にも近いことを意味する。客間としては格式は高いが、ごく私的な客人や家族をもてなすための部屋といっていい。ウェンロック王の時代には、あまり使われることのなかった部屋だ。
 そこに通されたベリンダは、生活感の感じられる、今のその部屋の有り様に驚いた。そこはもう客間ではない。人一人が、確実に住んでいた部屋だ。
 大きな机。本が、そして紙を綴じた綴りが幾つも並んだ大きな棚。不思議な置物の数々。
 だがそれでも、すでにここに住人が存在していないことは、ベリンダの目にも明らかだった。掃除が行き届き、整えられながらも、そこが朽ち始めているのが判った。
 主不在のまま、いつでも使えるようにと整えられ続ける部屋。
 ここで誰が暮らしていたのか、ベリンダには薄々判った。だがそこに、なぜ自分を通したのかが判らない。
 カティスが現れたのは、日が暮れてからだった。簡素な――だが、格段に先程着ていたのよりは上質な部屋着をまとって現れた彼は、ベリンダを見て笑う。
「待たせて悪かったな。ここの連中は、説教し出すと長い」
「主君であるあなたに、説教をするの?」
「人の言うことも聞けない王なんてろくでもない、と言ったら、こうなった。身から出た錆だが、こう長いとさすがに辟易する」
 籐椅子に腰を下ろすと、カティスは対面のそれをベリンダに薦めた。臆することもなく王の向かいに座り、ベリンダは意を決して問いかける。
「それで、一体あなたは、アイラの何を話そうというの?」
「その前に、これに見覚えはないか?」
 言って、カティスは胸元を探る。引き出されたのは、金の鎖――その先には、小さな見すぼらしい指輪。
「そ、れは……」
「アイラシェールの遺体から、カイルワーンが見つけたものだ。言っちゃ悪いが、粗末なものだ。これを彼女に贈ったのは、間違いなく富裕な人間じゃない。だからこそ、彼女を大切に思っていた人間が贈ったのだろう、と俺たちは結論を出した。そして、俺たちはエルフルトからお前に行き当たったわけだ。それを贈ったのは、お前と一座の人間に違いないとな」
 手を伸ばして、カティスは鎖ごとベリンダに指輪を渡す。それを震える手のひらで受け止めて、ベリンダは見つめた。
 それは別れの日に彼女に贈った品だった。貧しい自分たちの精一杯。それを彼女はあの最期の瞬間まで、持っていてくれた。そしてそれを、カティスが持っていた――鎖に通してまで、肌身離さず身につけていた。
 それは、なぜ――。
「お前にやる――いいや、返す。それはお前が持っているのが一番いいはずだろう。多分アイラシェールもカイルワーンも、そうしてほしいと願っているはずだ」
 穏やかな笑みをくゆらせるカティスに、ベリンダは動揺も露な顔で問いかけた。
「どういうことなの……? 判らない。あなたは何を考えているの?」
「判らないだろうな。そのためには長い話をしなければならないから……聞くか?」
 当然、とばかりに頷くベリンダに、カティスは告げた。
 何よりもそのただ一言を告げるために、彼女を探した――その最も大切な事実を。
「ベリンダ、アイラシェールはカイルワーンに会ったんだ。今際の際――そのぎりぎりで」
 言った意味が判らない、とばかりにきょとんとするベリンダに、カティスは悪戯っぽく笑う。
「判らないか? 聞いたことはないか? アイラシェールが誰よりも愛していた男のことを――その名を」
「それが、どういう……あ」
 言いかけて、その瞬間気がついた。その一瞬で、驚愕が来た。
 アイラシェールが時を越えられたのならば、カイルワーンだって越えられたのかもしれないのだ。そのことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
 呆然と、ただ呆然と口を押さえ、ベリンダは佇む。見張った目からやがてこぼれ落ちたのは、涙。
 それは悲しみの涙ではない。
 嬉しかった。ただ嬉しかった。
 彼女は会えたのだ。あんなにも焦がれた彼に――あのカイルワーンに。
 それだけで、そのことを知れただけで、例えようもなく嬉しかった。
「アイラは……喜んでたでしょう」
 カティスは優しく微笑む。それだけで、胸のわだかまりが溶けていくような気がした。差し出されたハンカチを遠慮なく受け取り、涙を拭うと、ベリンダは笑った。
 そんな彼女に、ふと表情を落としてカティスは告げた。
「アイラシェールが時を越えてきたことを知っているのならば、お前は何もかもを知っているのだろう? 決して変えることのできない運命の存在を。あらかじめ知らされた、外すことのできない歴史の軌道のことを」
「……ええ」
「アイラシェールが『魔女』という運命を背負っていたように、カイルワーンは『賢者』という運命を背負っていた。どれほど彼女を愛そうと、どれほど彼女を救いたいと願っても、彼女を滅ぼすことしかできない運命をだ。それに奴がどれほど悩み、苦しみ抜いたのかは、アイラシェールの傍らにあったお前ならば予想がつくだろう? そしてそれがどれほど抗おうが、抗うことのできないものであるかも」
「よく、判るわ」
 共感をもって、誠心誠意でベリンダは答える。そしてそんな彼を横で見ていたカティスが、どんな思いを抱いたのかも、また。
 ベリンダはカイルワーンではなく、何よりカティスに共感した。
 運命に苦しむ者を横で見ていた者の――見ていることしかできなかった者の苦痛は、誰よりも自分がよく知っている。
「それでも会いたいと願い、カイルワーンはあんな形で城の門をこじ開けた――あれ以外、一介の平民の俺たちに、城の門を開けることはできなかった。その結果、俺たちはアイラシェールを死に押し出した――定めの通りにな。運命の遂行か、それとも破滅の確率が高い変革か。選択を前に、アイラシェールは運命の遂行を望んだ」
 カティスはもう遠くなってしまった日のことを思い、微かに目を細めた。
「もう一度時を回し、カイルワーンに未来で出会いたい。たとえ同じ結末しか迎えられなくても、もう一度出会い、わずかな時間でも共に生きたい――それが彼女の最後の望みだったから、そのために彼女は運命に殉じたから、俺たちもまた己の役割を遂行した。未来の彼女が再び己の運命を呪い、運命を変えるために過去に来ようとするよう、彼女を呪われた者とした」
 こくり、と言葉もなくベリンダは頷く。全ての疑問がこれで、解けた。
「これが弁解だってことは、判ってる。俺たちがしていることが、彼女を慕った者たちからみれば、とても許せるものじゃないってことはな。いくら彼女が望んだからと言い訳したって、俺たちにとって都合のいいことなのは確かなんだから。だが俺はそれでも、お前には知ってほしかった。お前が彼女の運命を知っているかもしれないと知った時、そう思った。アイラシェールが最後に、どれほど嬉しそうに笑ったのか――カイルワーンに向かって、どれほど嬉しそうに笑って、それに奴がどれほど嬉しく応えたのか。それだけは、お前に知っておいてほしかったんだ。そしてこの指輪を――彼女の形見を返し、一度なりとも彼女の墓を参らせてやりたかった」
「墓? アイラの墓が、あるの!」
 驚いて叫ぶベリンダに、カティスは頷く。
「誰も知らない。知っているのは、俺とカイルワーンだけだ。だがあの日、アイラシェールの遺体を拾った俺たちは、城の奥、人目のつかない庭に埋葬し、後でそこに碑を建てた。表向きは、この戦役で犠牲になった者の供養碑ということになっているが、俺とカイルワーンの間では、あれはアイラシェールの墓だ。……明日の朝にでも、花を手向けていくといい。俺も毎朝必ず行くことにしているから、よければ案内しよう」
 信じられない、とばかりにまた目尻に涙を浮かべるベリンダに、カティスは嬉しそうな笑みを浮かべて手を伸ばし、肩に手を置く。
 その手はじんわりと温かさを伝えてくる。それが震える心に、ひどくしみた。
「ありがとう……喜んで」
 謝意を述べるベリンダに、しみじみとカティスは言った。
「会えてよかった。探した甲斐があった。カイルワーンには間に合わなかったが、それでも……俺だけでも、会えてよかった」
 その言葉は、ベリンダの心に疑問をもたらした。それは誰の胸にも――アルバ国民誰しもの胸にある疑問。それが沸き上がってきて、胸に迫る。
「聞いて、いい?」
 ベリンダは問いかけた。何だ、とばかりの表情をするカティスに、彼女はためらいがちに問いかける。
「答えられるのならば、で構わないけれども……カイルワーン閣下は、どうしてここからいなくなってしまったの?」
 その問いかけに、カティスは沈黙した。そんな彼に、ベリンダは率直な胸の内を語った。
「話を聞いていて、私、よく判ったの。あなたがカイルワーン閣下のことを心から大切に思っていたことも、だから彼が愛していたアイラのことも、こんなにも思ってくれるのだということも。そんなあなたと、彼の間に、一体何があったの? 未来から来たというとんでもない話を打ち明けてもらえるほどの間柄であったあなたたちが、街で言われるように喧嘩別れしただなんて、私には考えられない」
 カティスは天を仰いで瞑目した。深いため息をもらし、やがてベリンダを見ると、沈んだ声で言った。
「決して他言しないと約束してくれるならば」
「命に誓って、約束するわ」
 そうしてカティスは、二年前のあの日のことをとうとう口にした。寵臣たちにすら決して明かさなかった――だが彼らは薄々気づいている真相を。

Page Top