それでも朝日は昇る 2章8節

 塔の屋上から、その火はとてもよく見えた。慄然として立ち尽くすアイラシェールの肩を、強く抱きしめてコーネリアは諭す。
「何も考えない。馬鹿なことは考えないのよ! とにかくあなたはカイルワーンを待ちなさい。誰を信じなくても、誰を裏切っても、カイルワーンのことだけは信じなさい! カイルの気持ちだけは裏切ってはいけない。いいわね!」
 火が揺れる。王宮を、塔を――自分をなめつくそうと近づいてくる。
 私は――震える声で、アイラシェールは己に聞く。
 私は、どうしたらいい?
 どうしたら――。


 アルベルティーヌは、この日以来刃の上の緊張に包まれた。
 イントリーグ党は連日市民の煽動を続けた。街中に点在する広場では大小様々な規模の集会が開かれ、第三王女の秘密が暴露された。また同時に、王室の打倒と貴族制度の撤廃が声高に叫ばれた。
 我々の納める税を搾取し、奢侈に耽溺するのみならず、その金で魔女を隠匿し養い続けた王と王家を、決して許すな――と。
 首都防衛大隊一師団は、懸命に事態の鎮圧に当たり、市民と衝突寸前になっている。しかし噂を聞きつけて、アルベルティーヌに流入してくる民衆の流れは止めようもなく、師団は絶対的に兵力が足りなかった。また自らも多くの脱落者を出し、彼らはそのまま民衆の中に加わっていった。
 結局国軍の兵士も、同じアルバの国民だった。市民も兵士も、胸の中には同じ呪いの楔を打ち込まれている。
「……二百年前も、こうやってアルベルティーヌは落ちたのかしら」
 ぽつり、と呟いたアイラシェールに、カイルワーンは何も言えなかった。
 二百年前、籠城戦を構えた魔女に、アルベルティーヌ市民は従わなかった。街を包囲し、解放戦を仕掛けた英雄王と賢者の呼びかけに応えて街の中から蜂起し、国軍を破った。
 今またそれが繰り返されようとしているのだろうか。
 二百年前も、今も、アルバの国民は叫び続ける。
 魔女を、許すなと。
 魔女を、殺せと。
 だが、とカイルワーンは思う。だが、と。
「君は魔女じゃない」
「カイル――」
「何度だって言う。君は魔女じゃない!」
 二百年前、魔女はそれだけのことをした。王を殺し、国政を専横し、民を虐げた。
 魔女はそれだけのことをしたのだ。滅ぼされるに値することを。
 けれども、今、アイラシェールが何をした。
 彼女が、一体、何をしたというのだ。
 声を限りに叫びたかった。けれども、たとえ叫んだとしても、その声は届かない。
 決して、届かないのだ。
「一月の辛抱よ、アイラ」
 コーネリアは不安に揺れる彼女を、そう慰めた。
「センティフォリアとノアゼットに派遣した国軍がアルベルティーヌに戻れば、暴動は一気に鎮圧できる。それまでの辛抱よ」
 それが王と閣僚たちの見通しであることを、アイラシェールは悟った。アルバ国軍最高の戦力と装備を保持する彼らならば、確かにそれは可能だろう。
 だが、とアイラシェールは思う。だが、と。
「カイルワーン……」
「なんだ、アイラ?」
「もしも、ね。もし」
 できるだけ感情を押し殺した震える声が、絶望の言葉を告げた。
「もしセンティフォリアとノアゼットへの派遣軍が――その大部分が、イントリーグ党に走ったら……その時は、私を置いて、逃げて」
 その言葉に、カイルワーンは血の気をなくした。
 そしてその危惧は、的中する。


 その日王の私室には、オフェリアとエリーナの二人の王女が呼ばれた。
 その数刻前にもたらされた報告は、王たちを、廷臣を、そしてアルベルティーヌ城の全ての者たちを震撼させた。
 ――急の知らせにより、アルベルティーヌへと引き返していたセンティフォリア・ノアゼットへの派遣軍の将帥たちが、アルベルティーヌを目前にして暗殺されたと。
 そしてクーデターを行った者たちは、そのまま全軍を掌握し、装備も解かぬままイントリーグ党に走ったと。
 突如味方となった軍勢を、市民たちは歓呼の声で迎え、とうとう防衛大隊と衝突したと。
 その時、誰もが思った。
 もう、終わりだ、と。
「遅れました、父上! 部下の報告を受け取るのに手間取って」
「姉上、その格好は何ですの」
 飛び込んできたオフェリアの姿を見て、エリーナは仰天して聞く。
 何故ならばオフェリアは、深い茶色の乗馬服を身につけていたからだった。
「あいにく、これ以上に動きやすい服はなかったの。こういう時、女ってあまりにも不便だわ」
 長い髪をぞんざいに一つに束ね、動きやすさを最優先にしたオフェリアの装いは、彼女の決意を示していた。
「父上、エリーナを脱出させましょう。どう転ぶにせよ、王宮はもう安全ではありません」
「お前は」
「私は引けません。何しろ、王太子ですから」
 にっこりと笑って言う娘に、父は苦笑して頷いた。
 彼女の決意を翻させることは、できそうになかった。
「行け、エリーナ。近衛師団の騎士が付き添っていく」
「……どうして」
 ぽつり、とエリーナは呟いた。
「どうして、こんなことになってしまったの……」
「それは……」
 返答に詰まるオフェリアに、静かにぶつけられた声。
「それは、私を含めた歴代の王が、アルバに課せられた『負の遺産』に立ち向かおうとしなかったからだ。そのツケが、とうとう回ってきた。ただそれだけのことだ」
「父上……」
 泣き出しそうなエリーナに、オフェリアは頬に口づけをすると明るく言った。
「エリーナ。すべてうまくいったら、また一緒に午後のお茶をしましょう」
 こうしてエリーナを送り出すと、王と王女は厳しい表情で向かい合った。
「いよいよ、か……」
「革命の気配は、確かに城下で燻っていました。イントリーグ党が勢力を伸ばしていたことも、それをくい止めることができなかったことも事実です。ですがまさか、アイラシェールを利用するなんて……」
 城下を探っていた部下の報告を聞いた時、オフェリアは愕然とした。
 青薔薇の旗を掲げ、市民に蜂起を呼びかけるイントリーグ党の活動家たちは、口々に王宮内の魔女を『王女』と呼んだ。またその王女が、死んだとされる第三王女であること、また病で籠もりっきりのシェリー・アン王妃が、実は魔女を産んだために狂ったのだということまでが、人々に噂されていた。
 これまで十七年間、隠し続けられたことが、どうして今になって明るみに出たのか。
「陛下!」
 この時荒々しく私室の扉が開き、どっと人が流れ込んできた。閣僚をはじめとする、アルバ貴族たちだった。
「陛下、第三王女をお出しください。このままでは、民衆たちは王宮になだれ込みます。もはや一刻の猶予もありません!」
 ついに突きつけられた選択に、クレメンタイン王は沈黙した。
 いつかこの日が来ることを知りながらも、信じまいとしてきた選択の日。
 それが今日。
 判っていた。娘の存在が、国を脅かすほどのものだと――それがアルバの『負の遺産』なのだと。
 自分が王である以上、娘は殺さなければならなかったのだ。
 だけど、殺せなかった。
 娘を取れば、国が滅ぶ。国を取れば、この手で娘を殺さなければならない。
 選択など、できようもないのに。立場が、状況が、運命が彼に選択を突きつける。
「陛下!」
 だがその時、さらに闖入者があった。それが運命を分けた。
 黒髪を乱し、懸命にここまで走ってきたのは――。
「カイルワーン……」
 呆然と呟くオフェリアの言葉に、クレメンタイン王の心は決まった。
 決まってしまった。
「カイルワーン、行け!」
 その言葉の意味を理解したのは、オフェリアと当のカイルワーンだけだった。だが、二人にはそれだけで十分だった。
「……はいっ!」
 だがカイルワーンが踵を返し、再び走り出そうとした瞬間、それは起こった。
 ぴしり、とその時、何かがひび割れて、壊れた。
「うわああああっ!」
 何かが狂ったような奇怪な叫びが響き、そして。
 王の胸に、深々と剣が突きたてられていた――。

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