それでも朝日は昇る 2章11節

 河岸を一人、オフェリアは歩いていた。走っては止まり、荒い呼吸を整えてまた歩きだし、それでも前に進んでいく。
 王宮は、クレメンタイン王の死で完全にたがが外れた。オフェリアと彼女付の騎士たちが懸命に事態を収拾し、秩序を保とうとしたが、魔女と蜂起した民衆への二重の恐怖に、まき起こった狂乱は瞬く間に宮廷人に伝染していった。
 職務を放棄して逃亡をはかる者、混乱に乗じて略奪を行う者、錯乱して奇行を取る者、辺りを破壊する者、女性に暴行を行う者――思想も、目的もない、狂気と蛮行だけが王宮を満たした。
 そんな王宮からのオフェリアの脱出は、苛烈を極めた。一人、また一人と護衛の騎士は減り、アルベルティーヌ市内を流れるセミプレナ運河の辺に辿り着いた時には、彼女ただ一人になっていた。
 セミプレナ運河は、内陸の首都アルベルティーヌと大貿易港レーゲンスベルグをつなぐ、水運の要である。レーゲンスベルグには外国船が多く停泊しており、辿り着きさえすれば友好国へ逃れることもできよう。
 でも――オフェリアは一人歩きながら、脳裏をよぎる思いを消すことができない。
 本当にここまでして、自分は生き残らなければならないのだろうか。
 父王は死んだ。病んだ母后も逃がせなかった。おそらくこの後、魔女を産んだ咎で処刑されるだろう。エリーナの脱出とてうまくいったか。自分ですらこの有り様なのに、あの自分一人では何もできない妹が、この事態を乗りきれるだろうか。
 自分一人生き残って、それで? それから?
 他国の力を借りて、国を取り戻すのか? それとも亡国の王女として、他国の庇護を受けてぬくぬくと暮らすのか?
 それとも自分一人で。
 自分一人でどうやって、何をして生きていく?
「アイラシェール……カイルワーン……」
 不意をついて名が口から漏れ、きゅっ、と胸が痛んだ。その痛みのわけをオフェリアはよく判っている。
 どんな運命に転ぼうと、もう二度と会えない。
 愛しさ、と呼ばれるものの、その理由。
「オフェリア王女殿下でいらっしゃいますね」
 声をかけられ、オフェリアははっと顔を上げた。その声には、確かに聞き覚えがあった。
「グラウス……ブレンハイム」
 暗がりに立つ青年の姿に、オフェリアは目を見張る。
 瞬間、頭の中で一本の線がつながった。
「よくぞご無事で」
 満面の笑みを浮かべて近づいて来ようとするグラウスを、きっと睨んでオフェリアは叫んだ。
 腰から、護身用の短剣を引き抜いて。
「さわるな、下郎!」
 その言葉に、グラウスの銀の眉がぴくりと動いた。
「やっと判った……。迎えの高速艇、今日には間に合わないのに集結した海軍全艦隊……全て、こういう意味だったの」
「さて、どういう意味でしょう? 王女殿下」
 問いかけたグラウスの笑みは、言葉は、明らかにオフェリアを挑発するものだった。それが彼女の怒りを、さらにかき立てる。
「ガルテンツァウバーで私を待っているのは、皇帝の二妃の地位?それとも皇太子妃かしら? そうすれば……私を身内に取り込めば、白薔薇の旗を掲げて、アルバに侵攻できるものね!」
 白薔薇の旗は、アルバの王旗。これを掲げる軍隊こそが、アルバ国軍だ。
 ガルテンツァウバーの――グラウスの目的は、ただその一点に集約されるのだ。そのことが、やっとオフェリアには判った。
 他人にアルバを混乱させ、王家を倒させる。国を追われた王族を好意の名のもと身内に取り込んでしまえば、アルバ侵攻にも『国家奪回』の美しい大義名分ができあがる。
 そうして侵攻後にできあがるのは、ガルテンツァウバーの傀儡国家だ。
 ガルテンツァウバーは今は何もしなくていいのだ。今行うべきことは、ただ一つ。
 王女のどちらかをすみやかに確保して、ガルテンツァウバーに連行すること――。
「……さすが頭のよい方ですね。お見通しならば、どんな甘言も虚言も無意味だ」
 グラウスは小さなため息とともに、表情を変えた。冷静で冷徹な、いつもの彼の顔を表に出す。
 イントリーグ党にも、センティフォリア・ノアゼット両独立組織の者にも決して見せることのなかった、彼の本当の顔。
「こんなにうまくいくとは、私自身も正直思っていなかったのですがね。それほどまでに、この国には魔女への恐れが根付いている。魔女を恐れるように親から子へ、孫へ教え込まれ、魔女狩りが至上の大義名分となる。そのためなら、王を殺すことさえ厭わない」
 イントリーグ党も、センティフォリア・ノアゼット両独立組織も、派遣軍でクーデターを起こした将校たちも、魔女の存在をちらつかせるだけで、簡単に提案に乗った。どの組織もグラウスが持ちかけたアルベルティーヌ陥落計画の成功を、魔女の存在故に信じて疑わなかった。民衆は必ず動き、アルベルティーヌ在中の師団もこの大義名分の前には勝ち目はないと。
 そして現実に、アルベルティーヌはイントリーグ党の手に落ちた。
「だが狂乱はいずれ冷める。熱が冷めて、ふと我に返った時、民衆は気づくだろう。自分たちの行いがどれほど国を混乱させたのかを。それがどれほど自分たちの生活を圧迫することになったのかを」
 今回の一件で、アルバは混乱するだろう。イントリーグ党が国家の全権力を掌握し、混乱を沈静化するのは並大抵のことではない。混乱は経済に打撃を与え、市民生活を直撃するだろう。その時、彼らは何を考えるだろう?
 そう、昔はよかった、だ――。
「そこに白薔薇の旗を掲げて、王女が戻ってくると。他国の強力な軍隊を引き連れて――実によくできた脚本だこと」
オフェリアは、苦々しいため息をもらした。あまりにもたやすく、誰もがこの十九の青年の手のひらの上で踊らされたのだ。
 その時民はどちらに転ぶだろう? イントリーグ党の作るであろう新政府とともに、武器をとって戦うだろうか? それとも古きよき日の面影を忍んで、ガルテンツァウバーの傀儡であるアルバ王家最後の王女を戴くだろうか?
判らない。だが、ただ一つだけ確かなのは。
 民はその時二者択一に揺れ、意見は割れ、相争い、決して一つにまとまることはなく、結果新政府は侵攻してくるガルテンツァウバー軍に、かなうことはないということ――。
 ああ、そうだ。オフェリアは苦笑とともに呻いた。
 預言の通り、アルバは滅ぶのだ。
「それでも敢えて、乗ってみる気にはなりませんか? ガルテンツァウバーを利用して国を取り戻し、アルバ女王とガルテンツァウバー皇后の二つの冠を戴いてみませんか?」
 誘うように――唆すような問いかけに、オフェリアは苦笑して、答えた。
「人によっては魅力的なお誘いだけれども――そうね、エリーナだったら、ほいほい喜んで乗ったかもしれない。でも、私はごめんだわ」
「どうして」
「だって、私はもう王女でいることに、飽き飽きしたんだもの」
 いっそさばさばと告げるオフェリアの言葉に、グラウスの方が面食らった。
 そんな彼に、むしろ笑ってオフェリアは告げる。
「国がもうどうしようもないところまで行き詰まっていたことに、私だって気づいていた。財政は赤字続きで、改革を断行しようにも、やれ先例や伝統だと閣僚たちの意識は凝り固まっていて何もできない。二百年の間に、こんなにも世界は変わってしまっているというのに」
 大陸暦千年に生まれたロクサーヌ朝。その十二代、二百年の間に世界は激変したというのに、そのことを王族は、貴族は認めようとしない。
 この二百年で、民衆は豊かになった。新大陸の新種の食物の導入が農作物の収量を増加させ、科学や技術の進歩が工業生産の効率を倍加させた。生活の余裕が末端の国民まで教育を浸透させ、賢者の最大の発明・活版印刷技術が生み出す大量で安価な書物がそれを後押しした。
 その結果。王が神であることを――王権が神授のものであるという考えは薄まっていき。
「もう国民は気づいている。自分たちの働きこそが国を支え、それ故に国政に対して自分たちが権利を持っていることを」
「マリアンデール・イントリーグの思想そのものですね。よもや王家の貴女が、イントリーグの思想に触れておられるとは思わなかった」
「私も妹も、皮肉なことにイントリーグの思想自体は決して嫌いではないの。その信徒に居場所を奪われたというのは、本当に皮肉としか言いようがないわ」
 自由は、平等は、本当にこの世にあるのか。コーネリアがイントリーグ党の男たちに語っていたことを、オフェリアもアイラシェールも感じていた。
 真実人が平等であるのなら、どうしてアイラシェールはかくも不幸な運命に追いやられたのか。なぜかくも差別されなければならなかったのか。
「一握りの人間だけが国政を握り、世襲されていく。確かにそれは理不尽なことなのかもしれない。でも、主権を持つ――国を支える国民が、それを――王政を望むというのなら、たとえ理不尽だろうと、それは国民の選択だもの。応えようと思った――頑張って、何とか国を建て直して、国のために都合のいい人を伴侶にしたってそれでいいと、それが王太子だと……でも」
「でも」
「国民が王家を――私を必要ないというのなら、もう知ったことじゃないのよ。いつ、誰が私を王女にしてくれって、政権の座に座らせてくれって頼んだのよ」
 もう知らない。そうオフェリアは、自嘲を込めて笑って言ってのけた。
「貴女は自分の国が、こうして他人に荒らされても、平気だと仰る」
 グラウスは、鋭く問いかけた。
「貴女は自分の国を、国民を、愛していなかったのですか?」
「ええ」
 平然とオフェリアはグラウスの言葉を否定した。
「私の頭は、貴方の申し出を受けてガルテンツァウバーの後ろ楯を得て、圧倒的な武力で新政府を脅すのが一番血が流れない方法だろうと言ってはいる。無血開城させて、私が玉座に座るのが、一番国民が死なずにすむ方法だろうと。でも、私はもう国民のために自分を犠牲にする気はない――憎んでいるから。この国と国民を」
 本当の気持ちを、ようやくオフェリアは口にした。
 本当は憎んでいた。この国も、国民も、父王も。
「国民には、為政者を倒すことは政治の責任を自分たちで負うことなのだということを、知ってもらいましょう。だからどんな苦難がこれからこの国に降りかかろうと、私は知らない。それが私の、復讐なんでしょう」
「どうしてそこまで、国を、国民を憎みます? 貴女を玉座から追ったから? 居場所を奪ったから?」
「私のただ一人のアイラシェールを、こんな不幸な境遇に追い込んだから」
 冷たい眼差しが、グラウスを見た。
「誰も私を『王女』としてしか見なかった。第一王女、王位継承者――ただそれだけ。私に気持ちがあることなんて――一人の人間として、辛いことも悲しいこともあることを、誰も考えてもくれなかった。父も、母も、乳母も、上の妹も――家族すらそう。私を見ようともしない、省みようともしなかった。ただ、あの子たちだけが、私を真っ直ぐに見てくれた。王女でない、ただの私を、心から必要としてくれた」
 声が聞こえる。あの明るい、幼い声が。自分を呼ぶ、あの軽やかな声が。
 姉様、オフェリア様――そう呼ぶ声。
 自分が第一王女だからではなく、王位継承者だからでなく、姉だから純粋に慕ってくれたアイラシェール。礼はとりつつも構えることなく、王女ではなくアイラシェールの姉として向き合ってくれたカイルワーン。
 そんな二人のことが、心の底から愛しかった。二人のためならば、何を犠牲にしたって構わなかった。
 だから。
 オフェリアは不意に、にこり、と笑った。
「グラウス・ブレンハイム。私はあなたを許さない。王家を滅ぼしたからでも、私を利用しようとしたからでもなく、あの子たちの居場所を奪ったから。私の大事な、可哀相なあの子を利用したから。だから私は、あなたの言いなりになんかなってあげない」
 次の瞬間、手にした短剣を自分に向けた。一息に首筋を掻き切ろうと手を上げ――だが。
「ここで死なれては、困る」
 グラウスの手の方が、一瞬早かった。オフェリアのか細い手首を掴み、体から放し、ぎりぎりとねじ上げていく。
「放して……」
 オフェリアは痛みに顔を歪め、満身の力で抵抗するも、男の力にはかないようもない。ついに音を立てて、短剣が地面に転がった。
「死なせて……」
「冗談じゃない」
 不意にこぼれた、怒りと苛立ちにあふれた言葉。
「貴方には、あのぼんくら皇太子に代わってガルテンツァウバーを治めてもらわなければならないのだから、こんなところで死なれては困る!」
「……え?」
 一瞬グラウスの相貌をよぎった苦渋の色。その意外な言葉。それは結局最後まで巧みに隠されていた、彼の本音なのだろうか。オフェリアが戸惑ったその一瞬の隙を、グラウスは決して見逃さない。
 鈍い音がして、オフェリアの体から力が抜ける。鳩尾に入った正拳はたやすくオフェリアから意識を奪った。
 ぐらり、と傾く体を受け止めると、グラウスは抱き寄せて頬に唇を寄せた。それはただこの一瞬――もう二度とない、この一瞬だけに許される暴虐。
 南の国の白い薔薇は、凍える北の国では咲けないのかもしれない。それでも、たとえそれでも――。
 物思いを振り払うと、グラウスは軽く指笛を吹いた。その音は闇に響き渡り、やがて一曹の小舟が二人に近づいてくる。
「グラウス卿、首尾は?」
 船頭がグラウスにそう問うた。
「上々。船の方はどうなってる? 父上は?」
「大使館員は大使の誘導のもと、全員脱出に成功。乗船しております。我々が到着し次第出航するとのことです」
「ならばよい。父上たちが待ちくたびれる前に、我々も行かなければな。皇帝陛下への手土産も、確保できたことだし」
「はい!」
 グラウスは慎重にオフェリアを抱き上げると、小舟に乗り移る。音もなく舟は川べりを下って、やがてアルベルティーヌから遠く遠く離れていく――。
 未明過ぎ、革命の狂乱に沸くアルベルティーヌから逃げるように出国した高速艇が、アルバに、ガルテンツァウバーに――歴史に、どんな意味をもたらすのかを知る者は、まだいない。
 ただこの時、誰もが判っていたのは、魔女によって生まれたロクサーヌ朝が、魔女により滅んだのだということ。
 魔女自身の最期の言葉が示したとおりに――。

Page Top