それでも朝日は昇る 3章2節

 アンナ・リヴィアとカティス、二人がかりの攻勢の前に抵抗は空しく、カイルワーンは二人の家に連れ込まれた。病人は黙っていろ、という一喝の前では、どんな言葉も無意味だった。
 未来の王と母后が暮らしていたのは、まさしく貧民街と呼んでよい一角だった。衝立で仕切っただけの寝室と居室があるだけの、粗末な建物。それが二人の暮らしていた、ささやかな家だった。
 カティスは伝記によれば、ブロードランズ朝十五代王レオニダス・ブロードランズと、宮廷女官であったアンナ・リヴィア・ロクサーヌの子どもとされている。アンナ・リヴィアはレオニダス王の正式な妃ではなかったが、王の子を身籠もったのを機に宮廷を辞し、カティスを出産、一人で育てた、ということになっている。
 それにしても、とカイルワーンは思う。女手一つで子供を育てていくのは、それは大変だったろう。金などいくらあっても足りない。だがそれにしても貧しい暮らしぶりだった。
 宮廷女官で、王の側近くに配されたということは、アンナ・リヴィアはそれなりに教養も身分もある女性であろう。それにもかかわらずこの有り様ということは、完全に実家とは縁を切っていると推測される。それは、なぜだろう。
 アンナ・リヴィアの内心を、真意を、カイルワーンは知る由もないのだけれども。
 翌日、熱の下がったカイルワーンとカティスは連れ立って街に出ていた。カティスが街の案内をかってでたのだ。
「昨日はごめん。あんなことして」
 うつむき、それでも素直に謝ったカイルワーンを、カティスはからかわなかった。
「いや、具合が悪いのに気づかなかった俺が悪かった」
 お互い気まずい雰囲気が解けないまま、カイルワーンの頼みで最初に訪れたのは、両替商だった。
「ここら辺の通貨に交換してくれないか?」
 カイルワーンがそう言って取り出したのは、黒い革袋。渡された金貨をしみじみと眺め、両替商は首をひねった。
「見たこともない金だな」
 そりゃそうだろう、と内心でカイルワーンは呟く。十万サレット金貨は十代王の頃から鋳造された貨幣だ。今のアルバに存在するはずもない。
「だけど金の含有量が高い良貨だ。価値は低くないはずだ」
 両替商はその言葉に、拡大鏡でつぶさに眺めたり、重さを測ったりとしばしの吟味を重ねた挙句に、結論を出した。
「こんなところでどうだ?」
 差し出した三枚の十万サレット金貨の代価は、四十枚の通用五千サレット銀貨。貨幣を金としての資産価値ではかれば額面通りにならないのは当たり前で、カイルワーンとしてもまあ納得のいく額であった。
 だが。
「……金持ちだな」
 カティスの呟きは、当然と言えた。
「陛下は、逃走資金に僕にとんでもない額を持たせたからな」
 両替商を出て、市場に向かいながら二人の会話は続く。
「宮仕えの身分だったのか、その年で」
「でなければ、国から逃げる必要なんてなかったよ。僕ぐらい年の人間が、国から追われるなんて、そうはない」
「もしかしてカイルワーン」
 カティスは真剣な表情で、聞いてきた。
「お前の探しているアイラシェールは……ひょっとして、王族か」
「……いい勘だ」
「王が自らそれだけの逃走資金を工面するとなれば、それ以外の解答は出てこねえよ。まあ、お前自身が王族だという可能性も、あるんだけどな」
 この発言に、カイルワーンは思いっきり吹き出した。
「僕はしがない王宮付の学者の息子だよ。そんなに大層なもんじゃない」
「学者の息子は、大層なものだと思うが」
 そういう君は王子だろう。喉元まで出かかった言葉を、カイルワーンは呑み込んだ。
 後世の歴史学者によって盛んに議論される謎。それは、カティスの父親が誰だったのか――真実、カティスはレオニダス王の庶子だったのか。
 カティスは生涯そのことを肯定も否定もしなかった。そう言われている。だがそれは、なぜだったのだろう? 真実だったら、なぜ肯定しなかったのか。逆に王子を騙ったのなら、なおのこと肯定しなかったのはおかしい。
 それはともかく、今の段階で、カティスは自分が誰の子どもだと――自分が何者だと思っているんだろう。
 問えない疑問は、胸の中にわだかまり――。
「決定だ」
 不意にカティスはカイルワーンの肩を叩いて言う。
「今日の夜はお前のおごり」
「夜って」
「飲みにいくに決まってるだろうが。昨日はお前がぶっ倒れちまってたから、出かけなかったけどな」
 何で僕も、と言いかけた時、市場の奥の方で、悲鳴が上がった。
「何だ?」
「行くぞ、カイルワーン」
 言うなりカティスは駆け出して行ってしまう。慌てて追いかけると、すでにそこには人だかりができていた。
 人込みをかき分け、頭一つ抜きんでているカティスのところに駆け寄ると、そこには凄惨な光景が広がっていた。
「誰か、こいつを押さえとけ!」
 カティスが腰の鞘に剣を戻しながら、叫んだ。見れば、腕を軽く斬られて剣を取り落とし、うずくまっている男の姿が見えた。
 そして、おびただしい血を流し、地面に転がる男性と、それに取りすがって泣く女性。
「シーガルのおかみさん、一体何があった」
「こ、この人が店の品物にいちゃもんつけてきて、うちの人と喧嘩になって……」
「それでいきなり、斬りつけられたのか。なんて奴だ」
 カイルワーンは、無言で斬られた男性の元に寄る。肩から袈裟懸けに斬られ、血が絶え間なく流れ落ちる。
「急所は外れてる」
 カイルワーンの言葉にカティスは少し驚き、だが首を振った。
「だけど、傷が深い」
 カティスの言葉に、女性はわっと泣き崩れた。
「あんたぁぁぁっ!」
 群衆からも、すすり泣きの声が聞こえた。可哀想に、気の毒に、というささやきも、はっきりと聞こえた。
 周囲は暗い気配に包まれ――だがその中で、カイルワーンはひどく苛々していた。
 迷いがなかったと言えば、嘘になる。だが、それ以上にカイルワーンは苛立っていた。
 この場の雰囲気に。女性の泣き声に。不躾で無責任な群衆に。
「やかましいっ! まだ死んでないだろうがっ!」
 苛々と叫んだカイルワーンに、カティスが目を丸くする。
「カイルワーン?」
「ここでこんな風にして、ただ黙って死んでいくのを見てるだけなら、その命、僕に預けろ! 必ず返してやるから、今は僕の言うことを聞け!」
 女性と、カティスは唖然としてカイルワーンを見つめる。
「ここで泣いて喚いて、何もしないんだったら、僕に何やらせても同じだろうが! 必ず助けてみせるから、僕に任せろ!」
 沈黙があった。だが、やがてカティスが反応した。
「お前は何をする気だ? 俺は何をすればいい?」
「この人を、家の中に運んでくれ。それと、大至急揃えてほしいものがある」
 カイルワーンの言葉にカティスは頷き、女性の肩を叩く。
「こいつは信用できる。打つ手があるというのなら賭けてみた方がいい」
 カティスの言葉に、女性は頷いた。
「何をすればいいですか?」
「大至急、今から言うものを揃えてほしい」
「はい」
「新品の縫い針と、絹糸」
 この言葉は、再び沈黙をもたらした。
「………………はい?」
「ピンセットと、清潔なさらしを沢山と脱脂綿……はないか。代わりに海綿。あと消毒……ってもこんな急じゃ無理か。鍋に一杯、熱湯を沸かして」
 戸惑っている女性とカティスに、カイルワーンは一喝する。
「いいから信用してくれ。何かあったら、必ず責任を取るから!」
「はいっ!」
 ばたばたと駆けていく女性を見送った後、カティスは周囲の人間の手を借り、男性を奥に運び……そして、準備をしているカイルワーンに不安げに問うた。
「針と糸って……まさかとは思うが」
「悪いが、そのまさかだ」
 入念に手を洗いながら、カイルワーンは黙ってはいられなかった自分の性格を呪いたくなった。
 傷口を縫う技術は、まだこの頃のアルバでは一般化していなかった。伝記は、賢者が怪我人に多用したため、アルバでも次第に用いられるようになったと伝えているが――。
 きっかけは、こんなことだったのか、とカイルワーンは自分に毒づく。
 やはり僕は――。
 やはり僕は、賢者、なんだろうか――。
「準備ができなかったから、麻酔なしでやるぞ。暴れるかもしれないから、しっかり押さえててくれ」
 どんなに抗っても、無駄なんだろうか――。

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