それでも朝日は昇る 3章1節

第3章  カティスとベリンダ ―大陸統一暦998年―


 道を進むに連れ、だんだんとその匂いが強くなってくる。鼻をくすぐる、少し生臭いような、つんとした匂い。
 はっと思い当たって、カイルワーンは知らず口にする。
「そうか、これが潮の匂いか」
「お前、海は初めてか?」
 カイルワーンのそんな呟きに、カティスが聞く。
「ああ。ずっと内陸で育ってきたから」
「俺は港町育ちだからなあ。潮の匂いをかぐと、ああ帰ってきたんだなって気がする」
 んん、と伸びをしながら少し先を歩く長身を見上げながら、カイルワーンは内心で途方に暮れていた。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう、と――。
 事の顛末を語るには、二日ほど戻ることになる。
 ぱちぱちという木がはぜる音に、カイルワーンはふと意識を取り戻した――意識を取り戻してやっと、自分が気を失っていたことに気づいた。
 目に映るのは、葉を繁らせた梢の重なりと、暮れようとする暗い空。
 ゆっくりと身を起こすと、焚き火の向こうで佇んでいた青年と目が合った。
 ああ、そうか。自分はあまりの衝撃に恐慌を起こして、昏倒したのか。我が身に起こったことを、カイルワーンはようやく理解した。
 この目の前の現実は、あまりにも衝撃が大きすぎる。
「落ち着いたか? 気分はどうだ?」
 自分に問う青年を見つめながら、カイルワーンは心底困り果てていた。
 やはり目の前にいるこの人物は、王位に就く前のカティス・ロクサーヌなのか。
 だとしたら、こんな伝説の存在に、一体どう反応したらいいのだろう? どんな口調で話せばいい?
 そして、彼が本当にカティスならば。自分がカティスに出会ったということ、それが意味するところは――。
「俺の言うことが判るか?」
 動揺はちっとも治まらない。けれども、いつまでも黙っているわけにもいかない。小さく頷いて、カイルワーンは意を決して口を開いた。
「助けて、もらったんだよな。ありがとう」
「ちゃんと喋れるし、言葉も通じるんだな。これで外国語でも話されたらどうしようかと思った」
 よかったよかった、と大仰に安堵するカティスに、カイルワーンも苦笑をもらした。
「俺はカティスだ。お前は?」
 問われて、カイルワーンは一瞬躊躇した。
 自分が今ここで名乗る、そのことは歴史の中で大きな意味は持ちはしないか?
 おそらく確定的な、自分にある可能性。その推測に間違いはないのか? 正しいのか? カイルワーンは、考えてしまう。
 だがそれでも。
「……カイルワーン。親しい人たちは、カイルって呼ぶ」
「まだ小さいのに、親はどうした? どうしてこんなところで独りで倒れてた?」
「一応これでも、十九なんだが……」
 言われても仕方ないのは判っているのだが、ささやかなプライドを傷つけられて、カイルワーンは呟く。そんな彼に、カティスは唖然とした。
「こんなに小さくて細っこいのにか!」
「君みたいな偉丈夫でなくて、悪かったね。一応気にしてるんだぞ、これでも」
 カティス王の伝承は、肖像は、一片の偽りも誇張もない。それをカイルワーンはしみじみ思い知った。
 上背はカイルワーンと頭一つ違うほどに高く、筋肉が無駄なく鍛え上げられ、見事なまでに均整が取れているのが判る。
 カイルワーンの身体的劣等感を、あますところなく刺激してやまない体格だ。
「それはすまなかったな。だが、体はもちっと鍛えた方がいいと思うぞ、俺は」
「世の中には得手不得手ってものがあるだろうが。この僕に多少の筋肉つけたところで、どれほどのことができるって言うんだ」
「ま、確かに」
「納得するなっ!」
 癪にさわって叫ぶカイルワーンに、カティスは声を上げて笑う。
「面白い奴だな、お前」
「………………」
 沈黙したカイルワーンに、ふと表情を引き締めて、カティスは再び問う。
「話を戻すぞ。どうしてこんなところで倒れてた? 見たところ外傷はないが、誰かに襲われたのか?」
「そういうことじゃない。ないんだか……実際には、僕にもよく判らない」
「……は?」
 この言葉はカイルワーンの正直な内心だった。
 時間を越えることができるなどと、信じてはいなかった。あの一刻に起こったことが何だったのか、実のところよく判っていない。けれども止める間も、何を語る間も、無論事態を理解する間もなく、あの部屋からアイラシェールは消えた。
 独り残された部屋で、色々なことを考えた。だが、もしアイラシェールが彼女が望んだとおり998年に消えたというのなら、自分にできたことは同じ時に自分も行くと願う――行けると信じる、ただそれだけで。
 その結果が、この事態。
 悪い夢だと思いたかった。
 だがすべてが悪い夢だと現実を否定することは、あまりにも悪い夢過ぎて――そう、このことによって辻褄が合ってしまう、納得できてしまう『謎』があまりにも歴史にはありすぎて、カイルワーンにはできないのだ。
 けれども今はそれよりも。
「多分言っても信じてはもらえないだろうから、詳しい説明はしない。だけど……そう、僕たちは仕えていた王朝が滅んで、国を追われて、遠くに逃げようとしてたんだ」
「僕たち?」
「見かけなかったか? 女の子だ。栗色の髪と――染めが落ちていればもしかしたら白になっているかもしれない、そんな髪と赤い目をした、小柄な女の子だ。年は十七で、背が僕より少し低くて、かなり細めだ」
「髪が白くて、目が赤い? そんな人間いるのか」
「生まれつきの病気だ。体の中で色の素になる物質が作れない。ただそれだけの、異常だ」
 ただそれだけのことなのに――カイルワーンは暗く沈む。
「はぐれたのか?」
「……おそらくは」
 時の鏡は、アイラシェールと自分を同じ『時』に運んでくれたのか。たとえそうだとしても、場所としてどれくらい離れたのか。簡単に確かめる術はない。
 けれども。
「どうして彼女とはぐれたのか、どうして僕がこんなところに倒れていたのか、それは説明できないというか、僕にもよく判らない。それ以前に、そもそもここはどこなんだ?」
「アルバの地理は判るか? ここは中央陸路から分岐した、レーゲンスベルグ街道だ。ノアゼットから北上して、アルベルティーヌの手前から西に入って海に出る」
「……の割りには、山の中だな」
 レーゲンスベルグ街道は、南部から港町に入る主要な街道だ。いくら二百年前だからといって、こんなに山の中のはずがない。
「そりゃそうだ。ここはかなり街道からそれて、山の中に入ってきたところだからな。感謝しろよ。俺が見つけなければ、お前は今頃熊に頭からかじられてたところだ」
「……じゃあ何でそんなところに、君は来たんだよ」
「仕方ないだろ? 土産の一つも用意して帰らないと」
 一瞬、カイルワーンはカティスが何を言っているのかが判らなかった。
「はあ?」
「仕事も片づいて、ようやく家に帰れるっていうのに、おふくろに土産の一つもなしじゃあんまりだろ? 買って帰るにも、今回の仕事はどうも払いが悪くてな。春になるところだし、何か採れるものでもないかと思って山の中に入ってみたら、代わりにお前が転がっていたと。おかげで手ぶらのご帰還だ」
「…………」
 頭の中に思い描いていた『英雄王』との落差にカイルワーンが苦しんでいると、不意にカティスは立ち上がった。焚き火から太くて長い枝を二本引き出して、一本をカイルワーンに手渡す。
「……これは?」
「決まってるだろう? お前の連れを探すぞ」
 突然の言葉に驚いているカイルワーンに、カティスは至って真面目な表情で答えた。
「何が起こったにせよ、倒れる前までに近くにいたのなら、今も近くにいないとは限らない。日が暮れるまで、取り敢えず手分けして探してみよう」
 無言で頷くカイルワーンに、カティスは問う。
「それで、その子の名は?」
「……アイラシェールだ」
 それから日が暮れるまで、二人は山中を探し回ったが、アイラシェールの手がかりは、何も見つからなかった。
「どうする?」
 夜の闇の中、焚き火を前にしながらカティスは問う。
「どうするって?」
「国から逃げてきたって言ってたよな。行く当てはあるのか? これからどうする?」
 カイルワーンは膝を抱えて、考え込んでしまった。そうして、自分には何もないのだということを、あらためて実感した。
 行く当ても、頼れるものも、何一つ。
 それでも、やらなければならないことだけは、はっきりしている。
「行く当ても何も、僕にはない。それでも僕はどうしても、アイラシェールを見つけなければならない。それだけは」
「それほど、大事な相手か?」
 カティスがこの時からかうようであったのなら、カイルワーンは彼に怒り出していたかもしれない。けれどもこの時の彼は、真摯で、どこか寂しそう――羨ましそうだったから、カイルワーンはただ静かに頷いた。
 そんな彼に、カティスは言う。
「なら俺と一緒に来るか? レーゲンスベルグに」
「君、と?」
「人探しなら、大きな街の方が何かと都合がいい。そりゃアルベルティーヌの方がでかいにはでかいが、レーゲンスベルグは人の出入りが激しいからな。情報を集めるなら、悪くないところだ。それにレーゲンスベルグなら、俺のつてがあるからな。手助けできる」
 どうだ? と聞いてくるカティスに、カイルワーンはしばらく考え込んだ。そして言った言葉が。
「……お人好し」
「あ?」
「どうしてそこまで今会ったばかりの他人に入れ込む」
「迷ってるお子様を放っておけないじゃないか」
「僕はもう十九だと、何回言ったっ!」
 思わず怒鳴りつけてしまうカイルワーンに、カティスは声を上げて笑うと言った。
「それでどうするんだ? 行くのか、行かないのか?」
 はぐらかされた、と思いつつも、返答を迫られてカイルワーンは悩む。自分の一挙一動にこんなに思い悩んだことは、今まで一度もなかった。
 本当に自分はカティスといていいのだろうか? このままいったら、取り返しのつかないことが起こるんじゃないだろうか? 自分の存在が、歴史をよくない方向に変えてしまわないだろうか?
 色々な思いが脳裏をかすめた。だが、結論はやはり一つしかなかった。
 かくして二人は連れ立ってレーゲンスベルグに向かうことになり、二日。
 待っていたのは、黄色い歓声だった。
「きゃあああっ! お帰りなさいっ!」
「無事で何よりだったわ、カティス!」
「お仕事、お疲れさまでした!」
 レーゲンスベルグの街中に入って数歩。あっと言う間にカティスは、幾人もの女性たちに取り込まれた。
「ただいま、みんな。元気そうで何より。俺がいない間、変わりなかったか?」
「寂しかったに決まってますわ、ねえ、みんな」
「ええ、そうよ! カティスが怪我でもしていないかと、心配で眠れませんでしたわ」
 わいのわいの、きゃいのきゃいのと大騒ぎする女性の一団と、それににこやかに応対するカティスの姿に、カイルワーンは呆気にとられた。
 まあこいつなら、黙っていたところで女性が放っておくまい。そうは思うカイルワーンだったが、騒ぎがどんどん大きくなっていくのを見るにつけ、だんだん腹が立ってきた。
「心配かけてごめんな。その分ちゃんと埋め合わせするから」
「きっとよ!」
「約束ですからね!」
 ……こりゃしばらく終わらないぞ。もう放っておこう。そう思ってカイルワーンがその場を離れようと、無言で回れ右をした時、めざとくぶつけられる声。
「カイルワーン、どこ行く?」
「宿探し。早くしないと、日が暮れるだろうが」
「なに水臭いこと言ってるんだ。うちに来ればいいだろう」
 振り返り、心底不快そうに言ったカイルワーンに、カティスも負けず劣らず不快そうに言った。
 だが、なぜかささくれだってしまった気持ちを、カイルワーンはどうにもできず、苛々と言い捨ててしまう。
「僕はそこまで頼んだ覚えはない」
「なんだ、お前? なにいじけてるんだ? ははあ、お前この子たちに嫉妬してるな」
 冗談めかした言葉に、カイルワーンは頭の血管が切れそうだと思った。
「カティス、この人誰?」
 女性たちから上がった当然の問いに、カティスはにっこり笑って答える。
「俺の新しい恋人」
 この言葉に、ぷっつんと音を立ててカイルワーンの頭の中で血管が切れた。
 次の瞬間、カイルワーンの平手がカティスの頬に決まっていた。
「いってぇ。本当冗談通じない奴だな」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろうが!」
 癇癪を起こしたように叫んで、カイルワーンはその場から走り出す。苛立って、この場にいることがとても居たたまれなくて、たまらなかった。
「おい、カイルワーン、待て!」
 カティスの制止も耳に入らなかった。走って、走って、走り疲れて立てなくなるまで走り続け、カイルワーンは地面にへたり込んだ。
 僕はこんなところで、一体何をしているんだ。苛立ちが、焦りが、胸をかき回してやまない。激しく鼓動を打つ胸を押さえて、カイルワーンは壁にもたれた。
 八つ当たりだったことは判っているのだ。カティスに悪いことをしたと。カティスは何も悪くないのだと。
 けれども胸の中に不安があった。わけの判らない、だけど心の中にわだかまり、自分をたまらなくさせる漠とした不安が。
 何をやっているんだ、僕は。早く、一刻も早くアイラを見つけなければ。早く、立ち上がって、探しにいかなければ――。
 なのに、足が立たない。呼吸がちっとも落ち着かない。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
 その時頭上から、柔らかな声音が降ってきた。答えられずにいると、うずくまる彼の目線に、青灰色の瞳が降りてきた。つい、と手を伸ばされた手が前髪をかきあげてふれ、その冷たさにカイルワーンはなぜかほっとする。
 その金色の髪も、柔らかな日を思わせる容姿も見覚えがあり、カイルワーンはその偶然に苦笑を禁じ得ない。
「アンナ・リヴィア母后……」
 カイルワーンの呟きに女性は顔を微かにしかめ、続いて駆け込んできた人影に、顔を上げた。
「カイルワーン! って……あれ、おふくろ? なんでここに」
 カティスはうずくまっているカイルワーンと、女性の姿に驚いて声を上げる。そんなカティスに女性――カティスの母親、アンナ・リヴィアは呆れたように言った。
「おや、どら息子。いつの間に帰ってきたの」
「今着いたところに決まってるだろ。それよりも」
「この子はお前の連れ?」
「ああ、でも……」
 訳が分からず言いよどむカティスにアンナ・リヴィアは歩み寄ると、いきなりその頭に鉄拳を見舞った。
「いてっ」
「今までなんで気づかなかったの! この子、ひどい熱じゃないの!」
「え……」
 絶句するカティスを置き去りにして、アンナ・リヴィアはカイルワーンの元に戻る。再び額に手を当て、申し訳なさそうに言った。
「あの馬鹿息子のことだから、全然気づいてなかったんでしょう? だからって、こんなになるまで我慢しちゃ駄目よ」
優しく髪を撫でる手が、気づかわしげな表情が、不意にコーネリアに重なってカイルワーンは胸が詰まった。
 遥か遠くなってしまった、もういない人。
 不意に一粒涙がこぼれ落ちて、それでようやく気づいた。
 アイラシェールと別れ、過去に来て以来、どれほど恐かったのか。
 どれほど、心細かったのか……。

Page Top