それでも朝日は昇る 2章14節

 その日の夕方、カイルワーンはためらいがちにアイラシェールの部屋の扉を叩いた。
「アイラ……何か少しお腹に入れておいた方がいい」
「カイルワーン、入ってくれる?」
 返答は、なぜかひどく緊迫した口調だった。何事かと扉を開けたカイルワーンは、そこで壁に向かって立ち尽くしているアイラシェールを見つける。
 彼女は、ひどく悲愴で、けれども何かを覚悟したような揺るぎない表情をしていた。
「アイラ?」
「カイルワーンには、あれ、見える?」
 アイラシェールが指差した先には、青い鏡。彼女の横に立ってみて、カイルワーンには彼女が何が言いたいのかが判った。
 鏡面は真正面に立っている二人ではなく、別のどこかの情景を絶え間なく映し――。
「何だ……あれは」
「よかった。私の頭がおかしくなったんじゃなかったのね」
 言葉のわりにほっとした風でもなく呟くアイラシェールに、カイルワーンは当然問いかける。
「これは何なんだ」
「判らない。だけどこの部屋に戻ってきたら、こうなってたの」
 アイラシェールの言葉に、カイルワーンは当惑して、再び鏡を子細に眺める。
「時の鏡……」
「字も見えるのね」
 ぽつり、と気のない返事をし……やがて意を決したように、アイラシェールは言った。
「ねえカイル。歴史は変えられると思う?」
「アイラ……?」
「過去に行けば、魔女の呪いは解けるかしら」
 この時カイルワーンは、アイラシェールが何を考えているのか、ようやく判った。
「何を馬鹿なことを言い出すんだ! 君は本気でそんな――」
「試してみる価値は、あると思う。魔女の呪いが解ければ、私の運命は全部変わるんだもの!」
「アイラ――」
「カイルワーンは嫌じゃないの? 私は嫌よ、こんな運命! 一生塔に閉じ込められて、誰と出会うこともできず、外の世界も何も見ることもできず、他人を恐れ、他人に憎まれて、こんな風に大事な人を亡くしていくだけの一生なんて! 変えられるのなら変えたい。そのためなら、何を犠牲にしたっていい」
 アイラシェールは気づいていなかった。この時彼女が、この言葉によって、とてつもなく大切な『あるもの』を壊してしまったことを――。
 けれど彼女がそれに気づくことはなく。
 そしてカイルワーンは、何も言えなかった。何かを言おうとして口を開き――だが何も言葉にならない。
 開いた唇が、わなわなと震えた。
「私、行くわ。統一歴の998年――魔女が、王宮に現れた年に。行って、魔女の台頭をくい止めて、歴史と私の運命を変えてみせる。だから……カイルとは、一緒に、行けない」
 小さく笑って――無理矢理笑みを作って、アイラシェールは言う。
「カイルワーンは私のことを好きだって言ってくれるけれども、塔に連れて来られて、そこにいたのが私だったから好きになってくれたんじゃないの? もしそこにいたのが別の誰かだったのなら、その人のことを好きになったんじゃない?」
「それはアイラ」
「もし別の出会い方をしていたら、それでも私のこと、好きになってくれた?」
 そんな仮定に意味があるのか――そう言おうとしたカイルワーンの口を、アイラシェールの人指し指が、塞いだ。
「もう目を覚まして。あなたにはあなたの人生があるでしょう。あなたにはあなたにふさわしい幸せを捕まえてほしいの」
 泣き出しそうな、けれどもひどく鮮やかな笑顔が、カイルワーンの目の前に広がる。
「今まで本当にありがとう。だから、さよなら」
 告げられた時、カイルワーンは手を伸ばした。アイラシェールはすぐ近くにいた。
 届かないはずがなかった。
 けれどもその手は空を切り――光の粉が、両腕の中で散った。
 淡く、儚く光のかけらはカイルワーンの腕の中で消え去り、そして。
 もうどこにも、アイラシェールはいなかった。


 どれくらい立ち尽くしていただろうか。ただ独り立ち尽くす部屋は暗く、夜の闇が辺りを包んでいた。
 時の鏡だけが、揺らめく光をカイルワーンに投げかけ続けている。
 僕は。カイルワーンは、内心で呟き続ける。
 僕は、僕は、どうしたらいい?
 脳裏を様々な思いが駆けめぐった。思い出したくない記憶も沢山よぎった。自分を嘲笑う声も聞こえた。
 それでも答えは――答えは、一つしかないだろう。
 ぎっと握り拳を固めて、光に叫んだ。
「時の鏡! 僕も行く! アイラの行った998年に――アイラのところに、僕も連れて行け!」
 刹那目の奥で光が弾け――カイルワーンは意識を失う。
 それからどれくらい経ったのだろうか。ひどく遠くから響いてくるような声を聞いて、カイルワーンは意識をようよう取り戻す。
「おい! 生きてるのか! こんなところで行き倒れてると熊に食われるぞ!」
 鳥の鳴き声も聞こえる。さわさわと木の葉が鳴る音も聞こえる。だが何より耳に響くのは、この焦ったような声だ。
「おい、しっかりしろ!」
 かなり乱暴にがくがくと揺さぶられ、カイルワーンは目を開けた。
 ぼんやりとした視界が開け、鮮明になった瞬間、カイルワーンは心底己の目を疑った。
 体ががくがくと震える。
 わななく唇が、微かな言葉を紡いだ。

     ああ。
     神よ。

「気がついたか。心配させやがって」
 目に映ったのは、見事な金色の髪と鮮やかな翡翠の瞳。女性が放っておかない華やかな容貌は、カイルワーンにはあまりにも見慣れていて――。

     この世界を作った、残酷な神よ。
     これは、これは、あんまりだ――。

「お前、何言ってるんだ? 大丈夫か、おい」
 英雄王カティス・ロクサーヌは、地面に倒れ臥すカイルワーンに、気づかわしげにそう言った――。

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