それでも朝日は昇る 2章13節

 裏路地を、人目を避けるようにカイルワーンは歩いていた。両手で買い物荷物を抱え、早足で街を行きすぎていく。
 そんな彼の姿を見留め、人影が動いた。
「カイルワーン・リメンブランスだな。王立学院の教授、リメンブランス博士の息子の」
 カイルワーンの前に立ちふさがった男たちは、彼を見下ろしながら高圧的な声でそう問うた。
 身の危険を感じ、じり、とカイルワーンは一歩あとずさる。後ろを振り返ると、同じように男たちが道を塞いでいた。彼をどこにも逃がさないように。
 獣を前にした狩人のような目つきで、男たちはカイルワーンを追いつめる。
「それがどうした。一体これは何の真似だ」
「とぼけるんじゃねえよ。お前とお前の親父が、王命で魔女を匿っていたことは、とうにお見通しなんだよ」
 男たちの言葉に、カイルワーンの顔から血の気が引いた。
「知らねえのか? 城から発見できなかった魔女といっしょに、お前にも賞金が懸かってるってこと」
 輪が狭まっていく。じりじりと彼を追いつめ、前にも後ろにももはや一歩も動けない。
 手を伸ばされれば、それだけで捕まえられるほどの――。
「魔女はどこだ? どこに隠した?」
 カイルワーンは答えない。口を一文字に引き絞り、きっと男を睨みつけ……そんな彼に、ついに手が伸びた。
 襟元を掴み、引き寄せ、苛立たしげに問う。
「もう一度だけ聞く。魔女はどこだ? 答えりゃ、お前は見逃してやるよ」
「嘘をつくな」
 カイルワーンは恐ろしいほど平静に、だが低い声で言った。
「僕の賞金をみすみす見逃す手があるか。聞くだけ聞いたら、僕もいっしょにイントリーグ党に突き出すつもりのくせに」
「……よく判ってるぜ」
 ちっ、という舌打ちとともに、拳がうなりを上げた。頬を殴られ、地面に吹き飛んだカイルワーンを、容赦なく蹴りが襲う。
 悲鳴も、苦痛の声も上げる余裕がない。
「これで話す気になったか? あ?」
「………………が」
 荒い息づかいで、何事かカイルワーンは呟いた。その微かな声に、男が耳を寄せ――。
「なんだ?」
「誰が貴様らみたいな奴らに彼女を渡すか!」
 満身の叫びは、近づけていた耳をしたたか打ち、それは定まり通り男の激昂を誘う。
「てめえ!」
 立て続けに容赦なく振るわれる拳。二度、三度と頬を、腹を打ち、血が地面に散り……見かねて声がかかる。
「おいおい、殺すなよ。魔女の居場所吐かせないことには、賞金が水の泡だぜ」
「魔女の居場所を知ってるのは、こいつだけなんだからさあ」
 仲間の制止に、男は忌ま忌ましそうにカイルワーンを放り出した。
「畜生、ゆっくりと締め上げてやらあ」
 男が顎をしゃくると、取り巻きたちは動けないカイルワーンを抱えて街の深いところへと消えていき――。
 そこは冷たい風だけが吹きぬける、いつもの裏路地だけが残った。


  ――やめて。
  ――連れていかないで。
  ――ひどいことしないで。
  ――彼は関係ないの。彼は何も悪いことしてないの。
  ――だから。
「やめてぇぇぇぇっ!」
 自分の叫び声に目が覚めた。アイラシェールは何事が起こったのか判らず、ただ呆然と古びた天井を見つめた。
一拍おいて、あふれ、視界をうずめる涙。
「夢……?」
 それは夢というにはあまりにもまざまざとしていて、けれども夢でなければ到底耐えられないもの。
「夢よ……」
 自分に言い聞かせるように呟いて、ふと不安が胸にこみあげた。
 狩猟地の小さな山荘は、自分以外にかたりとも音を立てるものがない。
「カイル……どこ?」
 涙を手の甲で拭い、寝台から滑り降りると、アイラシェールは部屋を出た。カイルワーンが使っている隣の部屋をそっとのぞき……そこがもぬけの殻であることを知ると、不安はいや増した。
「カイル! カイルワーン!」
 ばたばたと山荘の扉を開けて回り、見慣れた姿を探し、やがてアイラシェールは端の部屋で立ち止まった。
 土間に続く厨房のテーブルに突っ伏し、探し人は静かな寝息を立てていた。
 これだけ騒いでも目を覚まさないほど、深くぐっすりと。
 気が抜けて――ほっとして、アイラシェールは思わず床にへたり込んでしまう。
「カイル……」
 肩を落とし、ほうっとため息をつき、呟くとたまらなく切なさがこみ上げてきた。
 胸が痛かった。
 起こさぬように音を忍ばせて近寄ると、アイラシェールはカイルワーンの横顔を見た。じっと見つめていると、長い睫毛が微かに震えた。
 その眠りは、うたた寝というにはあまりにも苦しそうだった。疲れきって睡眠も休息も足りなくて、今ここで回路が切れて倒れましたというような、そんな風にアイラシェールには感じられた。
 ふと見ると、かまどにかかっている鍋が、くつくつと気持ちのいい音を立てている。蓋を取ってみると、中身はアイラシェールの好物の豆の煮物で……それは彼女の切なさをさらにかき立てた。
「カイルワーンのばか……」
 アイラシェールは自分の部屋から毛布を抱えてくると、眠り込んでいるカイルワーンにかけてやりながら、そう呟いた。
 疲れているのだ。当たり前だ、とアイラシェールは思う。こんな細い体で自分を背負って、こんな遠くまで歩いてきて。
 自分なんかよりよっぽど消耗してるのに、追手を警戒してろくに寝ようとしないで、自分を気づかって、面倒をみようとして立ち働いて、挙げ句の果てにこんな風にこんなところで無防備に眠り込んでしまって。
「あなたは馬鹿よ……」
 目の裏をよぎるのは、あの夢の光景。
 夢は夢。現実ではない。でもそれは、今は、というただし書きがつく。いつだって、現実になり得るのだ。
 自分が王宮から逃げのびたことは、いつかはイントリーグ党に知れるだろう。そうなれば自分は追われるし、現に今だってそうなっているのかもしれない。
 いや、政府に追われなくても。この異形が、異彩が、憎悪と嫌悪を生む。どんな人間にだって、見つかれば自分は殺されるだろう。
 その時、カイルワーンは……?
  ――この魔女の手先がっ!
  ――裏切り者!
 罵る声が、はっきりと聞こえた。聞こえるはずもないのに、淀んだ声がはっきりと耳に響いた。
 飛んでくる石。浴びせられる罵声。近づいてくる刃物の乱反射。
 おびただしく流れる、血の赤。
 かくかくと膝が震えてくるのを、アイラシェールは感じた。
 殺される。自分といるだけで。ここでこうしているだけで。
 みんな死んだ。父も、母も、姉も、育ててくれた人も。みんな自分のために、殺された。
 そして最後に残ったこの人さえ、このままでは、いずれ殺される。
 どうすれば、いい? 今までの人生で――そしてこの動乱が起こってから何度も、自分に問いかけた。その問いを再び取り出して、アイラシェールは反芻する。
 どうすれば、いい。
「アイラ」
 だが答えを出す前に柔らかな声音が、思考を遮る。
「カイル……」
「ありがとう」
 言葉をすべて省いて、カイルワーンはただそう言った。少し寝ぼけた、潤んだ目を見た時、胸が詰まった。
  ――連れていかないで。
 胸の奥に響く言葉。たまらなくなって、その目が辛くて、アイラシェールは後ろを向いて何も言わずに、厨房から出ていこうとする。
「僕の顔も見たくないのは判る。許してくれなんて言わない」
 背後から、静かな声が聞こえた。
「そのままでいい。だけど、そろそろ僕の話を聞いてくれないか」
 アイラシェールは振り返ることができない。けれども立ち去ることもできず、ただ扉の前で立ち尽くす。
「僕たちはこのままずっと、ここにいるわけにはいかない。イントリーグ党が僕らを追っているかもしれないし、そうでなくても魔女の呪いがかかっているアルバに安全な場所はない」
 カイルワーンは、はっきりと告げた。
「ここを出よう。国外に脱出して――できれば大陸から出て、どこか辺境で静かに暮らそう」
「……簡単に言うわね」
 微かな怒りに震える声が、もれた。
「そうは言うけれど、どうやって! この目立つ容姿の私を連れて、どうやって逃げるというの! 資金は、手段は! 旅券だってないのよ!」
「髪は今までどおり染められる。目は……不自由で申し訳ないけれども、隠していく。怪我をして包帯を外せないと言えばいい。旅券は金次第で何とかなりそうだ。当たりはつけてある」
「じゃあお金は」
「アイラ、これを見て」
 ざらざら、と何か金属が触れ合う音がして、アイラシェールは思わず振り向く。とテーブルの上には、金貨の山。カイルワーンは空になった黒い革袋を置くと、言った。
「十万サレット金貨で、三十枚ある。逃亡資金としては十分すぎるほどだ」
「……こんな大金、一体どこから」
 サレットはアルバの通貨で、十万金貨は最高額の貨幣である。裕福な市民階級でも一家五人一日千サレットで十分暮らせるというから、三百万サレットという額は相当な大金である。
「陛下が君の誕生日にあった謁見の際に、僕に下さった。好きに使えと――でもアイラ、好きに使えと言ったって、ずっと塔の中に閉じこもって暮らすのならば、金なんかいらないんだよ。ましてこんな大金。とすれば、陛下は何を考えていたんだろうか?」
 カイルワーンの示唆することは、アイラシェールにも判る。
 すなわち父王クレメンタインは、この日があることを考えていたのだろう。
「そのお金を持って、はいさようならと塔を出ていくことは考えなかったの?」
 意気地を必死に振り絞って、アイラシェールはそう告げた。だが平然と、カイルワーンは答えて見せる。
「ああ、それは陛下にも言われた。そうしたかったら、そうすればいいって。だけど」
「……だけど?」
「僕は君に約束した。どんなことがあっても、必ず守ってみせるって」
 不意の言葉に、アイラシェールは言葉に詰まった。
 あれはいつのことだったろう。三年、いや二年前か。何があったわけではない。取り立てて特別な一日ではなかった。けれども、不安を感じる自分を抱きしめて、そう言ってくれた。
 その時の腕の、胸の温かさは、今でも思い出せるけれど。
「どうしてなの……カイルワーン」
 とうとうアイラシェールはその言葉を口にした。
 塔で暮らしていた時から、聞きたかったこと。でも恐くて聞けなかったこと。その問いを、とうとうアイラシェールは取り出す。
「王命だから? 小さい時に――何も判らない、選択もできない年頃に連れてこられて、そのままだから? 私以外に誰も知らないから? カイルワーンには『外』という選択肢があるのに、『安全』という選択肢があるのに、どうして私を、危険を選ぶの?」
「君を愛しているから」
 さらりと告げられた言葉は、とてつもない意味を持っていた。
 呆然とするアイラシェールに、静かにカイルワーンは言う。
「僕は君に会えて、やっとこの世界に幸せがあることを信じられた。君が僕に、僕の人生に価値があることを教えてくれた――いいや、君が僕の人生に、価値をくれた」
 ふと寂しそうに、カイルワーンは笑う。
「君が僕を、救ってくれた。君は、何も、知らないだろうけど」
「カ、イル……?」
「君は僕が守る。何と引き換えにしても、必ず守ってみせる。だから、君が誰にも差別されない、そんな土地に辿り着けたら……結婚して、ほしい」
 その瞬間、アイラシェールの頭の中は真っ白になった。驚愕し、何も言えずただ立ち尽くす彼女に、カイルワーンはほんの少しだけ苦笑いを浮かべ、言った。
「返事は、すぐ出さなくてもいい。断ってくれてもいい。ただ、僕の気持ちのために――僕のために、どうか脱出までは手伝わせて。その後なら別れても、離れてもいいから。どうか君が安全なところに辿り着くまでは、僕をそばにいさせてくれないか。お願いだから……生きていてくれ。死ぬなんて、言わないでくれ」
 言葉尻が震えて、それがカイルワーンの心の痛みを表していた。
 自分の死に、この人の心はこんなにも痛むのか。そうアイラシェールは、ぼんやりと思った。
 どうしてだろう。なぜ自分なんだろう。自分が何をしたというのだろう。そう己に問いかけるも、答えは出はしない。
「お願い……少し、独りで考えさせて」
 その言葉だけを残して、アイラシェールは厨房から逃げ出した。自分の部屋に飛び込んで、そのまま床にへたり込んだ。
 どうすればいいんだろう。自分は一体、どうすれば。
 耳に怨嗟の声が聞こえる。目に悪夢の光景が映る。自分が彼を国中の人間から憎まれ、追われる存在にする。
 それでいい、と彼は言うだろう。それで本望だと。
 そして自分が何をしようと、何を言おうと、彼がその道を違えることはないだろう。
 だけど、だけど私は――。
 思考の袋小路に追い込まれ、アイラシェールが恐慌を起こしかけたその時。不意に顔を上げた彼女は、自分の目を疑った。
「鏡……が」
 壁にかかっていた、青色の大きな――背の丈ほどもある巨大な鏡が、向かいの壁ではなく、別の風景を映していたのだ。
「な……なんなの」
 鏡に映る風景は――像は、ゆらゆらと揺れて定まらない。時には森であったり、街であったり、海であったり。刻々とその姿を変え続ける。
 恐る恐る近づき鏡に触れると、揺らぐ像の上にはっきりと文字が浮かんだ。

  『時の鏡は運命の扉なり
   生涯の総てを賭け望みし者にのみ ただ一度のみの奇跡を与う
   汝 望みし過去へ 未来へ旅立たん
   運命は常に御前にあり』

「時の、鏡…………?」

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