それでも朝日は昇る 3章5節

 アルバ北西部の大都市、モリノーは夕闇に包まれていた。時刻は午後八時。五月のとりわけ長い陽もようやく暮れ、街には一日の勤めを終えた者たちがあふれかえり、思い思いの時を過ごしている。
 モリノーは領主であるバルカロール侯爵やその家臣などの上級階級が住まう上屋敷街と、庶民たちが暮らす下町とに大きく分けられる。南にある下町の、さらに南外れは歓楽街が広がり、この日暮れの時刻になると人々がどっと繰り出してくる。
 その歓楽街の中ほどに、一軒の店がある。建物は決して上等ではなかったが、正面には舞台も据えつけられてある大きな店だ。五十人ほどが入れる店はほどほど混んでおり、誰もが酒を酌み交わしながらこれから始まる舞台を待っている。
 店の名は『長春花』。モリノーではちょっとは知られた店だった。
 定刻、店の明かりが落とされ、舞台の裾から美しく着飾った女たちが現れる。最後にリュートを手にした薄金色の髪の女性が現れ、椅子に座ると歓声と口笛が上がった。
「ソニア!」
「待ってましたっ!」
 薄金髪の女性――ソニアは歓声に微笑むと、リュートを奏で始める。女たちの手にした鈴やタンバリンが陽気なリズムを刻み、軽やかな舞いが舞台の上で艶やかに咲く。
 詰めかけた男たちは女たちの楽と踊りを肴に杯を干し、艶かしい肢体に時に下卑な言葉を投げかける。
 そんな酒場『長春花』の階上には、幾つかの小部屋がある。その部屋の中でも一番奥にある目立たない、小さな部屋の扉を叩く者があった。
「アイラ、あたしだよ。開けてくれる?」
 扉を叩いていたのは、長身の女性だった。癖のない黒髪を背に流し、褐色を帯びた肌が異国の血を感じさせる。
 やがて内側から鍵を外す音がして、扉が開かれた。中から姿を現したのは、白い髪と赤い目をした少女。
 アイラシェールだった。
「ベリンダ、今日は舞台は?」
「うん、急に障りが来てね。ソニア姐さんがいいって。で、暇になっちゃったから、遊びに行こうかと。日も沈んだから、アイラも外に出られるでしょ?」
 どう、と聞く女性に、アイラシェールは目を輝かせた。
「行く! 行く行く!」
「じゃあ、行こう」
 アイラシェールの嬉しそうな表情に、女性――ベリンダも、嬉しそうに笑った。
 そうして二人は連れ立って『長春花』を出ると、夜の街に繰り出していく。
 夜の街は、昼とは違った喧騒に包まれていた。今日の稼ぎを手に一杯引っかける者、いそいそと目当ての女のところに急ぐ者、道端で芸を披露して小銭を稼ぐ者、いかがわしい物売り、物陰で客を引く女。沢山の声が入り交じり、熱気とともに空に上がっていく。
 二人の少女は、並んだ露店を一軒一軒見て回る。
「ベリンダ、あの鳥はなに?」
 アイラシェールがのぞき込んだ露店には、鳥籠が沢山かかっていた。
「ああ、あれ? インコだよ。あれも見たことなかった?」
「本では見たことはあったけど……へえ、あれくらいの大きさなんだ」
 髪を隠す被り布の端を握りしめ、目を輝かせて鳥に見入るアイラシェールに、ベリンダは微笑ましげな表情を浮かべた。
 アイラシェールは何を見ても驚き、喜び、不思議がる。その仕種がたまらなくおかしく、また可愛らしい。そのことを『長春花』の住人たちは誰もが知っていて、こうして暇を見つけては誰か彼かが彼女を連れ出す。
 ――アイラシェールが『長春花』に身を寄せるようになったのは、カイルワーンがカティスと出会ったのと、全く同じ経緯と言えた。
 月日は一月ほど遡る。それはカイルワーンがカティスと出会った頃と大差のない時期で、二人はお互い知る由もないことだが、時間的にはほぼ同じ頃に飛ばされたのだった。
 その時、アイラシェールは弦が鳴る音を聞いた。
 この音色は、リュートだろう。でも、それにしてもたどたどしい。もう少し、うまく弾けないのかな?
 そう思った瞬間、アイラシェールははっと目が覚めた。
 勢いよく上半身を起こすも、襲ってきた目眩にふらついた。
「大丈夫? 丸一日意識が戻らなかったんだから、無理しちゃ駄目だよ」
 気づかわしげな声音は、すぐ傍らから聞こえた。顔を上げると、枕元で佇んでいた女性と目が合った。
 反射的に身を引くアイラシェールに、女性は手にしていたリュートを置くと笑った。
「へえ、目は赤いんだ。白い髪も珍しいけど、目の色も珍しいね」
 その言葉は、アイラシェールをすくませるに十分だった。けれども、女性に何の屈託も恐れもないのを見て、記憶が甦る。
 そうか。自分は過去に来たのだった。魔女の呪いがかかっていない、過去のアルバに。
 もうこの髪を、目を、恐れる人はいないんだ。
「とても綺麗だね」
 女性の言葉が胸に染みて、涙が出そうになる。
「あ、ありがとう……」
 女性は一目で遥か南方の――新大陸の血を引いていることが判る容姿をしていた。肌は薄い褐色で、瞳は琥珀色。艶やかで癖のない黒髪を背中に流し、肉感的な肢体も相まって、なかなかの美女といえた。
「あの、ここは……私」
「ここはあたしたち一座の天幕。あなたは昨日、道端に倒れているところを姐さんが見つけたの。ずっと意識が戻らないから心配したよ」
「ありがとう。助けてもらって……」
「どういたしまして」
 女性はとても気持ちよく笑う人だった。その笑みに安堵を覚えて、アイラシェールも笑う。そんな彼女を見て、女性は安心したように頷くと聞いた。
「名前は?」
「私はアイラシェール」
「アイラシェール、か。可愛らしい名前だね。あたしはベリンダ」
 女性――ベリンダがそう名乗った時、天幕の外に人の気配がして、入口の布がたくし上げられた。
「あら、ベリンダ。お嬢さん、気がついたの?」
「まあ、よかった。心配したわ」
 どやどやと入ってきたのは、何人かの女性だった。どの女性も華やかで美しかったが、それは上品というよりはどこかあだな匂いがした。
「まあ可愛い。寝てる時からそうじゃないかと思ってたけど、目を開けると一層美人だわ」
「本当、お人形さんみたい」
「この肌の白いこと。羨ましいわあ」
 きゃいきゃいとはしゃぐ女性たちに面食らうアイラシェールに、ベリンダはこほんと一つ咳払いをした。
「姐さんたち、びっくりしているじゃないの」
「あら、ごめんなさい。だって可愛いんだものぉ」
 くすくすと嬉しそうに笑い、女性たちはアイラシェールに向いた。
「初めまして。私はソニア。私があなたを見つけたの。お名前は? お嬢さん」
 薄い色の金髪を結い上げた女性――ソニアが、アイラシェールに微笑んで告げる。
「アイラシェール、です。あの、あの……」
 身をすくませて――閉鎖された世界で育ってきたアイラシェールは、初対面の人間に対する身の処し方を知らなかった――それでも、何とか顔を上げて言葉を口にした。
「ありがとうございます、助けていただいて……」
「人見知りさんね」
 口ごもり、それでも必死に礼を述べるアイラシェールに、ソニアは苦笑いを浮かべた。
「あたしはマチルダ。ねえ、どうしてあんなところに倒れていたの? お家は?」
 栗色の髪の女性――マチルダが問いかける。その問いは、同じ頃カイルワーンが悩んでいたように、アイラシェールもまた悩ませた。
 今の自分の境遇を、どう説明したらいいのだろう。
「私……あの」
 言葉につまるアイラシェールに、女性たちは顔を見合わせた。長い間悩み、答えられずにいるアイラシェールに、ふとソニアは微笑んで手を伸ばした。
「辛いことがあるのなら、話さなくていいのよ。ただ一つだけ聞かせて。行くところは、頼るところはあるの?」
 優しくアイラシェールの髪を撫でるソニアは、同情と自嘲が入り交じる、とても複雑な表情をしていた。
 その内心はアイラシェールにはとてもうかがうことはできず、また彼女の問いにもまた答えられなかった。
 カイルワーンの手を振りきって時を越えて。ただ無我夢中で過去へ来たけれども、ここには頼れる者も、当ても、当座の生活資金も、何もかもがない。
 もう追われることも、憎まれることもない。けれども、果たして自分はこの時代で、たった独りで生きていけるんだろうか。独りで、何ができるのだろうか。
 心細さにじんわりと目頭に涙が浮かんできて、それが情けなくてアイラシェールは膝頭に顔を埋める。
 そんな彼女に、女性たちは優しく言った。
「身寄りがないのなら、しばらくはここにおいでなさいな。ここは、そういう女たちが集まっているところだから」
 アイラシェールは顔を膝頭に埋めて泣きながら、それでも小さく頷いた。
 それが精一杯だった。

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