それでも朝日は昇る 3章9節

 最初モントアーレ一座が陣取った広場を訪れたのは、『長春花』の常連たちだった。だが、日を追うごとに観客が着実に増していった。
 それがすべて、アイラシェール一人のためだとは誰も思ってはいない。一年前に比べ、一座の実力は確実に向上していたし、皆が苦心した舞台は確かに一見に値した。
 だが誰にも判っている。アイラシェールのリュートが、そして容姿が、確実に客を呼んでいることを。
 一座は活気にあふれていた。予想以上の観客と祝儀に喜び、満足のいく舞台に笑いあう。だが、その明るさには、笑いには、翳があった。誰もが祭の終焉を恐れていた。『その時』が来るのを恐れていた。
 祭の最中は、舞台に集中するということで、一座の女性は客を取っていなかった。けれども祭が終われば、また元の生活が始まる。だがその時、『元通り』にはなれない。
 だが祭の楽日――最後の舞台が終わった後、訪れた一人の人物が、さらに事態を思わぬ方向に導いていく。
 よい身なりをしたその男性は、座長であるソニアに面会を求め、少しの間二人で何事か話し合っていた。彼が帰っていった後、部屋から出てきたソニアは待ち構えていた一同に、ひどく難しい表情を向けた。
「ソニア姐さん、今の人、一体誰だったんです」
「何かあったの?」
 矢継ぎ早の問いかけにもソニアは答えず、ただ静かに名を呼ぶ。
「アイラシェール」
「はい?」
「話があるの。私の部屋に来て」
 それは一同に、ある予感を抱かせた。そしてそれは、違えることなく真実であった。
「なんで自分が呼ばれたのか、予想がついてる?」
 二人きりになって、ソニアはそうアイラシェールに切り出した。アイラシェールはその問いに答えられず、迷った挙句逆に問い返した。
「あの男性は、どなただったんですか?」
「領主館の家令だそうよ」
「バルカロール侯爵家のですか」
 驚いて問うアイラシェールに、ソニアは意を決して告げた。
「侯爵家は、あなたがほしいと言ってきたわ」
 ソニアの言葉は、アイラシェールを驚愕の渦にたたき込んだ。しばし口も聞けず、ただ呆然としている彼女にソニアは何も言わず、ただ待ち――沈黙が流れた。
「……なぜですか」
 ようよう呟くように問われた言葉に、ソニアは渋い顔をして首をかしげた。
「あなたをどうしようとしているのか――侍女にするつもりなのか、妾にするつもりなのか、そこら辺は私にも判らない。聞いても、向こうも教えてもらえなかったと言って、答えてくれなかった。だけど、これが侯爵ご自身の意向だと言っていたわ。侯爵自身がお忍びで祭を見物されて、そしてうちの舞台であなたを見たのだと、それが理由なのだと仰っていた」
 侯爵自身が見にきていた――それはすこぶる誉れ高いことだ。だがそれは喜びを感じるより、どこか空恐ろしさを感じさせられ、アイラシェールは身震いをする。
「だけど、どうして私なんでしょう」
「はっきり言っておくわ、アイラ。それは、当然のことなのよ」
 ソニアは静かにアイラシェールに告げた。
「あなたは街の娼婦の中に埋もれてしまうには、あまりにも光彩を放ちすぎている。目のある者が見れば、あなたが生半可な育ちではないことは、すぐに知れる。そうなれば、こういう話が来ることは当然のことなのよ。……ただ、いきなり天井の侯爵家から持ち込まれるとは思ってなかったけれどもね」
 ため息をつくソニアに、恐る恐るアイラシェールは問う。
「それでソニアは、どう答えたの……?」
「本人に決めさせますから、返事は待ってくださいって、そう言ったわよ」
 ここでソニアは、とうとうアイラシェールに切り出した。
「アイラシェール、自分で決めなさい。この一座を出て侯爵家に身を寄せるのか、それとも一座に残るのか。私はどちらでもいいわ。あなたがしたいように、なさい」
 その言葉に、アイラシェールは少し迷った挙句、問いかけた。
「引き止めては、くれないんですか……」
 ぽつり、とこぼされた言葉を――その切なさを、ソニアは正しく受け止めた。それでも、ソニアはアイラシェールに言わずにはおれなかった。
 それはこの一座で、ソニアにしか言えない言葉だった。
「アイラシェール、私はこのことを、いつかあなたに言わなければならないと思っていた。とうとうこの日が来たのね。――いい、よく聞いて」
 子どもに噛んでふくめるように、優しくゆっくりとソニアは告げる。
「あなたが来てくれて、私たちは本当によかったと思ってる。得るものは多かったし、沢山助けられたし、何よりとても楽しかった。できることなら、ずっといてほしいって思う。それは嘘じゃない。だけど、同時にこうも思う――あなたは、こんなところにいるべき人間じゃない」
 突き放した言葉だった。けれどもそれは確かに、一つの現実だった。
「あなたは私たちとは違う。男と寝て、そうしなければ食べていくこともできない私たちとは違う。そしてこのままでは、あなたはここから抜けられなくなる。それで本当にいいの? 本当にこのままで、いいの?」
 それは胸をえぐる言葉だった。けれども心のどこかは、ソニアの言葉の正しさを認めていた。このままではいけない――本当はそのことを、判っていた。
 夢の中で決して振り返ってくれないカイルワーンの背中は、何かを責めるようだとずっと感じていた。彼が振り返ったら、自分に投げつけるだろう言葉も、本当は判っていた。
『歴史を――運命を、変えるんじゃなかったのか』
 きっと彼は、そう言うだろう。
「あなたは領主館でも、いっそ宮廷でもやっていけるだけの教養と才覚と、そして容貌に恵まれている。そしてあなたは、そういう世界で今まで生きてきたのでしょう? だったら私は、ここはあなたの生きていくべき場所ではない。そう思うの」
 ソニアは視線を落とし、もう一度小さくため息をこぼした。
「それでもあなたがここにいたい、私たちといたいというのなら、それを拒みはしないわ。みんなもあなたにいてほしいと思っているし、あなたがいてくれれば本当に助かる。だけど、だからといって、そのためにあなたを引き止めることはできない。ここにいることが、あなたのためにはならないことを、私たちは本当は判っているのだから」
 アイラシェールは沈黙した。長いこと迷い、ソニアもまた答えを求めなかった。だがやがて顔を上げて、アイラシェールは問う。
「一つだけ教えてください。向こうはこの件を、身請けだと思っているんですよね」
「そういうことになるでしょうね。あなたは娼婦じゃないって、言ってはやったんだけど」
「だとしたら、私を領主館に迎えるにあたって……金銭の提示は、されましたか」
 アイラシェールの問いに、ソニアは顔をしかめた。それは隠しておきたかったことを看破されためだと、アイラシェールは見抜いた。
「答えてください」
 偽りを許さぬ強い口調で問いかけると、ソニアは不精不精頷いた。
「そのことは考えるんじゃないわよ、アイラ」
「でも、選択の材料の一つでは、ありますから」
「焦って答えを出さなくていい。もう少しゆっくり、考えてごらんなさい」
 アイラシェールは小さく頷いて部屋を出た。その途端、一座の女性たちに取り囲まれた。
 誰もが皆、不安そうな顔をしていた。それは、他人の身を案じるというより、もっと切実だった。
 それが大切なものを奪われることの不安なのだと、アイラシェールは悟り、そして切なくなった。
 この一座の女性たちを、自分がどれほど好きになっていたのかを、アイラシェールはこの瞬間悟ったのである。
「ごめんね、少し独りにしてくれる?」
 一同は物問いたげであったが、アイラシェールの言葉に素直に頷き、それぞれの部屋に戻っていった。アイラシェールは自室の寝台にもぐり込むと、そっと目を閉じる。
 私はどうしたらいいんだろう。その実に久しぶりの己への問いかけを、アイラシェールは噛みしめた。
 ここに――一座にいたかった。その気持ちに偽りはない。けれどもそれがなぜなのか、もうアイラシェールにも判っている。
 恐いのだ。環境が――世界が変わることが。新しい世界に踏み出していくことが。
 次に出会う人たちが――自分を取りまくことになる人たちが、今までの人たちのように優しいという保証はない。傷つけられるかもしれない。恐れられるかもしれない。それが恐いのだ。
 自分はまだ、他人を恐れている。他人というものを、信じていない。
 けれども。
『本当に、このままでいいの?』
 ソニアの言葉が、脳裏を回った。彼女が自分に告げたことは、大きな意味を持っていた。
 自分は夏至祭の舞台に立った。一座の人間として、衆目にさらされた。そうなれば、この後に待っているのは、娼婦としての人生だ。
 覚悟はした。その上で決めたことだった。けれども実のところ、娼婦になるということがどういうことなのか、本当に自分には判っているのだろうか。本当に、自分にできることなのか――耐えられることなのか。
 判らない。それはその現実に直面してみないと判らないことだ。けれどもその可能性は多分にあり、そうなれば自分は一座の面々に多大な迷惑をかけることになる。
 どうすればいいのだろう。どうすれば――呟きながら、アイラシェールは眠りに落ち、そして。
 夢を見た。


 月光にきらめく白刃が、空に軌跡を描いていた。
 青い闇の中に、赤い血が飛び散る。
 自分と追跡者との間に手を広げて立ちはだかった人は、その瞬間、笑った。
 これでいいのだと、何も悔いていないとばかりに、誇らしげに。
 悲鳴も上げられなかった。涙も出てこなかった。
 血に濡れた刃が自分に向けられることを、怖いと感じる余裕さえなかった。
 自分はただ、ゆっくりと血に浸っていく躯を、ただ呆然と見つめることしかできなかった――。


 夢で流せなかった涙は、目が覚めた瞬間に伝い落ちる。目尻からこぼれ、頭を伝って、枕を濡らしていく。
 吐き出すこともできない思いの塊が、胸につかえて、満足に息を吸うこともできない。
 ここで逃げ出すことは簡単だ。
 けれども。
「歴史を……変えよう」
 別れの時、カイルワーンに告げた言葉。それをもう一度取り出して、アイラシェールは呟く。
 どれほど恐くても。どれほどこの先、傷ついたとしても。
「運命を……変えよう」
 アイラシェールの心は、決まった――。
 そして翌朝、ソニアに静かに告げる。
「領主館に、行こうと思います」
 このままここにいても何も変えられない。ここではアルバの歴史に関われない。それが叶うのは、上流階級の人間だけだ。もし這い上がっていけるのなら、そこに辿り着くことができるのなら。
 かくして、アイラシェールは次の一歩を踏み出す。
 その先に待つものを、知らず。
 カイルワーンと違い、アイラシェールはいまだ己を知らず、それ故に己の道筋が定められていることもまた、知らない――。

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