それでも朝日は昇る 3章10節

 全ては一瞬の夢であったのだろうか――定められた別れの日、モントアーレ一座の女性たちは、そう思った。この三ヶ月間、確かに存在していた時間は、自らが夢に描いていただけの、幻であったのかと。
 侯爵家から支度にと贈られた薄桃色のドレスを身につけ、髪を編んだアイラシェールは清楚で気品にあふれ、どこから見ても『上流階級の令嬢』にしか見えなかった。
 その姿は、一座の女性たちに、彼女と自らの違いをあらためて実感させることとなった。
 侯爵家の申し出を、彼女たちは恨んだ。大切なものを貴族たちに奪われたと感じた。アイラシェールを金で売るのかと、ソニアに食ってかかった者もいた。けれども、そんな思いも、今の彼女の姿に霧散した。
 ただ心の中を、理解を帯びた諦めが広がっていく。
 ――アイラシェールは、帰らないといけないんだ。
 ――やはり、ここは彼女のいるべきところじゃないんだ。
 ――でも、だとしたら、彼女とあったこの三ヶ月間とは、一体なんであったのだろう。
 その幻のような、夢のような。
「本当に、今までありがとう」
 アイラシェールは、一座の女性たちの手を一人ずつ強く握る。言いたいことは色々あったのに、その思いは言葉にならず、言えるのはただそれだけ。
 ありがとう、と。
「アイラ、これをもらってくれるかな」
 最後にベリンダが、アイラシェールの手のひらに何かを落とした。それは、銀に白い石をはめた、小さな指輪。
「あたしらじゃこの程度が精一杯で……粗末なものだけど、でも持っていてくれると嬉しいなと……」
 アイラシェールは手のひらの上の指輪を眺め、ためらいがちに言うベリンダの顔を見つめ、やがて顔を歪めた。手のひらを握りしめて、堪えきれずベリンダにしがみつくと、目が熱くなった。
「ベリンダ、ベリンダ、私、私……」
 言いたいことがあった。言わなければならないことがあった。それなのに何一つ言葉にならず、出てくるのは嗚咽ばかりで。
「本当に……私、本当に……」
「うん、言わなくていい。言わなくても、判ってる」
 優しくベリンダはアイラシェールの背中を撫ぜた。それ以外にベリンダにはアイラシェールにしてやれることがなかった。
 もう何も、できることがなかった。
 そしてアイラシェールを乗せた馬車は、モリノーの北へ――屋敷町へと走り、その中でも一際高くそびえ立つ門をくぐる。
 アルバ北西部に広大な領地を持つ大貴族、バルカロール侯爵家の領主館である。
 侯爵家の家令に連れられ、領主館の廊下を進みながら、アイラシェールは自らが十七年を暮らした塔のことを思った。
 アイラシェールは塔を出たことがなく、当時の王宮内がどんな様子であったのかは知らない。けれども、あの塔は王宮の者から忘れられた古ぼけた建物とは言いつつ、その実贅を尽くされていたことに、いまさらながら気づかされたのである。
 こうして領主館の中を見回しても、場違いなところにきた気後れは感じなかった。むしろ自分が暮らしていた世界よりも、質素であると感じたほどだ。大貴族であるバルカロール侯爵が、自らの居城の内装や調度をけちっているわけもないだろうから、この時代はこのくらいが『贅沢』の平均なのだろう。
 この時代より二百年。アルバは富んだ。その富の証を、アイラシェールは見た気がした。
 二百年前の『豪奢』が『質素』に映ってしまうほどに、二百年後のアルバは奢侈に耽溺していたのだ。それを可能にできるほどにアルバは富み、そしてそれほどまでに貴族と王族はアルバの富を占有していたのだ。
 だから、民衆に憎まれた――。
 そうしてアイラシェールは、一枚の大きな扉の前に着いた。誰何の声に家令が用件を告げると、重厚な扉が開かれた。
「行きなさい。侯爵ご夫妻がお前にお会いになられる」
 大きな窓のある明るい部屋は、城主の執務室と思われた。そこにアイラシェールは、二人の人物を見いだした。
 奥の執務机に着いている男性と、手前のソファに腰を下ろす女性。二人とも、入ってきたアイラシェールを一瞥する眼差しが厳しい。
 この人物が、バルカロール侯爵エルフルト――アイラシェールは、驚きにも似た感慨を持った。
 エルフルト・ライリック・バルカロール侯爵。その名は、革命史に深く刻まれている。
 アルバの大貴族でありながら、平民出の英雄王と賢者に真っ先に膝を折り、その信頼をかち得た人物。その働きは『賢者の片腕』と称され、カティス王即位後は副宰相、賢者去りし後は彼の後を継いで宰相に任じられる。
 賢者なき宮廷を長い期間に渡って支えた、カティス王第一の忠臣となる人物だ。
 その年齢はカティス王の十一歳上だから、現時点で三十五歳。
「遠路はるばるようこそ」
 鈴を転がすような声で、侯爵夫人リフランヌがまず声をかけてきた。その優しい声音とは裏腹に、目は真っ直ぐにアイラシェールを見据えている。
 おそらく自分は試されているのだろう。それを感じて、アイラシェールは裾をさばき、膝を折る貴婦人の礼を取った。
「このたびは、侯爵家にお招きいただきまして、光栄の極みにございます。侯爵閣下、ならびに侯爵夫人に厚く御礼申し上げます」
「……驚いた。ちゃんと礼儀をわきまえているのね」
 リフランヌはアイラシェールの言葉に、所作に目を見張り、夫である侯爵を見た。侯爵エルフルトはしたり顔で、妻に答える。
「私の人を見る目を信じろと言ったろう? リフランヌ。……まあ正直、私もさほどに期待していたわけではなかったがな」
 小さく苦笑をして、侯爵は立ち上がった。夫人の横に腰を下ろすと、アイラシェールに向かいの長椅子を勧める。
 侯爵たちと同列の扱いに一瞬戸惑うアイラシェールに、エルフルトは気楽に声をかける。
「楽にするといい」
「ありがとうございます」
 アイラシェールが礼を述べて腰を下ろすと、リフランヌが口火を切った。
「名は?」
「アイラシェールと申します」
「姓は何という? 姓も持たぬほど卑しい生まれではないと見受けるが」
 鋭い追及に、一瞬アイラシェールは迷った。自分の持つ姓を、明かしてよいものかと。
 自分の『ロクサーヌ』という姓は、いずれ『王家』を意味することとなるのだから。
 だがアイラシェールは、器用に偽名を名乗ることもできずに、告げた。
「ロクサーヌ。アイラシェール・ロクサーヌと申します」
「ロクサーヌ――聞いたことがあるような、ないような……さて」
 侯爵はしばし考え込んだ。記憶を探り、しかし解答を得ることができなかった。そのためこの話題はそこまでとなり、代わりに侯爵夫人が問いかける。
 それはそのもの核心。
「聞きたいことがあるのでは?」
「それでは失礼を承知でお尋ね申し上げます」
 息をつき、気持ちを落ち着けてからアイラシェールは問う。
「娼婦の一団などに身をおいていた私を、ここにお招きくださったのはなぜでしょう? 侍女にするにせよなんにせよ、私ほどの娘など吐いて捨てるほどおりましょうに」
「それは当然の問いではあるが、君は自分というものを安く見積もりすぎているな」
 苦笑とともに、侯爵はアイラシェールに告げる。
「私は夏至祭で舞台に立つ君を見た。君の奏でるリュートを聴いた。君のその容姿が、リュートの腕前が、ここで通用すると――侯爵家の役に立つほどのものと認めたから、君を買い上げた。判るな?」
「お恥ずかしくも、もったいないお言葉にございます」
「私が一座に支払った金額は、君にそれだけの価値があるということだし、その金額分の働きを期待しているのだということだ」
 侯爵は厳しい言葉を、何でもないことのように言った。
「私は九月になれば王宮に戻る。その時に、君も私と共に王宮に入ってもらう」
「それは私を、宮廷女官に推薦するということでしょうか」
「そういうことだ」
 その時、アイラシェールの胸を何かが刺した。痛みを感じる胸は、何事かを彼女に告げようとするが、この時の彼女はそれを突き詰めて考えるにはいたらない。
 だが最初の予感は、すでにこの時あったのだ。
「九月までの三ヶ月間で、宮廷人として必要な素養と教養をすべて身につけたまえ。準備はもう整えてある」
 侯爵の言葉に、アイラシェールは表情を変えないように努めたが、内心は動揺していた。
 漠然とした不安が、広がっていた。
 だが――きゅっと手を握りしめて、アイラシェールは自らを鼓舞する。
 歴史を、運命を変えるのではなかったのか。そのためには、少しでも魔女のいる後宮に近づかなければならない。アルバの北の外れ、モリノーにずっといたのでは、何もできない。何も変えられない。
 それならばこれこそ好機だ。そう考えるべきだ――。
 けれども胸の中にはどす黒い染みのような不安が、じわじわと広がっていく。その不安の正体を掴めず、アイラシェールはただそれを忘れようとした。
 ただ、忘れようとした。

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