それでも朝日は昇る 4章5節

 フロリックは厨房にほど近い小ホールの食卓についていた。
「準備はいいのか?」
「ええ、それはもう。今日は準備の都合もありますし、料理を出来立てのいいタイミングで味わってもらいたいんで、一皿ずつ出す北国の流儀でいこうと思いますが、それでよろしいですか」
「構わんよ」
「最初は、スープからですね」
 カイルワーンが厨房から運んできたのは、小さなスープボウル。ほの黄色い液体は注がれたそれは、スープであるはずなのに、湯気が立っていない。
 そのことに気づきフロリックが器に触れると、それはひやりと冷たい。
「氷で冷やしてあるのか……?」
 スプーンを取り、恐る恐るスープを口に運ぶと、フロリックは目を見張った。
「これは、一体何なんだ」
 きりりと冷やされたスープは滑らかな舌触りで、すっと喉に落ちていく。フロリックにとって冷たいスープも初めてだったが、その舌触りも味わいも、今まで巡り合ったことがなかった。
「ジャガイモの冷製スープです。原料は、こいつ」
 カイルワーンは手にした生のジャガイモをぽんぽんと放り投げながら、答える。
「新大陸産の作物です。これとリーキとセロリをスープストックで煮て、クリームでのばしたものをすって冷やしました」
「……そんなものが食えるのか」
「その答えは、あなたの舌が知ってるはずだ」
「…………」
 フロリックは沈黙して答えなかった。だが、カイルワーンが次の料理を取りに厨房に下がったのを見計らって、スープボウルの中身を干すと、早急にそれを召使に下げさせる。
「次はサラダですか。これもちょっと珍しいものを用意しました」
 平皿の上には白と赤と緑の色彩。緑が下に敷かれたレタス、白がかけられたおろしチーズであることは、フロリックは一目で判った。だがレタスの上に盛られ、チーズをかけられたこの赤い果実のようなものと、同じく賽の目に切られた薄黄色いものは、何なのか。
「トマトとジャガイモのサラダです。ジャガイモは茹でて皮をむいたもの、トマトは皮はむいてありますが生のままです。 ソースはマスタードと白葡萄酢、オリーブ油、チーズを合わせてあります」
「トマト……聞いたことがあるぞ。王宮で珍重されている、観葉植物だろう!」
「よくご存知で。さすがは名高い交易商でいらっしゃる。そうなんですよね。ここら辺ではまだ観葉植物でしかないのが悲しいことです。南の方の進んだ国では――フェディタとかオフィシナリスとかでは、煮込んでソースにしたりしてよく食べられているのに」
 はあ、と大仰なため息をつくカイルワーンに、フロリックをぐっと詰まった。
 実はこの時代のアルバ人には、南方コンプレックスがある。そのことをよく踏まえた上での発言だった。
 現時点において、大陸の文化の中心地とされるのは大陸の南端・オフィシナリスである。そもそも大陸統一暦というのは、かつて大陸に一大統一王国を築いたオフィシナリス古王朝の起源から数えているのだ。今は一大王国も滅亡したが、かつての王国の首都があったオフィシナリスは今もその名残をとどめ、文化の華と讃えられている。
 1200年代になれば大陸の中央部という地の利を活かし、アルバも文化国として発展を遂げるが、今時点ではまだ田舎にすぎないのだ。
 カイルワーンの言葉に刺激されて、フロリックが赤い果実を口に運ぶと、思いもかけず酸味が広がった。それが濃厚なチーズと実によく合う。賽の目に切られたジャガイモは、ほくほくとした舌触りがあり、スープ同様仄かに甘い。
「しかし、あんな実が食べられるとは」
「いまだ出会ったことのない美食に巡り合いたいというのなら、出会ったことのない食材に恐れをなすのは愚かしいというものです。違いますか?」
「……それは」
 言葉につまるフロリックに、カイルワーンはもう一押しかなと内心で独りごちる。
 次に運んできたのは、大きな煮込み鍋。
「もう一品、トマトの酸味に頼って作ってみました。これこそ港町であるレーゲンスベルグだからこそ可能な料理ですよ。内陸のアルベルティーヌじゃ、こうはいかない」
 蓋を開けると、今度は盛大に湯気が立ちのぼった。鍋の中では、沢山の種類の魚介類が赤いスープで煮込まれている。
「イカ、ムール貝、アンコウ、エビ、鯛などの魚介類を、リーキ、タマネギ、フェンネル、ニンニク、タイム、月桂樹の葉、パセリ、ニンジン、白ワイン、そしてトマトと一緒に煮込んであります。色付けにちょっとサフランも入ってますか。僕の暮らしていたところでは、ブイヤベースと呼ばれていました」
「何だ、その香草の山は。よくそれだけの香草を縦横に扱えるものだ」
「僕は医者ですよ。医者が香草を使えないでどうするんです」
 一口スープをすすると、魚介類が実によいうま味を出しているのが判った。馴染みの魚介類と、馴染みのないトマトは喧嘩することなく、うまくまとまっている。もしこのスープの味からトマトの酸味を抜いたら、と考えれば、その薄気味悪い果実の実力をいよいよ認めなければならない。
「ううむ……」
 どんどん言葉少なくなっていくフロリックに、カイルワーンは舌打ちをして厨房に下がる。するとセプタードが、かまどからちょうど肉を取り出しているところだった。
「どうだ、首尾は」
「もう一押しなんだけどな」
 悔しそうなカイルワーンに、セプタードは明るく言う。
「まだ『真骨頂』と『奥の手』が残ってるさ。気楽にいこう」
「ああ」
 カイルワーンはちょうど焼き上がった肉の覆いをハンマーで割り、銀皿に移すと、重量のあるそれを抱えながらため息をついた。
「あーあ、こんなによくできてるっていうのに。あんな親父に食べさせるくらいなら、僕の方がよっぽど食いたい」
「……違いない」
 カイルワーンの一番の偽らざる本音に、セプタードは力一杯同意した。
「前菜、魚料理ときたら、次は肉料理か」
「当たりです。やはりここは真っ当に、ローストビーフを焼いてみました」
「奇をてらった食材ばかり駆使してきたというのに、肉ばかりはオーソドックスだな」
「さすがに珍獣の肉を焼くわけにはいきませんからね。別のところで奇をてらうことにしました」
 カイルワーンが大きなローストビーフの固まりにナイフを入れると、肉汁が滴り落ちた。切りわけた薄切り肉にソースをかけると、付け合わせを添えて給する。
 大きく切られたローストビーフを口に運ぶと、フロリックは驚きに目を見張った。
「辛い……」
「びっくりしたでしょう」
 くすくす笑いながらカイルワーンは言い、フロリックは訝しげに問いかける。
「胡椒か? だが胡椒の辛さとは違う質のものだ。一体この辛味はどうやって出した?」
「これです。ほんのちょっとだけ、かじってみてください」
 カイルワーンが差し出した赤いものをかじり、フロリックは舌を刺すような刺激の辛味に顔をしかめた。
「トウガラシといいます。これも新大陸産の植物で、色々な種類がありますが、今回僕は辛味の弱い赤トウガラシを使いました。オリーブ油に付け込んで辛味をうつし、その油をベースにソースを作っています」
水を飲んで口に着いた火を治めようとするフロリックに、カイルワーンは唆すように告げる。
「胡椒の代用物として、使えると思いませんか」
「…………」
「無論、胡椒は辛味を出すためだけに必要とされているものではない。ですが、辛味に対する需要は相当あるはずです」
 それは交易商としての彼の心を揺さぶるに、十分な言葉だった。
 今のアルバで貴金属以外に重要な取引は、胡椒・クローブ・シナモン・ナツメグの四大香辛料と砂糖である。とりわけ胡椒は辛味をもたらす唯一の香辛料として、黄金と引けをとらぬ値段で取引される貴重品だ。
 もし安価でそれの代用物を入手できるとしたら――。
「でも、この料理の真意は本当は、肉の方にはないんです。実はこのメニューは、付け合わせを食べてもらいたくて作ったんです」
「なに?」
 付け合わせに供されたのは、何やら緑色の莢つきの豆と、何だか判らない狐色の物体。
「緑の豆は、インゲンといいます。予想通り新大陸産の豆で、莢ごと食べられる種――サヤインゲンというのですが、それをバターでソテーしました。あと、狐色の物体はね……解説するより、まず食べていただきましょうか」
 カイルワーンが自信たっぷりににやにやと笑うのを何やら薄気味悪い思いでフロリックは見ると、まずインゲンを口に運んだ。
「こっちの豆と比べてそんなに違和感を感じないな」
「莢や皮をむかなくていい分、扱いが楽ですね。莢を食べるというのも、面白いでしょう」
「だがこの黄色いのは……」
 半月型のそれを口に入れ、フロリックは目を剥いた。それは驚きに値する歯ごたえと味だった。
 食べてみて、食材が何であるかは判った。それは二つ前のサラダで味わった舌触りと方向性が一緒だったからだ。そして食材の根本的な味も、変わるものではない。
 だがそれは、サラダの時のその食材とはまったく異なる風味を持っていた。
「ジャガイモ、だな、これは」
 熱い一かけらを飲み下し、厳しい顔つきでフロリックは問う。
「はい」
 カイルワーンはなおもにやにやしている。
「揚げたのか」
「そう、ただ揚げて、塩を振っただけ。ただそれだけの料理です」
 フロリックはカイルワーンの説明を聞きながら、無言で料理に手を伸ばす。それを見て取って、カイルワーンは口許で勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ただそれだけですが、これこそがジャガイモ料理の真骨頂です。成功したポテト・フライ以上にうまいジャガイモ料理は、異論はあるかもしれませんが、僕は存在しないと思っています。そして失敗したポテト・フライ以上にまずい料理もまたないでしょう」
「失敗もあるのか?」
「外側をカリカリに揚げるには、こつがあるんですよ。ただ油に放り込めば、そういい色に揚がるわけじゃない。油を吸うだけ吸ってぐちゃぐちゃになっておしまい」
「ふうむ……」
 相槌だけを打ち、なおもポテト・フライを口に運んでいるフロリックと皿を残し、カイルワーンは厨房に戻った。そこでは『奥の手』に向けて、セプタードが奮闘している。
「加減はどう?」
「いいタイミングなんじゃないか?」
 セプタードはボウルに入れた銀色の筒を回し続けている。その中身を一掬い口に運んで、カイルワーンは笑った。
 この贅沢なコースの締めくくり。最も驚異的なメニューこそが、この最後の一品――これに転ばなかったら、勝ち目はない。
「さあて、最後の仕上げに行こうかあ」
 小ホールに戻ったカイルワーンが手にしていたのは、小さなガラスの皿。
「これが最後。デザートです」
 こつん、と音をたてて置かれた皿に、フリックは仰天した。
 もし彼が貧民であったのなら、それが何であったのか判らなかったに違いない。だが彼は国内有数の豪商で、しかも王城に上がれるような貴族ではなかった。その微妙な立場故、そのデザートは心底彼を驚かせるものだった。
「まさか、まさかとは思うが、これがあの……」
「そう。宮廷料理の秘中の秘――まあ製法を秘密にしているわけじゃないけれども、あまりの贅沢のため、宮廷以外には実現不能と言われているデザート」
 くすり、と笑ってカイルワーンは告げる。
「アイスクリームです」
 その言葉は、フロリックに大層な衝撃を与えた。カイルワーンのやってのけたことは、まさに魔法としか言いようがないことなのだ。
「貴様、一体どうやって氷を調達した」
 フロリックの衝撃は、その一点に集中するのだ。
「今は七月――一番氷が入手しにくい時期だ。様々なつてや金がある儂だって、この時期に大量の氷を入手することは不可能だ。それなのに、沸騰したスープをあそこまで冷やしたり、牛乳を固めるだけの大量の氷をお前はどうやって調達したというんだ!」
 アイスクリームが宮廷から持ち出されなかったのは、材料が高価なこともあるが、畢竟その一点に尽きる。冷却に必要な量の氷を、夏に調達できるのは宮廷だけだ。そして冬の氷が豊富な時期に、冷たいものを食べたいと思えるほど家屋を暖房できるのも、また富裕階級だけだ。
「種明かしは、おいおいしましょう。早く食べないと、溶けますよ」
 カイルワーンの言葉にはっとすると、フロリックはスプーンで一掬い、アイスクリームを口に運ぶ。そして、言葉を失った。
「うまいでしょう?」
 初めてカイルワーンは問うた。その問いかけに、フロリックは実に苦渋に満ちた表情をみせた。
 もはや段階は、我慢比べの域に入っていた。
「僕のアイスクリームは、宮廷のものよりもおいしいはずですよ。宮廷でさえ取り入れていない、最高の香料を入手できましたから」
「香料、とは」
「黒い粒が見えるでしょう? それがこの甘いいい匂いの正体です」
 カイルワーンが見せたのは、干して黒くなった莢。
「バニラといいます。これも新大陸産の植物で、その黒い粒はこの莢の中の種です。バニラ・アイスクリームはこれからアイスクリームの王道となるでしょう」
 渡されたバニラは外見からは想像もできないほど、甘く芳しい匂いがした。舌の上でとろけるアイスクリームは冷たく、悪天候の不快な気分を吹き飛ばす力を持っていて、フロリックは口に運ぶ匙を止められない。
 皿が空になるまで、カイルワーンは何も言わなかった。そして、空になってもだんまりを決め込んでいるフロリックに、カイルワーンはことさら「嘆かわしい」とばかりの表情を作って言う。
「どうやらお気に召さなかったようですね」
「…………」
「実はですね、フロリックさん。あなたはご存知ないかもしれませんが、アイスクリームというものは、少量だけ作る、ということができないものなんです」
「……なに?」
「少なく作りたくても、一定量はどうしても作らないといけないんですね。だから今日も、かなりの量を余してしまったんです。でもアイスクリームはこの通り、保存が利かないものです。できたら、すぐ食べないといけない。――というわけで、この館の人たちに余りを振る舞わせていただこうと思うのですが、よろしいですか?」
「待て!」
 かくしてフロリックは、見事にカイルワーンの罠にはまった。椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がって、叫ぶ。
「あんな連中に食わすくらいなら、儂に寄こせ! もったいない!」
 叫びはホールにこだまし、静寂の後、カイルワーンは静かに告げた。
「僕の、勝ちですね」
 カイルワーンの言葉は、沈黙を生んだ。力なく椅子に座り、フロリックはため息をもらすと言った。
「お前は大層に意地の悪い男だな」
「そうでしょうか?」
 しれっとして答えるカイルワーンに、フロリックは苦笑した。
「この料理勝負には、根本的な矛盾があるではないか。お前の料理がまずかったら矛盾は生じない。だがお前の料理がうまかったと儂が思ってしまったら、もう罠にはまる。お前を手に入れるために儂が『まずい』と嘘をついたら、儂はお前に金輪際料理を作らせることができなくなる。何か作れと言った瞬間、賭と契約は無効だ」
「その通りです」
「だったら儂は、最高の料理人を抱えながら、何も作らせられない不満を抱え続けることになる。それはあまりにも酷ではないか。儂はお前の料理の味を知っているのに」
「お褒めに与かり、恐縮です」
 カイルワーンはそう言うと一旦厨房に下がり、今度はもっと大きな皿にアイスクリームを盛って戻ってきた。差し出された誘惑に抗うことなく屈して、フロリックは呟く。
「今日の料理は、どれもうまかった。儂の負けだ」
大きな一掬いを口に運び、フロリックはそれでもなぜか嬉しそうに問いかける。
「儂に何を要求する?」
「要求したいことは、そんなに難しいことではないんです。実は僕はただ単に、あなたと誼を通じておきたかっただけなんです」
「ほう?」
 意外な言葉にフロリックは驚き、そんな彼にカイルワーンは告げる。
「僕はあなたと取引をしたい。僕はあなたに様々な要求をしますが、それに対して適当な対価はお支払いするし、それによってあなたに損をさせたり迷惑をかけたりすることもない。むしろ、あなた側にも利益はあるでしょう。僕には知識や技術はあります。けれどもそれを製品化したり実現化したりする力がありません。だからあなたの力が借りたい」
「なるほど、お前は儂に仕事上の取引相手になれと言うのだな」
 納得し、アイスクリームを口に運び、忙しいフロリックはそれでもカイルワーンから視線を外さない。
「そうですね。手土産に、僕がどうやって大量の氷を作ったかお教えしましょう。氷を単独で売っても商売になるし、果汁を固めて冷たいキャンディーでも作って売り出せば、一儲けできるんじゃないですかね――アイスクリームは、街で売るにはちょっと単価が高くなりすぎる。……まあ、今年の夏はあまり暑くないからうまくいかないかもしれませんが」
 フロリックはその情景を思い浮かべた。暑い夏に安価で売り出される甘い氷。それはどれほどの評判を呼ぶだろうか。
 自分の仕掛けが人々の心を掴み、話題を独占する。それは儲けや利潤とは別に、商人としての彼の自尊心をくすぐる、心踊る光景だ。
「その申し出に、一つ条件がある」
 最後の一匙を口に運んでから、フロリックは立ち上がった。微かに身構えるカイルワーンに、彼は意地悪い風を装って告げた。
「月に一度でいい。我が家に来て、料理の腕を振るってはくれないか? それが条件だ」
 その突然の申し出に一瞬カイルワーンは戸惑い、だがやがて繕わぬ満面の笑みを浮かべて答えた。
「喜んでお引き受けいたしましょう」

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