それでも朝日は昇る 5章5節

「またこうして、こんな形でお目にかかれることを、嬉しく思っています。アイラシェール――いいえ、アレックス侯妃殿下」
 リフランヌの言葉に、アイラシェールは軽く頭を下げた。
 アルベルティーヌ城下、バルカロール侯爵邸の応接室。侯爵夫妻とアイラシェールが贅沢な砂糖菓子と茶を前に、向かい合っていた。
 収穫祭が終わって間もなく、ウェンロック王は女官で気に入りの楽士であるアレックスの侯妃冊立の決定を公にした。
 彼女への王の執心は宮廷人のあまねく知るところであったから、この決定は人々を驚かせはしなかった。誰もが遅かれ早かれ、この日が来ることを予測していたのである。
 そしてアイラシェールは女官の任を解かれ、正式な入城式の日まで、後見人であるバルカロール侯爵の下に戻されたのである。
「私がこの日を迎えられましたのも、侯爵ご夫妻のお力添えによるもの。心より感謝いたしております」
 以前より上等の薄荷色のドレスに身を包み、華奢な真珠の首飾りを身につけたアイラシェールは、大貴族の令嬢と呼んで何ら差し支えない雰囲気を持っていた。それは彼女が侯爵に見いだされた時から変わるものではなかったが、侯爵夫人はここで夫の目の確かさを実感する。
 そして同時にいつもの疑問もまた覚えた。
 この娘は、何者なのだろうかと。
「浮かぬ顔だな」
 礼の口上を述べながらも、どこか生彩を欠くアイラシェールに、侯爵は訝しげに問いかけた。
「もう立場も身分も、私たちと同等、もしくはそれ以上となったのだ。構えることはない」
 侯爵の言葉に、アイラシェールは沈んでいた顔を上げる。その内心には黒い靄がかかり、深く沈み込んで浮かび上がれない。
 一体何を、どう伝えればいいのか。何をどう話したら、この気持ちを判ってもらえるというのだろうか。
 私がこの国を滅ぼす魔女なのかもしれません。そうとでも言えばいいというのか。
「この結果は、侯爵ご夫妻のお望みに適ったものでしたでしょうか?」
 アイラシェールの突然の問いかけは、夫妻から上辺も体面もはぎ取るものであった。それに気づいて、侯爵はやや間を置いてから咳払いをすると、逆に問い返した。
「どう言ったら、お前は喜ぶ?」
「真実を。それ以外の解答はほしくありません。侯爵様は、私をウェンロック陛下の下に送り込むために、娼館から買われたのですか?」
 飾りも嘘も切り捨てて問いかけるアイラシェールに、とっさに侯爵は答えられない。言葉に詰まる彼に、アイラシェールは寂しげな顔を向けた。
「恨み言を申し上げたいのではございません。ただ……」
「ただ?」
「私はこれから後宮に向かうにあたって、侯爵様たちが私に何を望んでいるのか――どういう未来が侯爵家にもたらされることを望んでいるのか、知っておきたいのです。この後私が辿っていく道が、私をこの世界に導き入れた貴方様たちの望みであったのか、否かを」
 遠く何かを達観するようなアイラシェールの言葉に不思議を覚えつつも、侯爵は意を決して正直な胸の内を答えた。
「お前も知っているだろう。ウェンロック陛下は御年五十。正妃を始めとして、これまで二十人を越える妃を迎えられたが、誰一人として王のお子を身籠もることはできなかった。たとえお前がこれから王と寝所を共にしたとしても、もはや懐妊を望むことはできまい。となれば当然、王位継承を巡って宮廷内は揺れ動くことになろう」
 小さなため息をついて、侯爵は続けた。
「現在王位継承権を主張できるのは、ラディアンス伯爵とフレンシャム侯爵の二人だ。だが二人とも傍系の末流。異論が噴出し、騒乱に発展するのはもはや火を見るより明らかだ」
 あの程度の系統で王位を主張できるというのならば、自分にだってその権利を主張したっていいはずだ。王統に近い血筋を引いているというだけで、自分たちよりも劣る権勢の者に王位をみすみすくれてやっていいのか。
 大貴族たちはそんな不満を抱くだろうし、下級貴族たちはこれから起こる争いに対し、寄るべき大樹を決めあぐねている。それがアルバ宮廷の現状だ。
「そう遠くないうちに、ラディアンス伯、フレンシャム侯は王位獲得に向け動き出すだろう。その時、アルバ宮廷の勢力分布は動く。アルバ貴族が分裂し、騒乱に発展するのは必至だが、その時誰が誰につくのか、いまだ予測がつかない。当然、伯や侯の風下に回ることを嫌った第三勢力の台頭もあろう」
「貴方のように?」
 刃の鋭さで切り込んでくるアイラシェールに、侯爵は苦笑した。
「叶うならば、そうしたいところだな。時代の流れで運よく先祖が王族を娶れたというだけで、格下のラディアンスやフレンシャムに臣従するのは気分のいいことではない。だが私一人で――バルカロール家のみの力で王位に辿り着けはしない。バルカロールができるのなら、他の大貴族たちとてできよう。私が反ラディアンス・フレンシャム派の盟主になれるかどうかは、微妙なところだろう」
 侯爵が浮かべた苦笑に、アイラシェールは不思議な感慨を受けた。
 彼は己をなぜ嗤うのだろう。
 彼の言うことは現実で、確かに彼は自分だけの力で王位には上れはしないだろう。けれども彼の物言いは、あまりにも野心を感じさせない。
 彼は王位を、望んではいないのだろうか?
「……侯爵様は、王位を望んではおられないのですか? ラディアンス伯やフレンシャム侯、その他沢山の政敵を蹴落として、玉座を掴もうとはお思いになられないのですか?」
「叶うのならば、それは至上の選択肢だろう、アイラシェール。だが叶わぬ選択肢を選ぶほど私は愚かではない。望みの薄い賭に私の持てる全てを費やすことは、私にはできないのだよ」
 この言葉は、後のバルカロール侯爵の全行動の心意を、如実に表していた。そのことを、後になってアイラシェールは振り返ることとなる。
「私は負けることはできない。勿論勝ちを選べるのならばそれに越したことはなかろう。だが、確率の低い『勝ち』に全てを賭けるよりも、私は確実な『負けない』道を選択する。だから私はこの戦いの『勝者』が誰なのかを、見極めなければならない。それが私であるのならば幸いだし、そうなるべく努力はするが、それに全てを賭ける危険を冒すことは、私にはできない」
 迫り来る動乱は王位をうかがう好機に違いない。だがそれは、全てを一夜にして失う危機でもあるのだ。この事態に際し、侯爵は危機の回避を最優先と定めているようだ。
 おそらく彼が守ろうとしているものは、家名と領地と爵位。
 そのために彼は、何がなんでも自分は最終勝者側につくと、そう言っているのだ。
「どうして、ですか?」
 問いかけたアイラシェールに、この時侯爵は微かに目を細めた。
「野心と呼ばれるものは、侯爵様にもあるのでしょう。そしてバルカロール侯爵家ならば、勝利の可能性は皆無ではありますまい」
 それなのに――問いかけるアイラシェールに、侯爵は幾ばくかの沈黙の後、答えた。
 アイラシェールを、認めて。
「アイラシェール、私は貴族は貴族であることの責務を負っていると考えている。王は王であることに、領主は領主であることに、与えられた職務と地位と特権に対し、それ相応の責任を背負っていると思っている。違うか?」
 貴族の責務――多くを持つ者は、多くの責任を持つ。古くから伝わる格言を取り出し、侯爵は静かに続けた。
「私はバルカロール侯爵だ。だがそれは、私がバルカロール家の長子に生まれついたからだ。ただそのことで、私は平民が望んでも決して得られぬものを与えられる。教育も、地位も、名誉も、芸術も、ある程度の奢侈も。だがそれは、バルカロール侯爵家と領土、領民を守る使命と引き換えだ。その恩恵に浴した以上、その責任から逃れることは許されない」
 王朝末期の人間とは思えぬ清廉さで、侯爵は己が使命を口にする。
「統治者には、領民と領土を支配する権利と、それらを守る責任がある。私は自分の野心や領土欲のために、それらを賭の卓上に投げることはできない。領土に戦乱を持ち込み、他人に踏みにじられる危険を冒すことはできない――堅苦しい、古臭い人間だとよく言われるがな」
 苦笑と自嘲的な言葉で、侯爵は告白を締めくくった。
「そのためにも私は、後宮に――王の側近くに、私の息がかかった人間を配したかった。無論私とて、簡単に王を操れるなどとは思っていない。ウェンロック陛下がどれほど頑な方であるかは、廷臣である我々が一番よく知っている」
「ならば、何のために私を」
「王の心意が奈辺にあるのか、探ってほしい」
 侯爵は、アイラシェールにそう告げる。
「王には今のところ、王位継承者を指名される気配はあらせられない。ご壮健な方だから、今まで自分亡き後のことなどお考えにならなかったのも仕方はない。だがもはや、それではすまぬだろう。その時陛下が誰を指名されるのか――それだけではなくて、王が何をどう考えて、国政に臨んでおられるのか、それを」
「流せ、と仰られるのですね」
 政敵たちに先んじて行動するために。一歩でも二歩でも先手を打てるように。
「勿論、君を通じて、バルカロール家に好感と親近感を抱いていただければこの上ない」
 王は傀儡にはできない。そう侯爵は言ったが、思うままに操れなくても、寵妃を身内に抱えることは、ごく単純に政争において有利だ。寵妃の懇願ならば、頑固な王でも心動かされることはあるだろう。
 アイラシェールは眼前の侯爵を見るにつけ、史書に思いを馳せずにはいられなかった。
 彼は常に『勝者』の側にありたいと願う。そして歴史通りに事が運ぶのならば、彼は正しい選択を下し、願いは成就する。
 だが、彼が見いだした『勝者』は、ラディアンス伯でもフレンシャム侯でも他の大貴族でもなく、爵位も領地も財産も何も持たぬ、一介の傭兵だった。革命軍の陣中に、ふらりと現れた傭兵に彼は真っ先に膝を折り、自らの剣を捧げて臣従を誓った。
 彼は何をもってカティス王を『勝者』と――未来の王と確信したのか。何を根拠に彼は自らの守るべきものの未来を、カティス王に託す気になったのか。
 そして私はその時、どこにいるのか。
 だから。
「侯爵様、一つだけ私の言葉を覚えておいてくださいますか?」
 アイラシェールはぽつり、と呟くように言った。
「もしかしたらこの先、侯爵様に非常に難しい選択を迫られる時が来るかもしれません。その選択は、侯爵様の常識を覆すようなもので、もしかしたら侯爵様の最も厭われる賭の領域に属するものかもしれません」
「……アイラシェール?」
「恐らくこれから、アルバは荒れます。予想もしなかった方向に事態は流れ、考えもしなかった結末が待っていることでしょう。――私は悲劇を少しでも減らしたい、定められた流れを少しでも変えたい、そう願って努力するつもりではいるのですが……それでも、何一つ変えられなかった時――この世の終わりがきた時」
 それは、アレックス侯妃と呼ばれる女性が残した最初の預言だったのだと、後にバルカロール侯爵夫妻は知る。
「迷わず進んでください――貴方の大切なものの、守るべきもののために。進めば貴方は、必ず勝てます」

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