それでも朝日は昇る 5章7節

 大陸統一暦998年十二月一日。アルベルティーヌには冷たい雨が降りしきっていた。
 晴れのこの日を待ちわびていた市民たちは、暗い空を見上げては、無情な神の采配にため息をついた。
「新しいお妃様も、ついてないねえ。こんなひどい天気じゃ」
 アルベルティーヌ市民は、それでも華やかな行列を一目見ようと詰めかけた。沿道には傘の花が幾重にも開き、階上から下を眺めていた人々の目には、黒い花が開いたかのように映っていたことだろう。
 行列の出発点はバルカロール侯爵邸。そこにほど近い店舗の軒先に、二人の男性が立っていた。
 一人は短めの金髪に長身。がっしりとした体格と腰の長剣が、彼の生業を雄弁に物語る。
 一人は伸ばし加減の黒髪に小柄な体躯。理知的な顔だちと怜悧な気配が、彼の知性を見る者に感じさせる。
 あまりにも対照的なこの道連れは、道行く人の関心を刹那引くものであった。
「……カイルワーン、どうする?」
 目の前の慌ただしい人の流れを眺めながら、カティスはカイルワーンに問いかけた。
 その問いは、正直なカティスの本音であったのだろう。
 アルベルティーヌに着いてすぐ、カイルワーンは体調を崩した。いや、精神の安定を乱した、と言った方が正しいだろう。
 食が一層細くなり――彼は食い道楽のわりには食が細く、カティスは彼の線の細さの理由を深く納得する――眠れば悪夢にうなされるのか、一夜に何度もはね起きた。物も食わず夜もよく眠れないでは体調に影響が出るのは必然で、気分を悪くして動けなくなることもしばしばだ。
 そんな彼を見るにつけ、強引にでもついてきてよかったのだろう、とカティスは思う。体調不良を起こしても、カイルワーンはレーゲンスベルグに戻ったり、宿で静養に努めようとしたりはしなかったからだ。
 カイルワーンの様子は、一見普段と変化ないように見える。だが作り笑いすらも消え、厳しく見える無表情こそが、彼の不安定さを表しているようにカティスには思えた。
 それはまるで、弓弦を引き絞ったような――引き絞ったまま矢を放てず、満身の力を込めて静止しているような、そんな危うさをたたえていた。
 カイルワーンはアルベルティーヌに着いた翌日から、動き出した。問題の女官がバルカロール侯爵の遠縁で、彼の養女扱いとなっていること。彼の後ろ楯を得て女官となり、これから王の下に召されること。それらの噂は、半日も街を歩けばすぐに拾うことができた。
 それを聞いたカイルワーンは、なぜか釈然としないような、ひどく複雑な表情を見せ、またもカティスに不審を抱かせることになる。
「バルカロール侯爵……」
 問われてもカティスには説明できないことであるが、カイルワーンが考え込んでしまったのは無理もないことだった。
 もし、この女官が『魔女』であるというのなら、『魔女』を後宮に送り込んだのは革命派の中心人物であるバルカロール侯爵であるということになる。
 そして、彼女がアイラシェールであるというのなら。
 もし歴史が自分の知る通りに流れていくとするならば、自分はアイラシェールを王の下に送り込んだ相手を、この先片腕にすることになる。
 それは一体、どういうことなんだろう。この先、自分とアイラシェールとカティスとバルカロール侯爵の間で、一体何が起こるというのか。
 歴史書は何も語らない。どんな記録も残っていない。
 確かに魔女と英雄王と賢者に関わる一連の事項は、意図的に隠蔽されている。だがそればかりではなく。
 歴史書は、結果と事件の経緯は記しても、その時の人の気持ちは――心は、決して記すことはないのだ。
 歴史を変えることが叶わなければ――そうカイルワーンは独りごちる。それができなければ、いずれ僕はバルカロール侯爵に出会うのだろう。カティスと出会ったように。フロリックと出会ったように。その時僕は、一体何を感じるのだろう。彼に何を言うのだろう。
 定められた歴史を知りながらも、自分が『すべて』を知っているのではないことを、カイルワーンは改めて思い知る。
「おい、カイルワーン」
 自分の思考の世界に閉じこもってしまったカイルワーンに、カティスは半分心配げに、半分苛立たしげに声をかけた。カイルワーンの精神が、自分には与り知らぬ『向こうの世界』に行ってしまうことはしばしばで、カティスはもう慣れたが、慣れたからといってそれが不快でないと言ったら嘘になるだろう。
 はっとして、カイルワーンはカティスの顔を見、やがて言った。
「バルカロール侯爵の館に行く」
「真っ正面から行って、入れてもらえると思ってるのか?」
 カティスの指摘に、カイルワーンは一瞬止まった。そして、次にはひどく苛立たしげな表情を見せた。それはカティスに不快を覚えたのではなく、自らの迂闊さと事態の困難さを呪うもので。
 そして、事態はカティスの言うとおりになった。
「バルカロール侯爵は、よほど政敵が多いらしいな」
 カティスは厳重な警戒に、そう感想を述べた。
「というより、この時期に彼の息のかかった人物が王の側近くに上がるということは、他の貴族に警戒心を抱かせて当然だ。アレックス侯妃を邪魔に感じている貴族は、少なくないだろう」
「この時期」
「君にだって判っているだろう。王位継承を巡って、宮廷はキナ臭くなってるはずだ。子供のいない王が誰を後継者にするのか――誰が次代の権力を握るのか。それは貴族たちにとって、死活問題だ」
「寵妃が王に影響を与えるのが恐い、か」
「それにしたって……くそ」
 近づけない館に――その奥にアイラシェールがいるのかもしれないのに、入り込めない館に、カイルワーンは忌ま忌ましげに呟く。
 ほんの少しの距離にいるかもしれないのに。会えるかもしれないのに。手が届かない。手を伸ばすことが阻まれる。
 彼らがアルベルティーヌに着いたのが、十一月半ば。それから二週間、カイルワーンは様々な方法でバルカロール侯爵邸内の『アレックス』に面会を求め、または侯爵邸に忍び込む方法を模索したが、それは叶わなかった。
 そうして月日は十二月一日。新侯妃アレックスの、入城式の日。
 一団の騎兵と、王家の紋章――一重の白薔薇を刻んだ黒塗りの馬車が、バルカロール侯爵邸に入る。沿道はますます人であふれかえり、侯妃のお出ましを今か今かと待ち構えている。
「カイルワーン」
 再び問いかけたカティスに、カイルワーンはひどく頼りのない顔をした。
 カティスにそう問われたって、カイルワーンには判らない。どうすべきなのか判っていたら、こんなところで立ち尽くしてなんかいないだろう。
「僕は……どうしたらいいんだろう」
 この二週間、できうる限りのことはした。考えつく限りのことは試した。けれども、広大な館の奥に隠された女性に出会うことはついにできず。
 一人の人間に――一介の平民にできることは、たかが知れている。そのことにカイルワーンはしたたかに打ちのめされる。
 自分は、あまりに、無力だ。
 ざわめきが上がった。侯爵邸の門扉が開き、騎兵に前後を守られた馬車が出てきた。
「通して! 僕を前に出して!」
 その瞬間、カイルワーンは人波を強引にかき分けて、群衆の最前列に出た。
 近づいてくる、金とガラス玉で飾られた豪奢な馬車。大きく作られた窓辺に座り、凛と前だけ向いて座る女性の横顔。
 彼女は横を――沿道を見なかった。彼女がもし、少しでも外を見ていれば、そこに彼女の一番大切な人物の姿を見いだすことが叶っただろうか。
 二人は一瞬でも、目を交わすことができただろうか。
 それができていたら、何かが変わっていただろうか。
 けれどもそれは叶うことなく、後に残されるのは。
 力を失って、ぬかるみに崩れこんだ青年の姿。
「何だ!」
「どうした?」
「おい、大丈夫か?」
「すまない、連れだ! 通してくれ!」
 後を追いかけ、ようやく追いついたカティスは、ざわめく群衆の中から地面に倒れ込んでいたカイルワーンを抱え起こした。
 雨をしのげる、人目のない路地裏の軒先にカイルワーンを運び込んで、カティスは問いかけた。
「……見えたのか?」
 ただその一言の問いかけに、歪んだカイルワーンの顔が力なく頷く。
「行かなきゃ……アイラを、止めなきゃ……」
「行ってどうする。行列の前に飛び出して、車を止める気か」
 カティスは思いがけず厳しい言葉を吐いた。けれどそれは真実で、だからこそカイルワーンは胸をえぐられる。
「今から行って、馬車の速度に追いつけるものか。追いついたところで、どうやって止める。騎兵隊に不敬で斬られても何も文句は言えないぞ!」
 それこそが、ただ今の現実だ。
 身分。いつだってアイラシェールと自分の前に立ちはだかるもの。乗り越えきれず足掻いてきた壁。
 それが今また、彼女と自分の前を塞ぐ。
 いつだって、心の中には空しい仮定がこだましていた。
 もしも、自分が貴族であったのなら。
 もしも、自分がこんな卑しい生まれでなかったのなら。
 その詮のない、空しい夢想。
 それが現実だったら、自分はかくも苦しむことはなかったのに――。
「それでも、行かなければならないんだ……」
 ふらつく足で立ち上がり、歩きだそうとするカイルワーンに、カティスは意を決した。
 無言で自分の前に立ちふさがったカティスの意図を、カイルワーンは掴めない。
「カティス――」
 呼んだ名は最後までは紡げず、不意に崩れた体は再びカティスの腕に抱きとめられる。
 鳩尾に入った拳は、カイルワーンのすり減った意識を、たやすく奪った。
「お前にこんなところで死なれてみろ。お前の信奉者たちに俺は叩き殺されるぞ」
 だが意識のないカイルワーンを宿に連れ帰り、彼を休ませたカティスは、まだ油断をしていた。カイルワーンのことを心配する宿屋の主人と、釈明と情報交換を兼ねて話し込んでいるうちに、寝台はもぬけの殻になっていたのだ。
「やられた!」
 カティスは苦々しく吐き捨てると、宿の主から傘を借りてアルベルティーヌの街に走り出る。カイルワーンの行き先など、簡単に見当がついた。
 そして彼がどこで足止めを食らったかも。
 夕刻のアルベルティーヌ城は雨の中に煙っていた。その大門の前に、ぽつねんと佇む小さな人影を見いだして、カティスは歩み寄る。
 カイルワーンは降りしきる雨に全身を濡らして、立ち尽くしていた。服が雨だけでなく、泥にまみれていることや、冷たい雨に叩かれても赤みがひかない頬が、何があったかを雄弁に語っている。
 その姿は、カティスの封じておきたい古い記憶を呼び覚ます。
 アルベルティーヌ城の大門。ここはカティスが最も嫌いな場所だった。十四年前と変わらぬ、この国で最も壮麗で豪奢で、そして冷たい場所。
 この場所はいつだって人のささやかな希望を叩き壊し、己の無力さと絶望を突きつける。
「諦めろ。この門は押そうが叩こうか、泣こうが喚こうが暴れようが、開きやしないんだ」
 カティスはカイルワーンに傘を差しかけながら、そう言った。
 カイルワーンはそう自分に告げるカティスの緑の目が、泣きだしそうなほど暗く濡れていることに気づく。
 彼の言うとおりだった。王城の入口を守る衛兵は職務に忠実に、そして残酷に自分を閉めだした。口汚く罵られ、果てには殴られ、自分はここにただ立ち尽くすのみだ。
 無力だった。この奥にアイラシェールがいるのが――この先彼女が巻き込まれていく悲劇が判っているのに、何もできない。近づくことさえ、叶わない。
 運命を知りながら、それを、何一つ変えられない。
 目の前に選択肢はなく、運命は手を伸ばしても掴めず、ただ目の前を通りすぎていくだけで。
「運命が、決して変えられないものならば」
 頬を伝う涙が、震える唇が紡ぐ言葉が、彼の絶望を映して雨の中を落ちる。
「運命が全て決まっているというのなら、僕たちの一生は一体何なんだ」
 自分はアイラシェールに出会った。彼女に出会って救われて、彼女を愛した。
 だがそれさえも、賢者として歴史を遂行するための布石だというのならば。
 自分のこれまでの人生が――その選択が、努力が、苦痛が、苦悩が、全て歴史の遂行のために定められていたのだとしたら。
「僕たちは一体何のために、生まれてきたんだ」
 歴史を定め通り遂行するためか。歴史の歯車になるためか。
 この苦しみも、哀しみも、痛みも、全て歴史のためだというのか。
「僕は賢者なんかじゃない。僕じゃない! 僕を賢者なんて呼ぶなっ!」
「カイル!」
 狂い出しそうに叫ぶカイルワーンに、カティスはたまらず叫びかえした。その顔を、カイルワーンは見た。
 自分の姿が映る緑の目。そこに浮かぶ悲痛な色を見て取って、胸がつかえる。
 英雄王――定められた未来。変えられぬ運命。
 彼とて同じだ。彼とて何も変わらない。それが判っているのに、堪えきれない。
 告げれば同じ絶望に巻き込むことになる。それが判っていても、何も判らぬカティスに、それでもカイルワーンは助けを求めて悲鳴を上げた。
 それすらも、運命の歯車の一つなのかもしれないと気づきながらも。
「僕は、繰り人形じゃ、ない……」
 涙と悲痛な叫びが、カティスの腕の中に落ちる。

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