それでも朝日は昇る 5章9節

 アイラシェールの侍女となったベリンダが、その激しい物音を聞いたのは、アイラシェールが侯妃として宮廷に迎えられたその日のことだった。
 入城式と祝賀の晩餐会が終わり、アイラシェールが部屋に戻ってきたのは夜半過ぎ。夜会用の豪華なドレスを脱がせ、部屋着に着替えさせながらベリンダは、硬い表情の彼女にそっと問いかけた。
「……恐い?」
「……多分」
 無理もないことだと、ベリンダは思う。
 アイラシェールが王のことを愛していないことは、ベリンダにはすぐ判った。けれども今さら、彼女は逃げることも王の求めを拒むこともできない。
 これから王がこの部屋に渡ってくるだろう。そして彼女はこれから全てを彼に捧げなければならない。
 アイラシェールにとって幸せとは何なのか――ベリンダは思う。
 もし自分たちが彼女を拾わなければ、こんな日は来なかったのだろうか。バルカロール侯爵の目に留まることも、王城に上がることも、王の目に留まり妃の列に加えられることも、なかったのだろうか。
 そしてアイラシェールの心の中にいる、ただ一人の人のことも、彼女は思う。
 一体自分に何ができるのだろう、そう思い――やがて、その物音を聞いた。
 王が来て、アイラシェールと二人で寝室に入ってから、少し後のことだった。
 やがて扉をけたたましく閉める音と、ばたばたと遠ざかっていく荒い足音が寝室から聞こえ、ベリンダはさらに面食らう。
 何が起こったというのだろう?
 寝室に入っていいものか、扉の前で彼女が迷っていると、中から声が聞こえた。
「ベリンダ……入ってくれる?」
 おずおずとしたアイラシェールの声にベリンダが寝室に足を踏み入れると、ベッドの上にはリネンをかぶったアイラシェールがぽつねんと座っていた。
 恐らくその下は、全裸だ。
 床には花を活けられていた花瓶が転がり、無残に割れていた。
 最初の物音がこれをひっくり返した音だったことを、ベリンダは知る。
 そして予想通り、もう王はそこにはいなかった。
「これは……一体どういうこと?」
 聞かずにはいられないベリンダに、アイラシェールはほっとしたような、苦々しいような複雑な表情をして、言った。
「あのね、ベリンダ。私、王城に女官として上がってから、城の誰もが何かを隠しているような気がしてたの」
「……アイラシェール?」
「それが何だったのか、やっと判った。判ってしまうと、皆の不審な行動も言動も、みんな納得がいくわ」
 それは公然の秘密だったのだろう。その自分の知らなかった『真実のかけら』を目の前にかざして、先輩の女官たちやバルカロール侯爵の言動を透かしてみると、あまりにも簡単にその心理が理解できる。
「ベリンダ、陛下は、実は――」


 こんこん、と扉を叩く音を聞いて、カイルワーンは書き物机から顔を上げた。
「カイル、開けて」
 呼びかけに応じて扉を開くと、そこにはアンナ・リヴィアが立っていた。
 夕暮れ時。カティスはいない。『粉粧楼』に飲みにいったか、娼館に遊びにいったかどちらかであろう。
 二人がレーゲンスベルグに戻ってきた、二日後のことである。
「御飯食べにいかないのなら、何か食べさせてくれる?」
 体調が優れないカイルワーンは、しばらく自宅で静養に努めている。それを見越してのアンナ・リヴィアの言葉に、カイルワーンは快く頷いた。
 やはり独りで食事をするよりは、誰かと一緒の方がいい。「たかるな」と口では言うものの、それがカイルワーンの正直な本音だった。
「ジャガイモでいいのなら」
「おいしいものなら、何でもいい」
 にっこり笑って食卓の椅子に座り、答えるアンナ・リヴィアに、カイルワーンは腕まくりをして料理を始める。
 やがてリンゴのジャムと共に供されたのは、どこからどう見てもパンケーキだった。
「これもジャガイモ?」
「ジャガイモをすりおろして焼いたパンケーキです。小麦のものとは風味は違いますけど、これもなかなかですよ」
 小麦の値段は不作により高騰している。夏に作付けしたジャガイモはなかなかの収量が上がっており、カイルワーンは率先して主食を小麦からジャガイモに変えていた。
 リンゴのジャムをのせた一切れを口に運んで、アンナ・リヴィアはにっこり笑った。
「おいしい」
「それはよかった」
 パンケーキの他に、潰したトウモロコシと牛乳で作ったスープを出すと、カイルワーンも自分の分に取りかかる。向かい合わせの夕食は淡々と進んでいき、皿が全て空くと、アンナ・リヴィアは満足したように言った。
「おいしい御飯を御馳走になったお礼に、いいことを教えて上げる」
 その言葉にカイルワーンは、アンナ・リヴィアの真意を知った。
 彼女は夕食を口実に、自分に話をしに来たのだ。
「あなたの愛しいお嬢さんは王の妃になったわけだけれども、でもそれは彼女が『王の妻』となったとは、完全には言いがたいの」
「は……?」
 要領を得ないカイルワーンに、アンナ・リヴィアは少しばかり苦々しく言った。
「ウェンロック陛下はね、不能なの」
「…………え?」
 思わず聞き返したカイルワーンに、はっきりとアンナ・リヴィアは言った。
「立たないのよ」
 言葉の意味を理解した瞬間、驚愕がきた。思わず声を上げて立ち上がり、まじまじとアンナ・リヴィアを見る。
「そんな馬鹿な!」
「宮廷内では有名な事実よ。そしてそれは懸命に隠されていたけれども、私が宮廷にいた二十五年前から、誰もが知っていたことだったの」
 出された茶をすすりながら――息子とは違い、彼女は紅茶を好んで飲んだ――アンナ・リヴィアは平然と言い、カイルワーンはへたり込むように椅子に座り込む。
「ウェンロック陛下は小さい頃に熱病にかかられてね、すんでのところで命は取り留められたんだけれども、その時の後遺症で性的に全く不能になってしまわれたの。レオニダス陛下もアナベル王妃も様々な治療を試みられたんだけど、結局駄目だった」
 唖然として自分を見つめるカイルワーンに、小さなため息をもらしてアンナ・リヴィアは言った。
「だから、あなたの愛しいお嬢さんはお妃になってしまったけれども、でも王との間に肉体関係を持つことはないのよ。その点についてだけは、安心していいわ。……まあ確かに、王宮に上がる以前のことは判らないし、陛下以外にも王宮には男性が沢山いるわけだから、安心していいことじゃないけどね」
「……それじゃあ、ウェンロック王の好色ぶりは――今までの二十人を越す寵妃は、一体何だったんだ」
「それこそ王の虚栄、と見るのが一般的でしょうね」
 アンナ・リヴィアは、人ごとではないように自嘲的に笑い、呟いた。
「ウェンロック陛下はことのほか自尊心の強い方よ。自身に欠陥があることを、決してお認めにならない。そして宮廷では公然の秘密として知られても、民には決してこのことを知られたくない。だからことさらに好色家を装い、後宮に女性を囲っている――これが恐らく宮廷内でまかり通っている認識だと思うのだけれども……真実は、どうなのかしらね。私には判らないわ――二十五年もたったのだし」
 二十五年前、二十歳だったアンナ・リヴィア。主人である王妃を介し、レオニダス王の側近くに仕えていた彼女は、そこで何を見たのだろう。
 歴史の闇の中に葬られたこと――明かされなかった真実。そのかけらの一つを掴み、カイルワーンは呆然と佇む。
ウェンロック王に子供ができなかった理由に関しては、歴史家の間で様々な意見が交わされていた。それがブロードランズ朝滅亡の遠因の一つであるからだ。男色説や、少年趣味説など、下世話であるものも含めて様々な仮説が立てられたが、一般的な認識は『彼に子種がなかった』というものである。二十人も関係を持った女性がいて、誰一人子を産めないとしたら、問題が彼にあるのは明白なのだから。
 だが『結果的に子供ができなかった』のではなく、はなから『子供ができない』ことを誰もが知っていたとしたら、人々の反応は当然違ってくるだろう。
 例えば王位継承最有力といわれるラディアンス伯とフレンシャム侯。彼らは王に子ができれば王位継承の機を失う。彼らが王位をうかがうのは、本来は賭だ。
 だが、王に子ができないと判っていれば、大手を振って王位継承者として振る舞うことができよう。貴族たちとて、安心して彼らに追従することができよう。
 ここまで考えて、カイルワーンはあっと声を上げた。歴史の真相が一つ、判った気がしたのだ。
 なぜ王が政治――王の責務を投げ出し、後宮の奥に引きこもるようになったのか。
「ウェンロック王は……軽んじられた王だったんだ」
 ウェンロック王は今年で五十。長命であれば、もう二十年くらい在位が続けられるかもしれないが、そろそろ何があってもおかしくない年齢に差しかかってきた。
 そんな彼を前に、貴族たちは何を考えるだろう?
 彼に忠誠を尽くしても、それは次代の王には何の影響も与えない。王に気に入られ、忠誠に報いてもらったとして、それは彼が生きている間だけのことだ。彼にもしものことがあれば、その時点で全てが消えてなくなる、儚い運命だ。
 それよりだったら、次代の王と目される人物に忠義に励んでいた方が、ずっと実りがあると考えるだろう。
 それが一人や二人であったのならば、王は対抗しえよう。だが全ての廷臣に背かれたら。
「ウェンロック陛下は、お可哀想な方よ」
 カイルワーンの呟きを聞いて、アンナ・リヴィアはぽつりと言った。その口調は、本当に寂しそうに感じられた。
「子供ができない――ただそれだけのことで、ウェンロック陛下は全ての人に見捨てられてしまったの。そうなってしまったのは、ご自身のせいじゃないのに」
「でも」
「そうよ。世継ぎを残すことは、国王の最大の務めだわ。それは判っている。だけどね、カイル。その務めを果たせないのに――果たせないことで苦しむことになり、果てにそのことで誰にも省みられなくなることが判っていてなお、国王にならなければならなかったあの方を可哀想と言わずに誰を可哀想というの?」
「アンナ・リヴィア」
 語調を強めて、カイルワーンはその名を呼んだ。続くのは、長年感じていた疑問。
 この時代の歴史を学んだ者なら、誰もが感じたある大きな疑問。
「どうして、レオニダス王にはウェンロック王しか、子供がいなかったんだ」
 確かにレオニダス王も十五代王の一粒種だった。ブロードランズ王家は多産の家系ではないのだろう。ウェンロック王がレオニダス王のただ一人の子ならば、納得もした。
 ただ問題となるのは。
 カティスなのだ。
 カティスが真実、レオニダス王の子であるのならば、なぜ彼は生まれてこれたのだ。
 カティスはレオニダス王四十五歳の時の子供だ。もしカティスが真実レオニダス王の子であるのならば――その年になってもレオニダス王が子供が作れたというのなら、ウェンロック王が生まれてから二十五年の間、どうして彼は王妃や寵妃との間に、ただの一人の子供も作れなかったのだ。
 カティスが王の子だという説に否定的な学者が、常に口にするのがこのことだ。
 彼の存在は――彼が王の子であるということは、不自然なのだ。
 だから、カティスが先王の子であるというのは、騙りだと彼らは主張するのだが――。
 だが、カイルワーンはアンナ・リヴィアの話を聞いて、あることが閃いたのだ。
「カイルワーン、あなたは何が言いたいの?」
「ウェンロック王は、もし兄弟がいれば、王位から遠ざけられたんじゃないか? 不能という事実は、廃太子には十分な理由だ。王統を混乱させないためには、世継ぎが残せる人物を王にした方がいい。だが、そうなると、困る人物が一人いる」
 アンナ・リヴィアは厳しい表情で、カイルワーンの顔を見据えている。そして問うた。
「それは、誰?」
「……アナベル王妃だ」
 二十二年前に死んだ、ウェンロック王の生母。
「ウェンロック王即位までの間に、レオニダス王の何人かの寵妃が不慮の事故に遇った後、宮廷を辞している。彼女たちはもしかしたら……王の子を」
「それ以上は言っては駄目。カイルワーン」
 びしり、と強い言葉が響いた。いつも穏やかな口調で話す彼女とは思えない、激しい声音だった。
「私は確かに、王の側近くに仕え、他の誰も知らない幾つかの事実を知っている。でも、それは私が墓の中まで持っていくことよ。なぜならそれは、表沙汰にしたところで誰一人幸せにすることではないのだから」
「でも」
「仮にあなたが考えていることが真実だったとしましょう。でもそれを表沙汰にして、今さら何になるの? 何が変わるというの?」
 寂しげな表情で、アンナ・リヴィアは言った。
「確かに王妃は、ウェンロック陛下が即位なされることを心から望んでいた。王になれなければ、子も残せぬ王子がどんな不遇を味わうことになるのかと、心を痛めておられた。それもまた杞憂ではないわね。もしウェンロック陛下に庶出でも弟君が生まれたら、そうなっていたことでしょう。そしてそのことを、陛下自身も恐れておられた」
 心臓に、掴みかかられるような錯覚を覚えて、カイルワーンはよろめいた。
 どんどん自分が、核心に近づいていくのを感じる。
 どうしてアンナ・リヴィアが宮廷を去ったのか。
 どうして実家とも関わりを絶って、こんな貧民街で隠れるように暮らしているのか。
 そして、どうしてカティスが仕官しようとしないのか。
 彼の存在は、表沙汰になってはいけないからなのか。
 そうなれば、殺されるからなのか――。
「アンナ・リヴィア――」
 問いかけて、やめた。口元まで問いは出かかったが、それでもカイルワーンはその言葉を飲んだ。
 カティスは本当に、レオニダス王の子供なのか――問えば、この半年余で築き上げたものを壊すのが判っていたから。
 自分が目の前のこの女性に、好意を抱いていることをカイルワーンは自覚している。それがどうしてなのかも。
 これ以上、この話を続けては駄目だ。
 だから代わりの問いを発した。それはとても、個人的な質問だったけれども。
「カティスを産んだことを、後悔してはいないのか?」
 ウェンロック王、レオニダス王、アナベル王妃。そしてアンナ・リヴィア。おそらくカティスは、彼女たちの様々な思惑が絡み合う中で生まれてきたのだ。
 それは何のためだったのか。
 その選択は、彼女を不幸にはしなかったのか。
「……どうして、そんなことを聞くの?」
 当然のアンナ・リヴィアの反応に、カイルワーンは表情を沈ませた。
 嘘偽りのない本音を、カイルワーンは取り出す。
「あなたは――あなたの境遇は、僕を育ててくれた人によく似ているんだ」
 薄い色の髪の、優しい面影の女性。
 感謝してもしたりない、遥か遠いコーネリア。
「僕とアイラシェールを育ててくれた人も、宮廷女官だった。素晴らしい楽才と教養の持ち主だったから、宮廷内でも相当の地位を得ていたに違いないのに、僕たちを育てるためにその地位も華やかな生活も、みんななくした」
 塔での生活は、本当に穏やかで楽しかったとカイルワーンは思っている。だがその生活がコーネリアの犠牲に支えられていたことを、彼は考えずにはおれない。
「彼女は本当に優しかった。僕は確かに高度な学問は父に教わったが、それ以前の本当に基本的なことは――いや、生きるための大事なことは全て、彼女に教わった。字も書けない、ろくに他人と話をすることもできない、のろまで役立たずな僕に、言葉を教え、字を教え、こうして一人の人間としてやっていけるようにしてくれたのは、彼女だった」
 優しく自分の頭を撫でてくれた手を、その温かさを、今でもはっきりと思い出せる。苦しい時に抱き上げてくれた腕も、その胸の柔らかさも、広さも。
「本当に僕は、素晴らしい女性に育ててもらった。彼女に出会わなかったら、僕は今頃ろくなものになってなかっただろう。彼女に育ててもらったことを、心から誇りに思っているけれども……でも、当の彼女は、幸せだったんだろうか」
 王命とはいえ他人の命令で、今までの自分の生活を全て捨てさせられて。
 そして何より気にかかるのは。
「気になっているのは、彼女がアイラの乳母だったってことだ。ということは彼女は母乳が出たわけで、それは彼女にアイラと変わらぬ年の子供がいたということだ」
「カイル」
「僕たちは、彼女から子供と夫を取り上げたんだろうか? 彼女は王命のために、自分の子供を捨てさせられたんだろうか? それを僕は考えずにはいられない」
 コーネリアは一度だって、己の境遇の話をしなかった。何も教えてくれなかった。だからこそ、不安は澱のように胸の深いところに降り積もっていく。
「彼女は幸せだったんだろうか? 地位も名誉も華やかな生活もなくして、他人の子を育てることは、彼女にとって苦痛じゃなかったんだろうか? そのことを、僕はよく考える」
 アンナ・リヴィアはカイルワーンを見た。その顔に浮かんでいる苦しげな色を見て取って、少し考えると告げた。
「本当にあなたは、地位や名誉や宮廷での生活だけが、幸せだと思っているの?」
「……それは」
「私もあそこに何年かいたけれどもね、決してあそこにいることだけが幸せだとは思わないわよ。身分、上下関係、立場、人間関係、嫉妬、憎悪……まあ一口では言えないくらい、色々なことがある場所よ。それに応じた見返りはあるのだろうけど、そんなものより価値のあるものが、宮廷の外にはあるのではなくて?」
 何も言い返せず、ただ黙って自分の顔を見つめているカイルワーンに、アンナ・リヴィアは微笑んだ。
「確かに今の暮らしは貧しいわよ。父親のいない子供を産んだことに対する偏見もあるし、風当たりが弱いなんて言ったら、嘘になるわね。でも、カティスを産んだことに対しては――そのために女官の地位を失ったことに対しては、何ら悔やむところはないわよ。カティスがいなければ味わうことのできなかった幸せが、確かに存在しているんだから。だからね、カイルワーン」
 はっきりと、アンナ・リヴィアは言う。
「あなたは、あなたのお母さんを信じなさい。あなたがそれほどまでに慕った人は――あなたが感謝している優しさは、仕事で演じられような安っぽいものだったの? 裏に悔恨を隠しているような人間が見せられるような、そんなちゃちなものだったの? 違うでしょう。あなたを見れば判るわ」
「アンナ……リヴィア」
「あなたはもっと、自分の価値を信じなさい。あなたがいたことで、あなたのお母さんがどれほど楽しかったか、どれほど幸せだったか、私には判るわ。だってあなたは」
 穏やかな微笑みが、アンナ・リヴィアの顔いっぱいに広がる。
「本当に、いい子だもの。私が保証してあげる」
 伸ばされた手が頭に触れる。優しく自分の頭を撫ぜられた時、カイルワーンは自分の中で何かが切れたのを感じた。
 涙が、こぼれ落ちた。呆然としたような、漂白された表情のカイルワーンの顔を、ぽろぽろと音をたてて涙が伝っていく。
 カイルワーンには、自分が何が起こっているのか判らなかった。泣きたいなんて、これっぽっちも思わない。悲しいとも、辛いとも思わない。
 それなのに、涙があふれてきて、止まらない。
「どうして……僕は、泣いてるんだ……」
 少しだけ震える声が出た。嗚咽にはならない。苦しくもない。
 ただ胸が詰まった。胸の中で何かがあふれかえるようで――でもそれが何なのか、判らなかった。
 自分が嬉しいのかも、悲しいのかも判らず、ただカイルワーンは惑いながらも涙をこぼし続け、アンナ・リヴィアはそんな彼の頭を撫で続けた。
 この一瞬、アンナ・リヴィアはカイルワーン自身よりも遥かに彼のことが判っていた。
 彼の心の欠損――それがもたらす痛み。
 当たり前のことが当たり前でなかった、それがもたらした心の傷。
 カティスはなんて猫みたいに勘のいい子なの――内心でアンナ・リヴィアは呟いた。
 彼女には、息子がどうしてこの目の前の少年に入れ込むのか――押し隠した心をかいま見せるのか、はっきりと判ってしまった。
 カティスは理解者がほしかったのだろう。そしてそうなれる人間を、無意識に探していたに違いない。
 そして彼は出会ってしまったのだ。
 その痛みは、同じ傷を負った者にしか判らない。

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