それでも朝日は昇る 5章10節

「面を上げなさい」
 そう高みから告げられて、アイラシェールは顔を上げた。そこに座る女性は彼女を、静かな表情で見下ろしていた。
 そこには嫉妬も蔑みも憎しみもなく、そのことがアイラシェールにはとても意外だった。
「あなたがアレックスですね」
 入城式の翌日、早々にアイラシェールはある人物に呼び出されていた。
「ご機嫌麗しゅうございます。本日のお招き、誠に光栄に存じます――王妃殿下」
 ウェンロック王の王妃、サフラノ王女ルナ・シェーナは夫の新しい愛人を電光石火の早さで呼びつけたのだった。
「外しなさい。二人だけで話がしたい」
 ルナ・シェーナは控えていた侍女たちにそう告げ、広い部屋には二人だけが残された。彼女は椅子から立ち上がると、アイラシェールに歩み寄り、傍らのソファへと促した。
「こちらにおいでなさい。これからの話は、かしこまったままでできるほど短いものではないの」
「恐縮です」
 上等のソファに腰かけて、ウェンロック王の二人の妃は向かい合う。
 ルナ・シェーナはウェンロック王の二歳年上であるから、今年で五十二歳。老境に差しかかった彼女の容色は衰えつつあるが、それを補って余りある気品と風格を持っていた。
 一国の王女であり、王妃であることを、掛け値なしに納得させられるほどの。
「言葉を飾っても仕方がないでしょうから、単刀直入にお話ししますわ。あなたは昨日、陛下と床を共にされたわね」
「はい……でも、あの」
「判っているわ。陛下は何もできずに、出ていかれたのでしょう?」
 返答に困るアイラシェールに、きっぱりとルナ・シェーナは言ってのける。あまりにもその口調がさばさばしていたので、かえってアイラシェールは戸惑った。
「……はい」
「これでお判りになられたわね? 陛下のお体のこと」
「恐れながら王妃様、それでは陛下はお体に問題があって――」
「そう。自らの意思でなさらないのではなく、おできにならないお体なの」
 ルナ・シェーナはため息をついて、王の新しい、形ばかりの愛人を見やる。
 この後宮は、極めていびつだ。そこに何も判らないまま放り込まれた若い女性に対し、長年王と連れ添ってきた王妃は、憐れみを感じずにはおれない。
 ここで今までこうして、何人の女性とこの話をしてきたことだろう。
「ならばどうして陛下は、私をお迎えになられたのでしょう……」
「当然の疑問ですわ。性生活を営めない陛下が、なぜ次から次へと新しい女性を欲しがるのか、宮廷の中でも色々とささやかれていることでしょう。ご自身が不能であることを対外的に隠すためだと――虚栄だと、廷臣たちはささやいているようですが、私はそうは思いません」
微かに目を伏せて、ルナ・シェーナは言った。
「陛下は、どこかで信じたがっているのかも知れません。美しく優しく心踊る女性に出会えたのなら――そんな相手となら、不可能も乗り越えられるのかもしれないと。そんな相手とならば、その情欲をもって、行為に及ぶことが叶うのかもしれないと」
 ルナ・シェーナの考えは、ある意味滑稽だ。だがアイラシェールには、すとんと納得がいくものであった。
 追いつめられた人間がすがりたくなる、淡く儚い夢想。その心理を、誰が笑えよう?
「でもそれは所詮、夢想です。陛下の障害は、心で乗り越えられる類のものではないのです。それでも陛下はなお、諦めることができないのでしょう。そのために今までに何人もの女性をここに迎え、そして今またあなたに望みを賭け……そして、破れたのです」
 アイラシェールは、昨晩のことを思い出していた。
 ウェンロック王は自分に執拗とも思えるほど、熱心な愛撫を施した。指と唇は巧みに自分の体をなぞり、声を上げる自分に満足そうに笑い――。
 だがその顔が、苦痛と絶望に満ちあふれるのを、アイラシェールははっきりと見た。荒れ狂い、物に当たり、そして自分の寝室を出ていくのを、黙って見送るしかなかった。
 ルナ・シェーナの言葉は、そんなウェンロック王を見た後では、納得がいくのだ。
「さて、ここであなたは、自分のこれからを選択しなければなりません。このことを告げるために、私はあなたは今日ここに呼んだのです。そしてこれは、王の寵妃になった全ての女性たちに、私から話してきたことです」
「王妃様……?」
「あなたは陛下の妻となりました。このことを、もはやなかったことにはできないのです。あなたが里に下がりたい、誰かと再婚したいと望んだとしても、陛下はそれを許してくださる方ではないのです。それができていたら、陛下ご自身、もっと楽であったでしょうに」
 憐れみを込めて、ルナ・シェーナはアイラシェールに言った。
「これからあなたの周囲には、多くの人が集まってくることでしょう。そしてその中には、あなたに好意を寄せる男性もいるでしょう。身分の高い既婚の婦人に、情愛と忠誠を捧げるのは騎士の習いですし、それが恋愛遊戯に発展するのは宮廷の常識です。それに目くじらを立てることは陛下でもなさいませんし、どの寵妃たちも多かれ少なかれ、自分の騎士を持っています」
 アイラシェールの脳裏をよぎったのは、一人の男性の姿。
 緋色の髪と銀の目を持った、当代随一の呼び声高い騎士。
 彼はいまだにどんな女性にも、忠誠を誓っていないのだろうか。
 彼はその剣と愛を、自分に捧げるのだろうか。
 背筋に、冷たいものが走る。
「陛下とは床を共にすることができず、魅力あふれる男性たちが愛を捧げてくれる。この状況で、流されるなというのは酷なことです。ただ一人の人間である以上、愛の営みを誰とも持たずに一生を終えろというのは無茶です。ですから恋愛遊戯が度を越して、情事密通に発展するのも詮のないことです。それに対しても陛下は、内心どう思われているかはともかく、罰したり何かを仰られたりすることはありません。ですから、あなたはこの先、うまく立ち回りさえすれば、宮廷内のどんな男性と恋愛を楽しむこともできるでしょう。ですが、アレックス。これだけは肝に銘じておきなさい。それも皆、子を身籠もったら終わりです」
 ここに至ってアイラシェールにも、歴史の闇に隠されていた事実の一つがはっきりと判った。
 ウェンロック王が激情家と言われる所以。
 王の不興をかった、反抗したとして、処刑された幾人もの寵妃。
「これまで何人もの寵妃が王により死を賜ったのは……不義の子を身籠もったからなのですか」
「寵妃のお腹に宿るのは、必ず不義の子です。そのことが宮廷内に知れ渡っている以上、陛下は寵妃を処分するよりないのです。……でも、その子をそしらぬ顔で自分の子として認知し、王位を継がせることができたのなら、たとえ後宮と宮廷が混乱しようとも、ご自身が愚か者とそしられようとも、陛下はもっと肩の荷を下ろすことができたのでしょうが」
 ルナ・シェーナの意見は突飛であるが、的を射ているとも言えた。
 ウェンロック王が自分が不能であることを徹底的に隠そうとするのならば、寵妃が身籠もった不義の子を自分の子供ということにしてしまえばいいのだ。寵妃に子を産ませ、その中から自分の気に入った子供を選んで後を継がせてしまえば、少なくとも王家は安泰だ。
 たとえその子に、王家の血が流れていないのだとしても。
 だがそれをすれば、後宮と宮廷は果てしなく混乱するだろう。貴族たちは己の子を寵妃に産ませるために奔走し、宮廷の倫理はさらに地に落ち、それに成功した者は己の子を王にするために狂奔する。
 貴族たちの行動は、争乱は、醜悪を極めるだろう。
「陛下はこれまで、幾人もの寵妃を自分の手で斬ってきました。それは政治的なもの、体面的なもの、様々な理由がおありでしょうが、きっとそれだけではないのです。寵妃に妊娠という目に見える形で裏切りを突きつけられる王の気持ちは、きっと私どもでは量ることなどできないのでしょう」
 ルナ・シェーナは悲しそうに目を伏せる。その風情に、言葉に表れるものに、アイラシェールは内心の感心と驚きを隠せない。
 政略結婚によって嫁いできたこの王妃は、それでも彼のことを愛しているのだ。
 深く、こんなにも細やかに。
「子を残すことは――王統を繋げることは、確かに王の大事な役目です。けれども、だからといって、ここまで陛下が一人の人間として蔑ろにされていいものではありますまい。陛下は確かに、女性を性的に満足させることはできません。でも男と女の関係というものはそれだけではないでしょう。夜を共に過ごせなくても、分かり合えるものも分かち合うものもあるのではないですか」
「はい」
「けれども陛下は、ついぞそういう女性に巡り合えませんでした。そして待っているのは、手ひどい裏切りです。王でさえなければここまで陛下は追いつめられることはなかったのに、陛下には他に選ぶ道はなかったのです。王になるより、他の道は。王でない自分が、誰にも必要ではないことを、陛下ご自身が誰よりもよく判っておいででしたから」
「王妃様は、違いますでしょう?」
 ためらいがちに、でも優しく、アイラシェールは問いかけた。その言葉に、ルナ・シェーナは驚いたような表情を見せた。
「あなた……」
「見ているだけで判ります。王妃様がどれほど陛下を愛していらっしゃるのか。陛下のことを気づかっていらっしゃるのか。それは陛下が、王だからだけではありますまい」
 違いますか? そう問いかけたアイラシェールに、ルナ・シェーナは泣き笑いの表情を作った。
「陛下は、ご自身にかけらも自信がおありでない。不能であるという劣等感が、それに対する周囲の容赦ない仕打ちが、陛下から自分の価値を信じる根拠をはぎ取ってしまわれたのです」
 自分の価値が、自分が王であること、ただそれだけであると思い込んでいる。
 実際それは偽りではない。大半の人間は、そうなのだろう。けれども、この王妃だけは違ったのだろう。
 けれども。
「陛下は誰も信じてはくださいません」
 ルナ・シェーナの言葉が、二人の関係を端的に表している。
「だからアレックス、私は今まで何人もの寵妃にこう言い続けてきました。あなたが性生活を営めぬ王を見捨てて、他の男に走るのならばそれも結構です。ですが、度を越してはなりません。身籠もれば、それはあなたと相手の男を破滅させるでしょう。王は、体面を傷つける者、自らを裏切る者に対して、決して容赦はしません」
「はい」
「ですがもし、陛下を哀れと思うのならば……陛下に何らかの思いを抱き、もしそのお心を慰めようと思うのであれば……」
 言葉を詰まらせたルナ・シェーナに、アイラシェールは小さく首を振った。
 これ以上は、何を聞かなくても判っていた。
 ただそれに、自分が応えられるのか――それを自分が望んでいるのかは、アイラシェール自身、よく判ってはいないことだった。

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