それでも朝日は昇る 5章11節

「そんなこと、納得できません!」
 けたたましい声が執務室の中から聞こえ、アイラシェールとベリンダは顔を見合わせた。
「何だろう?」
 アイラシェールはベリンダを伴って、女官長シャノンを訪れていた。
 ベリンダはアイラシェールの私的な侍女であるが、だからといって女官寮に登録せずにはすまない。たとえ名目でも、まったく地位や役職がない人間が侯妃の側に仕えることは許されないのだ。
 その手続きのために彼女たちはやってきたのだが、女官長の下にはどうやら先客があったらしい。
「女官長には先客がいらっしゃるようですね。長くかかるようでしたら、一度戻ります。それともここで待った方がよろしい?」
 かつての先輩であった女官に尋ねると、彼女は恐縮したように答えた。
「まさか、侯妃をお待たせすることなどできません! 今すぐ女官長にお取り次ぎしますので、どうか今しばらく」
 間もなく通された執務室には、女官長シャノンと一人の少女がいた。
 くせのない細い銀の髪を伸ばし、深い紫の目をした十六、七歳ほどの少女は、入ってきたアイラシェールに目を輝かせた。
「アレックス侯妃殿下ですね! こんなところでお目にかかれるなんて光栄です」
「何とはしたない。目上の方に、こちらから声をかけるなんて」
 シャノンは少女の反応に、仰天して目をつり上げた。
「女官長、私はこちらの方の用がすんでからで構わないのですが。話が込み入っているのではないですか?」
 どうやら先程の叫びは、この少女のものらしい。それを悟って申し出るアイラシェールに、とんでもないとばかりにシャノンは首を振る。
「侯妃をお待たせするなど、とんでもないことです。お下がりなさい、マドレーヌ」
「私はそのような名ではないと、先程申し上げたはずです」
 きっぱりと、強い口調で少女は女官長に反論した。
「私は自分の生まれ、自分を生み育ててくれた両親、女官として王宮に仕えること、その全てに恥じるところはありません。己の家を何ら恥じるところもないのに、己の名を偽ることは信義にもとります!」
 少女の物言いに、女官長は頭痛がするのか額を押さえた。その様子と少女の物言いに、二人が何を言い争っていたのか、おおよそ見当がつく。
「あなたは仮名が嫌なのですね」
「理不尽なことと、侯妃様はお思いになりませんか?」
 少女は毅然として、アイラシェールに言い募る。
「私は私であることに、自らに、胸を張っていたいと思います。私はフランチェスカの家に生まれついたこと、その名に恥じるようなことをしたくありません。女であるというだけで、これまでの己を隠し、否定するような振る舞いをすることは、我慢なりません」
「……この通り、強情で言うことを聞きやしないのですよ」
 額を押さえて困り果て、シャノンはアイラシェールにこぼした。
「私は、何から何まで反抗しようとしているのではありません」
 少女は語調を弱めて、シャノンとアイラシェールに言う。
「私は従うべきもの、納得がゆくものには勿論喜んで従います。私はただ、伝統だから、習いだからという理由だけで、理不尽がまかり通ること、その理不尽に従うことが許せないのです。時が過ぎれば、制度や決まり事は、必ずその時代と合わなくなってくるものではないのですか? それを改めずにいることは、ただの怠慢としか思えないのです――たとえその窮屈に耐える方が、どれほど楽であったのだとしても」
 議論は完全に平行線を辿っている。我慢比べ以外の何物でもない状況に、先に折れたのはシャノンの方だった。
「侯妃殿下、大変なお願いを申し上げることになりますが」
「はい?」
「この子を、あなたのところで預かってくださらないでしょうか?」
 かつての部下の気楽さで、シャノンはアイラシェールに懇願する。
「今はもう、あなたの慎み深さ、教養の深さが懐かしく思われてなりません。どうかあなたの下で、この子をじっくりと教育して下さらないかしら?」
 これは要するに匙を投げられたのだ。そうアイラシェールは解釈した。うまく問題児を押しつけられた感のあるアイラシェールが少女を見ると、当の本人は嬉々とした眼差しでアイラシェールを見上げている。
「ご聡明で名高いアレックス侯妃にお仕えできるなんて、光栄です! どうぞこれから、よろしくお願いいたします!」
 二人がかりでどこかうまく丸め込まれた気がしてならないアイラシェールに、少女はにっこり笑って告げた。
「どうぞ私のことは、マリーとお呼びください」
 決まったとばかりににこにこ笑って下がる少女――マリーを、アイラシェールはあっけに取られて見送るより他ない。
「さて、大変お騒がせいたしましたが……今日の用件は、そちらの方の女官登録でしたね」
 気を取り直し、控えていたベリンダを見て、シャノンは問いかけた。
「身分照会の方は、バルカロール侯爵より届いているはずです」
「手続きは問題ないでしょう。登録を済ませなければならないのは、現実には形式の問題ですからね」
 女官長は先刻のマリーとのやりとりを思いだしたのか、苦笑をして言った。確かにマリーならば、また目をつり上げそうな物言いだろう。
 そんなシャノンに、不意にベリンダが申し出る。
「先程も騒ぎになった仮名ですけれども……私も結構です」
「ベリンダ?」
 その意図が判らずに問いかけるアイラシェールに答えず、ベリンダはシャノンを真っ直ぐに見つめて、言った。
「先程の子のように、我が儘を申しているのではありません。女官長様なら、私の言いたいことはお判りになられるかと。私には、今さらこの名にさらに仮の名をかぶせる必要はないのです」
 ベリンダの言葉が、何を示唆しているのかはアイラシェールには判らない。だが、彼女のその物言いで、シャノンには判ったらしい。
 小さく頷いて、書類に何やら書き込みをする。
「判りました。ならばあなたのことは、ベリンダと呼べばそれでいいのですね」
「そのように取り計らってください」
 さっぱり訳の判らないアイラシェールに、ベリンダは曖昧に笑うだけで答えない。
 自分たちの部屋に戻ってきた後、問いかけたアイラシェールに、ただこう言っただけだ。
「それはアイラにはもう関係ない世界の話だからね。知らないのなら、知らなくていいことだよ」
 アイラシェールはこの疑問の答えを、結局得ることはできなかった。
 折しも月日は十二月。新年を間近に、宮廷が最も華やかで慌ただしい時に、そんなささやかな疑問は日常の中に消えていってしまう。
 そしてアイラシェールにはもっと切実で、頭を悩ませる一つの問題が存在していた。
 その問題はまた今日も、彼女の部屋の扉を軽やかにノックする。

Page Top