それでも朝日は昇る 5章12節

「今日もまた、侯妃殿下はお会いしてくださらないと?」
 苛立たしげに問いかけるフィリスに、ベリンダは、いつものように頭を下げる。
 昨日自分の代わりに応対に出たマリーが、見事に彼と喧嘩してしまったので、またこの愉快でない役目が彼女に回ってくることになったのだ。
 フィリスの手には、温室で育てたのであろう、可憐な菫の花束。
「申し訳ございません」
 ただベリンダは、頭を下げるしかない。そんな彼女に、なおもフィリスも言い募る。
「私は侯妃に、何を望んでいるのではない。ただお会いしたい、お会いして気楽な話がしたいと望んでいるだけではないか。私の申し出は、そんなに無理難題か?」
「私も、そう思うのですけれども……」
 困り果ててそう呟くベリンダに、フィリスは不意に姿勢を改めて問いかける。
「なあ、君――」
「ベリンダとお呼びください」
「ベリンダ、私は侯妃に何か失礼にあたるようなことをしたのか?」
 それは実は、ベリンダ自身もアイラシェールに問いたいところだ。だから彼女は、フィリスの問いに答えようがない。
「フィリス卿が、侯妃殿下にどれほど礼を尽くし、誠意を尽くしておられるかは、私も存じあげております。ですが、侯妃様のお心は、私などでは量ることはできません」
 結局贈り物だけ受け取ってフィリスを追い返し、部屋に戻ってきたベリンダは、思わず深々とため息をついてしまう。
「……嫌な役回りさせて、ごめんね」
 奥から出てきて、申し訳なさそうに言うアイラシェールに、ベリンダは首を振った。これもまた、ほぼ毎日の恒例となってしまった。
「気にしなくていいよ。これも仕事の内だからさ……だけど」
「だけど?」
「どうしてあの御仁を、そこまで毛嫌いするのさ?」
 ベリンダの疑問は、当然だろう。だがその問いに、アイラシェールは答えることができない。
 フィリス・バイド――魔女の親衛隊と呼ばれる、緋焔騎士団の団長。
 魔女の側近として記録に残る何人かの中で、最も著名な人物。
 作為的なほどに、出自からその経歴、王宮内での足取りまで抹消されている魔女の記録において、なぜか消されることなく残ったその名。
 それは偶然なのか、それともこの歴史を操った者の作為なのか。アイラシェールには量ることはできないけれども。
 自分が『魔女』だ。そのことはもはや否定することはできない。
 おそらくこの後、別の白子の女性がウェンロック王の前に現れることはあるまい。
 だからといって、この後に待っている無残な結末を、従容と受け入れることなどできるわけがなく――そうすれば、当然考える。
 この無残な運命から逃れるには――歴史を変えるには、どうしたらいい?
「あの人が、悪いわけではないの」
 アイラシェールは、そうベリンダに言った。それは紛れもなく、彼女の本音だ。
 フィリスという人物が、どれほど誠実であるかは判っているのだ。王の騎士として、貴族として、そして一人の宮廷人として。
 手の中の青い花束。この季節に花を手に入れるのは、大変だったろう。それは判るのだ、痛いほどに。
 彼は何も悪くはない。だがこのまま自分と共にいれば、彼は大罪人として、簒奪者として歴史に名を刻むことになるだろう。
 それが判っていて、どうして平気な顔をして会えよう。
 彼をどうして、自分の側に近づけられよう。
「アイラが本心からあの男が嫌いで、顔も見たくないというのなら、それでいいんだ」
 ベリンダの声音は、表情は、言葉の内容のわりにはひどく気づかわしげだ。
「あたしやマリーなんかに、嫌な思いをさせるなんて気にすることはない。だけど、アイラは、どこか辛そうに見えるよ」
 ベリンダの指摘に、アイラシェールは返す言葉がない。
「あたしや誰にも話せないことがあるのは判るよ。だから話してくれとは言わない。だけど、辛いことを辛いままに逃げ続けているだけでは、何にもならないのではないの?」
 ベリンダの言うことは、至極もっともだ。
 けれども今の現状で、何ができるというのだろう?
「アレックス、噂は聞こえてきていますよ。フィリス近衛隊長を、袖にし続けているのですってね?」
 ルナ・シェーナ王妃は、アイラシェールを招いての午後の茶会でそう切り出してきた。王妃はあの一件以来彼女を気に入ったらしく、よく茶会や夜会に招いてくれる。
 それはまだ不安定な立場の彼女にとって、不利なことではなかった。たとえ王妃がすでに、政治の主流からは外れた存在であるとしても。
「私には判りません」
 そうアイラシェールは、素直に本音を述べた。
「フィリス卿は何を思って、そんなにも私の元を訪れてくださるのでしょう」
「素直に好意と受け取ってよろしいのではないの? 前もお話した通り、若い騎士や貴族たちと交流するのは、悪いことではないでしょう。それは陛下に対して、気兼ねを感じたり恥ずかしく思ったりすることではありません」
「そうですが……」
 言葉を濁すアイラシェールに、ルナ・シェーナはやんわりと告げる。
「アレックス。正直に申し上げれば、フィリスをあなたの陣営に取り込むことは、あなたの立場を考えれば悪くない選択肢では? フィリスの下には、近衛騎士団に所属する貴族の子弟たちが何人もいます。彼らの多くは、今まで方向を決めかねていた団長に従い、どの陣営にも属さず静観の立場を取っていましたが、フィリスが方向を決めたとあっては、多くの者が追随し、あなたに従うことでしょう」
 フィリスは、多くの人間に影響を与える立場におり、実際彼自身それだけの魅力も価値もある人間だ。
 だからこそ、自分は疑問を感じずにはおれないのだ。
 なぜ、あまたいる美しい宮廷婦人たちでなく、私なのだと。
「フィリス卿は、どうして今までどなたの騎士にもなろうとはしなかったのでしょう」
「好みじゃなかったんですよ、単純に」
 後ろから苦みが交じったような声が聞こえ、はっとアイラシェールは振り返る。
 そこに立っていたのは、問題の人物で。
 フィリスは王妃と侯妃に膝を折ると、礼を取る。
「気晴らしと思い不意に訪ねてみたのですが、まさかここでアレックス侯妃殿下にお会いできるとは思いませんでした」
 彼の顔に喜色を見て取って、アイラシェールは戸惑ったように問いかける。
「フィリス卿、あなたはよく王妃殿下のところにおいでになるのですか?」
「彼も近衛騎士団の子たちも、よく私のところに遊びにきてくれます。私は今の宮廷勢力からは外れたところにおりますもの。王直属の微妙な立場にある彼らには、エヴァリン公妃やフェリシア公妃に比べれば、まだここは訪れやすいところでしょう。侍女たちも、いつものことでここに通してしまったのね。ごめんなさいね、アレックス」
 申し訳なさそうに――それがどれくらい本心なのかは疑わしいが、ルナ・シェーナはアイラシェールに詫びる。
 アイラシェールは内心で王妃の作為を疑いながらも、ここのところの頭痛の種である権力争いの構図を頭に浮かべた。
 エヴァリン公妃はラディアンス伯の、フェリシア公妃はフレンシャム侯の係累の寵妃である。彼女たち二人が現在後宮で覇と寵を競っており、彼女たちはそれぞれ、華やかなサロンを催しては、貴族たちや著名人、知識人たちを集めている。
 それは一見自由で開放的であるが、実はそのまま宮廷の勢力争いを写し取ったものだ。言わばそれは、別の形をした宮廷そのものだ。
 その争いの真っ只中に、第三勢力のバルカロール侯爵の後押しを受けて乗り込むこととなったアイラシェールの立場は、目下のところ『微妙』の一語に尽きた。
 実を言えば、それは単純な二択なのだ。彼女たちと向こうを張り、中立の立場を取っている者たちを取り込んで、第三勢力の首魁となるか。それとも彼女たちと争わず、ひっそりと後宮の奥で暮らすか。
 後者を選択できれば楽だろう。誰にも構わず、誰とも争わず、何も考えず、日々をただのんびりと――怠惰に送るだけの毎日。それは確かに魅力的だ。
 だが本当に、それでいいのか――アイラシェールは、そう思わずにはいられない。
 その理由は――。
「私をお責めにはなりませんのね」
 いつしか王妃は所用で席を外し――ますますもって謀られた感がぬぐえないが、二人きりになったアイラシェールは、ついにフィリスに切り出す。
 本人を目の前にしては、もはや逃げることはできなかった。
「理由は知りたいと思いますが――ご無礼があったのならば、お詫びしなければならないのですし」
 冬の日はもはや傾き、朱の光をいっぱいに下界に投げかける。アイラシェールは赤に染め上げられる町並みを窓越しに見下ろしながら、フィリスに言った。
「お答えはいたします。ですから、代わりに卿も私の質問にお答えくださいますか?」
「何なりと」
「どうして、ここまで失礼な振る舞いを続ける私の元を訪れてくださいます? 立腹されて、不快に思われるのが当然でしょうに」
 それはフィリスが入ってきた時に、ルナ・シェーナにも問うたことだ。それを聞いて、フィリスはその時と同じように苦笑を浮かべた。
「あの時も言ったように、単純に、エヴァリン公妃もフェリシア公妃も、他の女性たちも好みではなかったんですよ――騎士として、己を捧げるには。一人の女性としてみるだけならどうだったかは知りませんが、私はどうしても、それだけではすまない」
 フィリスは窓枠に身をもたせかけ、遠くの空を眺めながら答えた。
「私は幼い頃から騎士になることを志してきました。そして叙任を受け、恐れ多くも王の側近くに仕えることを許され、とうとう近衛騎士団を任されました。けれどもそうして国政の中心に足を踏み入れ……その時に、考えてしまったのです。本当に私が剣を捧げるべき相手は、誰なのだろうかと」
 暮れなずむ空を眺める横顔に、寂寥の色が浮かぶのをアイラシェールは紛れもなく見た。
 華やかで隠れもないはずのこの騎士の心は、他人が思う以上に飢え、渇いている。
「王家への忠誠心はあります。ウェンロック陛下へのそれも。ですが、現状を――今の宮廷の状況を見るにつけ、考えてしまうのです。果たして、王家とは――王とは、一体何なのだろうと」
「それは……」
「王とはこの国の支配者です。民を束ね、民を率い、民の全ての生命と生活、未来に責任を負う者です。それらを全て背負うからこそ、王にはあれほどの尊崇と敬愛が注がれ、あれほどの威光をまとうことが許されるのだと思います。玉座はただのきらびやかな宝石の椅子ではない。――それを果たして、ラディアンス伯もフレンシャム侯も、判っておられるのだろうかと」
 凌ぎを削る二派のどちらも加わらず、中立の立場を取る親衛隊長は、ため息とともに洩らした。
「ラディアンス伯にしてもフレンシャム侯にしても、ただ『後に王になる』ことだけを拠り所に忠誠を要求します。……勿論、それに従い、膝を折る人たちを非難する気はありません。自分の側につけば即位の暁には重用を約束する――ラディアンス伯もフレンシャム侯も言いますが、それを疑うつもりはないのです。恐らく勝者は約束を違えないでしょう。ですが、剣を捧げるということは――誰かの騎士になるということは、己の利益のために誰かの奴隷になることではありますまい」
 フィリスは腰の剣を帯から外した。優美な金の籠柄のついたそれをアイラシェールに示し、沈んだ口調で告げる。
「私が王に剣を捧げました。この国を守り、導く『王』とそれを生む『王家』に。だが、同時に考えもします。王家の血を引いていれば、それがすなわち王になる資格なのか。王家の血を引くことだけが、私の剣を捧げられる資格なのか。王家の血を引いていることだけが、価値のあることなのか。私は国を守りたいと思う。国と、民を守りたいと願い、そのために剣を握って何者とも戦えると思う。だが王が、己の責務を果たさないことも、道を踏み外し民を虐げることもありえましょう。そんな者が王となった時、それでも私は『王』だからといって従わなければならないのか。それを考えれば、ラディアンス伯にもフレンシャム侯にも、膝は折れなかった。女性の魅力と王位継承者の後ろ楯だけを武器にする浅薄な二人の公妃など、もっての外だ」
 言って、フィリスは苦笑した。それは己を明らかに嘲笑っている。
「己が愚かだということは――頭が固いのだということは、自分でも判っているのです。そして、この争乱が耐えない宮廷を渡っていくには向かないということも。けれども私は、己の信念に――己の信じる正義に、この剣を捧げたかった。」
 騎士が剣を捧げるべきものは、正義と信念。だがその理念は、この宮廷――現実において、あまりにも薄っぺらな絵空事だ。
 フィリスが己を嗤うのは当然のことと言えよう。彼の信念は、己と家を滅ぼしうる危険を秘めている。それは彼自身にも判っていることなのだ。
 それでも彼は己を曲げられず、ここまで来て、そして。
「どうして、私なのですか?」
 話の最初の問いを、アイラシェールは繰り返した。フィリスの理由を聞けば聞くほど、当然のように疑問は増す。
「私がフィリス卿の信念に、正義にかなう人間であるとは、私自身思えません。卿はエヴァリン公妃やフェリシア公妃を浅薄と仰いますが、私はお二方共に教養ある女性とお見受けいたしましたが」
 アイラシェールは、二人の公妃共に多少の会見の機会を得たが、性格や敵意はともかくとして、二人とも教養豊かで頭の切れも相当な女性だと感じた。だからこそ他の寵妃を押し退け、宮廷で覇を競えるのだと深く納得したのだ――彼女たちを好意的に感じたかは、また別として。
「確かにお二人とも、馬鹿ではありませんよ。議論をすれば、それなりに理に適ったことや実りのあることを言い返してはくれます。ですが、私が思うのは、それが本心なのかということなのです」
「といいますと?」
「国は民によって成っている、民を救わなければ国が危うい――そう口で言うのは簡単です。向こうも、何を言えば私が喜ぶのかは判っているでしょうから。ですが、本当にそう思っているのか、本気でそれを実践するつもりがあるのかと私は言いたいのです」
 フィリスはアイラシェールを真っ正面から見て、喜びと取れる笑みを浮かべた。
「だからあの時のあなたの言葉は、胸に響いた。侯妃があの時仰ったように、理念や理屈も、実践しなければ単なる言葉遊びにすぎないし、思い上がった貴族の自己満足にしかすぎないのです。それを真っ向から私たちに告げたあなたなら、それを実践できるとお見受けいたしました」
「それは、買いかぶりというものではないでしょうか?」
 惑うアイラシェールに、フィリスは軽く首を振る。
「そうでしょうか? あの時のあなたは、私たちより身分の低い女官でした。そしてあなたは、私がどんな信条の持ち主なのか――そう、私が誰なのかさえ御存知ではなかったではないですか。だからあの言葉が、単なる言葉遊びではなく、私たちを取り込むための嘘でもないということを――あなたの心の中に真実民を憂え、国を憂え、この国を少しでもよくしたいと思う気持ちがあったからこそと、私は信じています。そして私たちは――私は、あの時確信しました。やっと、全てを捧げるに値する方に巡り合えたのだと」
 辺りは朱に染まっていた。アイラシェールの白い髪さえ赤く見えるほどの光の中で、フィリスは跪き、剣を差し出す。
「アレックス侯妃殿下。どうか私の騎士としての全てを、この剣と共にお受け取り下さい」
 全霊を込めて、フィリスはアイラシェールに請い願う。
 それは二百年の時を越えてもなんら変わらない、騎士の礼。
「私を、あなたの騎士の列にお加え下さい」
 アイラシェールはすぐには答えなかった。身じろぎもせず、ただフィリスを見下ろし……やがて、ぽつりと呟くように言った。
「フィリス卿、あなたは私の言葉なら、全て信じてくださいますか?」
「全てを捧げようという方の言葉を疑って、どうしようというのです」
「ならば、言いましょう。私がこの剣を取れば――あなたが私の騎士になれば、あなたは破滅します」
 険しい眼差しで、声音で告げるアイラシェールを、驚いてフィリスは見上げた。
「私が己の運命を全て知っていると言ったら、あなたはそれを信じてくれますか?」
「侯妃――」
「信じてくださらないのなら、それで結構です。頭がおかしいのだと、笑ってくださればいい。ですが、私は知っているのです。あなたがこれから行くのは破滅の道です。あなたは堕ちるところまで堕ちていき、歴史に大罪人としてその名を刻むでしょう。運命を、変えることができなければ」
 凛とした声でアイラシェールは、最後の選択を迫る。
 もう、引くことはできない。
「悪いことは言いません。私に関わるのは、やめなさい。このまま待ち続ければ、あなたはラディアンス伯でもフレンシャム侯でもない、あなたの正義にかなう輝かしい英雄王に出会うことができるでしょう。彼の下でならば、あなたはあなたの信じる正義を全うすることができるでしょう。ですが、私と道を共にすれば、あなたはその英雄王の手にかかって果てるでしょう。そしてあなたの名はアルバ国民全てに忌まれるものとして、終世歴史に残るでしょう。どちらがいいか、あなたにも判るはずです」
 フィリスは跪いたまま、真っ直ぐにアイラシェールを見上げ続けていた。さすがに剣を下ろし、しばらくの間何事かを考え続けていたが、やがてぽつりと言った。
「あなたがそう言うのならば、きっと私の運命はそうなのでしょう。ですが」
 決意を込めて、フィリスは強い言葉を発した。
「だとしたら、私の取るべき道は一つしかありません。それが運命だというのなら、運命を砕く――ただそれだけ」
「フィリス卿!」
「私は、あなた以外の正義に膝を折るつもりはありません。これから先、何が起きようとも」
 情熱と悲愴をない交ぜにした瞳が、今度はアイラシェールに決断を迫る。
 再び差し出された剣。
「私の心をお受け取り下さい。あなたのために、あなたを苦しめる運命と戦うことを、どうかお許し下さい」
 ひた、と銀の目に射すくめられて、アイラシェールは立ち尽くした。
 どうしたらいいのだろう――逃げることはできない。
 フィリスが言うように、本当に運命が砕くことのできるものなのか、それは判らない。
 けれども、もう一つだけ確かなことは。
 逃げることは、できない。この目の前の人物から。
 手が伸び、剣に触れた。ずっしりと手応えのあるそれを両手で受け取って、アイラシェールは静かに告げた。
「許します――フィリス」
 柄に口づけを贈り、アイラシェールは剣を返す。力強くそれを受け取ったフィリスは、まさしく僥倖に出会えたかといった笑顔を浮かべた。
「何があっても、この命に換えてもあなたをお守りします」
 決意と喜びを込めて告げられたフィリスの言葉は、アイラシェールの心を揺さぶった。だがそれはフィリスではなく、遠い過去に向けられたものだ。
『必ず守る。守ってみせる』
 脳裏にはじける、あまりにも懐かしい声。
 手の中に、重い剣の感触が残っている。それを確かめながら、アイラシェールは泣き出したい思いに駆られた。
 判った。あの剣を受け取った瞬間に、判ってしまった。
 自分が欲しかったものが、何だったのか。
 それはこの剣ではなくて、薔薇の花だ。差し出された、一輪の白い薔薇の花。
 今ならはっきりと判る。
 受け取ればよかったのだ。あの薔薇を受け取り、笑って正直な気持ちを打ち明ければよかったのだ。
 『喜んで』と、ただ一言。
 あの時どれほど、礼装したカイルワーンがまばゆく見えたのか。跪き、毅然と自分に思いを告げた彼が、どれほど凛として見えたのか。
 差し出された薔薇の花に、どれほど心が踊ったのか。自分の鼓動さえ、聞こえてしまうほどに。
 受け取ればよかったのだ。こんなことになるのならば。
 今となってはあの白い薔薇が、狂おしいほど恋しくて欲しくてたまらない。
 何もいらない。何も望まない。そう思って生きてきた。そんな自分に欲しいものがあるとしたら、それはただ一つだけ。
 あの薔薇だけだったのだ。
 あれ以外に、欲しいものなどこの世にはなかった。
 けれどもあの時受け取れなかった自分の気持ちも、ありのままに思い出せる。苦しんで苦しんで、どれほど嬉しくても受け取れず、泣くしかなかった自分の気持ちも。
 だがそれも何もかも、今となっては何もかもが遅い。何もかもが遠い。
 もう、遅いのだ。何もかもが――。

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