それでも朝日は昇る 5章13節

 フィリスがアイラシェールの騎士になったこと――彼女の陣営に加わったことは、密やかかつ速やかに宮廷に広まっていった。
 そしてそのことは、宮廷内の勢力争いに、一石を投じるものだった。
「リワード・ブライアクレフと申します。こうして侯妃様にお仕えできることを、心より嬉しく思います」
「エスター・メイランロールです。過日のご無礼をどうかお許し下さい」
 フィリスの腹心である近衛騎士団員――『黒真珠の間』で議論を戦わせていたあの二人も、真っ先にアイラシェールの元を訪れ、膝を折り剣を捧げた。
 そして彼らは公務が終われば、毎日のように彼女の元を訪れ、そこで会話を楽しみ、様々な議論の花を咲かせるようになった。
 アイラシェールの意図したところではなかったが、それはもはや一種のサロンにほかならず、結果彼女はエヴァリン公妃やフェリシア公妃と、向こうを張らざるを得なくなった。
「正直、困惑しております」
 アイラシェールは、素直にそうウェンロック王に告げた。
 あの初夜以降、もはやウェンロック王は彼女と床を共にしようとはしなかった。だが昼夜に限らず彼女の下を訪れ、または呼び寄せ、楽を所望したり会話を求めたりはした。
 それは女官時代と大して変わらないことで、彼女をほっとさせた。またウェンロック王との間も気まずさがないと言ったら嘘になるが、意外なほどウェンロック王本人は屈託を見せなかった。
「どうしてだ? お前の立場的にも、悪いことではあるまい? エルフルトもよくやったと思っていることだろう」
「ですが……」
「余としては、よくもあの堅物を落としたものだと、感心したぞ」
 愉快そうに笑うウェンロック王に、アイラシェールはさらに困惑する。
「余も、フィリスや近衛の連中の行く先は案じていた。まあ余も正直、これ以上エヴァリンやフェリシアの言いなりの連中に取り囲まれるのはうんざりだが、ラディアンスやフレンシャムの力は馬鹿にできん。これから先、奴らに与しないことで近衛たちが苦境に立たされるのは、見るに忍びない。そういう点で、お前とバルカロールの元というのは、悪くない選択肢だろう」
 アイラシェールは王の言葉に、微かに表情を曇らせた。
 侯妃として王の側近くに仕えるようになり、こうして王の話し相手を務めて判ってきたこと。言葉の端々から、透けて見えるようになってきたもの。
 ウェンロック王の後継と目されるラディアンス伯とフレンシャム侯。その係累であるエヴァリン公妃とフェリシア公妃。いわゆる宮廷内の『ラディアンス派』と『フレンシャム派』を、王は同等に毛嫌いしている。
 彼が近衛騎士団の面々を、近年特に重用していること――若干二十六歳のフィリスが団長を任されたことは、恐らくはそこに起因しているのだろう。
「陛下は本当に、フィリス卿たちを信頼なさっていらっしゃいますのね」
 アイラシェールの言葉に、ウェンロック王は苦笑して応えた。
「あいつらくらいのものだからな。王位継承の損得勘定抜きに、余と接するのは」
 その一言が、ウェンロック王の心の奥底をかいま見せたようで、アイラシェールは少し胸が詰まった。
 ウェンロック王の心の中にどんな思いがあるのか、何を考えているのかなど、アイラシェールには判らない。
 子が作れない彼が、そのことをどう思っているのか。
 推定相続人として日に日に勢力を拡大しているラディアンス伯とフレンシャム侯を、どう思っているのか。
 彼が果たして、王位というものをどう思っているのか。
 その疑問は問えぬまま残り、慌ただしい十二月は瞬く間に過ぎていき、そして。
 年が改まった大陸統一暦999年、新年の慶賀行事の一つである騎槍大会が催される。
 武術試合は戦争のない冬場に、騎士の鍛練のために催されてきたのであるが、今では華やかな年中行事の一つだ。
 先立って行われる舞踏会では、アルバ全貴族と、出場する全騎士、王族、そして宮廷に仕える全ての貴婦人たちが集う。
 『紫玉の間』で開かれたそれに、アイラシェールは初めて侯妃という立場で出席した。玉座のしつらえられた壇上に、王や王妃、他の寵妃たちと共に登ることを許された。
 壇上から見下ろす広間は目眩がするほど広く、そしてそれを埋めつくす人の数にアイラシェールは圧倒された。そして、それだけの数の人間に、自分が見上げられる立場になったのだということにも、また。
 目の前では、騎槍試合に出場する騎士が、一人、また一人と王の前に進み出ては、己の決意を誓う儀式が続いていた。
「王に請い願います。私の勝利を、我が敬愛する宮廷一の麗人、エヴァリン公妃殿下に捧げること、私が彼女の騎士たることをお許し下さい」
 ラディアンス派の中核をなす貴族、ソムブレイル子爵の言葉に、ウェンロック王はかたわらのエヴァリン公妃を見た。
「どうだ、エヴァリン?」
「ソムブレイル子爵のご武運をお祈りいたします。明日は私の騎士として恥じぬ戦いを」
 艶然として子爵にはなむけの言葉を送るエヴァリンに、子爵は恭しく頭を下げた。
 騎士が己の敬愛する女性を讃え、明日の武勲を捧げる旨の宣誓をするのも、また倣いだ。
 だが、壇上に進み出た一人の騎士の姿に、にわかに人々がざわめいた。
 優勝候補の筆頭と目される、フィリス・バイド近衛騎士団長だ。
 フィリスは玉座の王に跪き、広間に響きわたる声で誓いを述べた。
「我が親愛なる国王陛下に、臣フィリス・バイドより申し上げます。明日の騎槍試合にて、聡明なるアレックス侯妃殿下に我が勝利を捧げ、侯妃の騎士としてかの方の色である赤と白を身につけることをどうぞお許しください」
 ざわめきが大きくなった。この言葉はフィリスが正式に、アイラシェールの騎士たることを内外に宣言するものだった。
「王として許そう。アレックス、お前はどうだ?」
「異存ありません」
 王に答え、アイラシェールは跪くフィリスに告げた。
「どうかフィリス卿、王の忠臣として、私の騎士としてのあなたに光があらんことを」
「もったいないお言葉にございます」
 ウェンロック王はこの日上機嫌だった。フィリスが壇上から辞し、出場者の宣誓があらかたすんだところで、玉座から立ち上がると高らかに宣した。
「明日の全出場者の奮闘を期待している。優勝者には褒美として、エスカペードをやるぞ」
 王の言葉は、今までの比ではないほどのどよめきを『紫玉の間』にもたらし、王妃・寵妃を始めとして給仕に到るまで、この言葉に動揺しない者は一人とていなかった。
 ただ一人、アイラシェールをのぞいて。
 聖剣エスカペード。王家に伝わる家宝の一つで、『王権の象徴』の双子とさえ呼ばれるそれは、王以外の者は触れることも許されていないものだ。
 それを臣下に、くれてやると?
「王! どうかおやめください。レヴェルの行方が掴めぬというのに、エスカペードまで手放されるなど……」
「うるさい。もう決めたのだ」
 侍従の押し殺したささやきは、かたわらに立つアイラシェールの耳に入った。そしてその言葉は、王の宣言より遥かにアイラシェールを動揺させた。
 信じがたい言葉だった。
 エスカペードの双子、レヴェルが、ない?
 そんな馬鹿な。
 侍従や廷臣の制止を振り切ってそのまま王は退出していき、大混乱の様相を呈している舞踏会はそれでお開きになった。
「大変なことになったな」
 退出しようとしたアイラシェールは、声をかけられて振り返る。
「侯爵様」
 バルカロール侯爵は、いまだ動揺のうかがえる面持ちだった。
「王はまさか、明日の結果により王位の行く末を決めるおつもりなのでは――」
「侯爵様」
 再び呼ばわり、アイラシェールはひどく切迫した表情を彼に向けた。
「至急ある方をお探しください。そして、私がどうしてもお会いしたいと言っていたとお伝えください」
「アレックス?」
 突然の言葉にバルカロール侯爵は面食らうも、あまりにアイラシェールが切迫した顔をしていて、否を告げられない。
 アイラシェールは動悸の治まらぬ胸を押さえ、微かに震えの感じられる声で言った。
 やはりこれしかない。確かめずにはおれない。
 これしか、道はない。
「御名は、カティス・ロクサーヌ。御年は今年で二十五歳、レーゲンスベルグの街で傭兵をなさっておられるはずです」
「その人物が一体……」
「お願いします。この方にお会いできれば、もしかしたら陛下の真意もはっきりするかもしれないのです」
 強い口調で求めるアイラシェールの迫力に押され、侯爵は釈然としないもののとりあえず頷いた。
 そんな彼を見、アイラシェールは沸き上がってくる苛立ちに似た感覚を持て余し、軽く唇を噛む。
 塔に幽閉されていた自分は、レヴェルに触れる機会はなかった。しかし、確かにそれは父王の時代、王宮にあったのだ。そして今、レヴェルが失せているということが事実ならば。
 考えられる可能性は、ただの二つ。
 父王のレヴェルが模造品だったか、それとも。
 この後見つかるのかの、二つ。
 だが、それの意味するところは――つまり。
「それにしても、明日の騎槍試合は苛烈なものになろうな。この結果によって――エスカペードの行方によって、宮廷内の勢力分布が大きく書き換えられることになりかねん」
 侯爵の言葉に、アイラシェールはなぜか沈んだ表情で告げた。
「フィリスは勝ちますわ」
 希望でも願望でも信頼でもなく、断定して告げるアイラシェールに――内容に比して、あまりにも暗い口調に、侯爵は戸惑う。
 先ほどからの彼女と、その言動は、侯爵には理解できない。
「それがよいことなのか、喜ばしいことなのかは、かなり疑わしいのだけれども……」
 エスカペードは魔剣に堕せり――後世の詩人が謳う言葉が、アイラシェールの耳から離れない。
 緋焔騎士団長フィリス・バイドとエスカペードは、常に一対で語られる。
 エスカペードはウェンロック王からフィリスに下賜され、彼の呪われた道を共にしたと伝えられている。
 そのためロクサーヌ朝では、エスカペードは呪われた魔剣として、宮廷宝物庫の最奥に固く封印された。そして封じたカティス王以後、一度たりとも外に持ち出されることはなかった。
 フィリスがエスカペードを手にすることは、アイラシェールには判っていた。だが、現実のその場面に遭遇してみれば、その意味合いはあまりにも想像していたものとは違う。
 もしフィリスが明日、誰かに破れれば――内心思わないでもない。けれども、それが詮のない夢想であることもまた、アイラシェールには判っていた。
 柄頭に大粒のルビーをはめ込んだ、優美な聖剣。それを王より託され、勝者に与える役を仰せつかるのは、きっと自分だ。
 そのことに、アイラシェールは暗澹たる気持ちになった――。


『こんな時間に、どこに行かれるのです?』
 夜半過ぎに目覚めたのは、どんな理由だったのだろうか。
 その日王城に宿泊していた理由も、なぜそこから抜け出したのかも、全く思い出せない。
 けれども確かにあれは城内で、月の光が周囲を照らす夜半過ぎだった。
 薄暗がりの中に、ゆるやかに波うつ金の髪を垂らした女性が立っている。
 青灰色の目が美しい、妙齢の女性だった。
『あら、見つかってしまったのね』
 女性は自分の姿を見とめて言った。その声音は、ころころと笑いに満ちて転がる。
『大荷物ですね。どうされたのです』
『どうしたもこうしたもないの。ただの夜逃げですわ』
 面白そうに言う女性に、自分は面食らって問い返した。
『夜逃げとは……何か悪いことをされたのですか? 私にはそのようには……』
『ありがたい言葉ですわ、エルフルト様』
『私のことを御存知なのですか?』
『次代のバルカロール侯爵のことを、知らない者が宮廷内におりましょうか』
 女性は笑顔で告げ、そして小さな自分を見下ろして言った。
『私の行いが罪であるのかどうか、その判断が下されるのはもっとずっと先の未来でのことでしょう。さあ私は、この国を救うことになるのか、果たして滅ぼすことになるのか』
『……御婦人?』
『大罪人と、忘恩の輩と罵られてもいいのです。どんな未来が待っていたのだとしても、誰のためでもなく何の理由でもなく、ただ私がこの城から逃げ出したかったのですから。ただそれだけのことなのです』
 訳の判らぬ自分に、女性はふと寂しそうに目を細めて言った。
『あなた様にもう一度、お会いする――そんなことが起こったら、その時はどうぞご容赦を。未来のバルカロール侯爵様』
 それだけ言い、呆気に取られている自分を残して、女性は大きな荷物を抱えると、夜の闇の中に消えていってしまった。
 それが一夜の夢だったのか、現実だったのかさえ、自分にはよく判らなかった。
 だがある日、宮廷女官が一人、突然と王城内から姿を消したという話を聞いた時、あの一夜の出来事が現実だったことを――あの女性が何者だったのか知った。
 けれどもこの出来事を、自分は父にも母にも、誰にも告げることができなかった。
 その理由は判らない。そしていつしかこの出来事も、彼女の言葉も、記憶の隅に追いやられて消えていくのだろう。
 そう思っていた。
「夢……?」
 夜半過ぎ、不意に目覚めたバルカロール侯爵は、今まで自分が見ていた生々しい夢を反芻する。
 そう、あれは昔あったことだ。自分が幼い頃あった、不思議な出来事。
 もう忘れたと思っていたのに。
 どうして今ごろになって、こんな夢を見たのだろう?
 なんてことのない夢なのに――遠い記憶なのに、鼓動が早い。
 不思議な、胸騒ぎがしていた。

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