それでも朝日は昇る 6章4節

 講談師が最新の話題を携えて、アルベルティーヌからレーゲンスベルグを訪れたのは、大陸統一暦999年四月二十五日のことだった。
 そしてそれが、レーゲンスベルグに置ける『第一報』だった。
 この日講談師は、自分が持ってきた話題に絶対の自信を持っていた。冷夏と小麦の不作、それによる物価の高騰と庶民の困窮。明るくないご時世に珍しい、胸のすくような話題だ。客の驚きに満ちた反応と、快哉の声を期待し、ひときわ声を張り上げる。
「ディリゲントに押し寄せたノアゼット軍、およそ二万に下された神の鉄槌! 天の頂から押し寄せた濁流はことごとく侵略者を呑み、アルバ国軍は無傷の大勝利を収めた!」
 講談師は、ここで観衆のどよめきを想像した。だが、その時、彼は予想もしない反応に出くわす。
 悲鳴が上がった。
「そんな……そんなの嘘よ!」
 若い女性だった。悲鳴を上げ、立っていることもできずに周囲の人たちに支えられた彼女は、わななく唇で名を呼ぶ。
「カティス、ブレイリー、ウィミィ、イルゼ、カッセル……そんな……」
 呆気に取られた講談師はもはや話し続けることはできず、衆目はもはや女性に一心に注がれ、そして女性はそれに構わず泣き崩れた。
「カティス、カティス……」
 彼女の悲痛の意味は、レーゲンスベルグ市民ならその叫びだけでたやすく理解でき、そして動揺と好奇に満ちたざわめきが、さあっと広まっていく。
 凶報は人々の口にのぼり、瞬く間にレーゲンスベルグに広まっていく。その過程を眺め、カイルワーンはレーゲンスベルグにおけるカティスの存在感を思った。
 全ての人間に好かれているわけではなかろう。反感を抱いている者も、敵意を感じている者もあろう。「ざまあみろ」というささやきとて、耳にしなかったわけではない。
 だがそれも含めて、人の話題にのぼらずにはいられない存在なのだ、彼は。
 泣き崩れている女性に、何人も会った。カティスは素人女性には絶対手を出さないことで有名らしいが、それでも――だからこそなのだろうか、妙齢の独身女性にはすこぶる人気がある。
「カイルワーン様……カティスが、カティスが」
 さめざめと泣き、すがりつくような眼差しを向けてくる女性たちに、カイルワーンはただ言った。
 表情も変えずに。
「知ってる」
 それだけを言い残して行ってしまった彼に、街中では様々な噂が――「衝撃を受けておられるんだから仕方ない」とか「あんなに親しくしておられたのに、冷たい」とか――ささやかれたが、本人は全く頓着せず、難しいしかめっ面のままで家に戻った。
 扉を閉め、鍵をかけ、深くため息をつく。
 カイルワーンにしてみれば、それ以外に答えられる答えも、言える言葉もなかったのだ。
 この日が来ることは知っていた。あの喧嘩別れをした日から。
 そしてこれから起こるであろうことさえ。
 カティスが出発してから三ヶ月の間、色々なことを考えた。あの晩は、何よりもまず怒りが先についたが、三ヶ月も時間があれば、いい加減激情は冷める――許せる許せないは別問題として。
 そうして、心の中を何度も何度も一つの言葉がかすめた――言わなければよかったと。
 言わないで、黙って行かせて、そして何も知らぬまま惨劇に遇ってしまえばよかったと。
 カティスが、死んでしまえばよかったと――。
 それは傷つけられたからではない。信じてもらえなかったからではない。あの時、カティスに死んでほしくないと思ったことも、決して嘘ではない。だがその気持ちと全く同等に、この事件が起こる前からずっと――出会ってから一年、心の中のどこかにいつも彼への殺意があった。
 彼を殺し、全てをなかったことにしてしまおうかと。
 彼を消し、彼の子孫であるアイラシェールも消し、自分の運命も彼女の呪いも――世界の枠組みも何もかも、全て消してしまおうかと。
 それは疲れた心には、甘美な誘惑だった。歴史に対しての、最も有効な抵抗だった。
 カイルワーンは鞄の中をまさぐった。その中には、いつも肌身離さず持ち歩いている二つの袋が入っている。
 白い袋と灰色の袋が。
 クレメンタイン王からこれを拝領してから、自分の体の上で流れている時間は、たった一年だ。それなのに、あまりにもあの日が遠い。
 手を伸ばして、灰色の袋に触れた。指先に、中身の固い感触が伝わってくる。
 灰色の袋を見るたびに、その中身を改めるたび、心に沸き上がってくる思い。
 これで全てを壊してしまおうか。カティスを殺し、彼から連なるクレメンタイン王もオフェリアも、アイラシェールも全部消し、ロクサーヌ朝も何もかも葬り去ってしまおうか。
 その方が、このまま歴史を遂行するより、よっぽどいいのではないか。
『馬鹿者。お前は誰かのためにそう思うんじゃない。お前自身が逃げ出したいからだろう』
 脳裏に弾ける声は、鮮明だ。実際に空気を震わせ、鼓膜を叩いているようにさえ感じられる。
 そう、この声の持ち主が、今目の前に立っているかのように。
 カティスがノアゼットに旅立ってから三ヶ月。発作の回数は、いや増した。
『お前が辛いから、お前が苦しいから、現状から逃げ出したいだけだろうが。この現状を作っているのは誰だい? お前自身だろう? どうしてその落とし前をつけるのに、他人が命を差し出してやらなきゃならない』
 よろめいて寝台に崩れるように座り込み、耳を両手で押さえた。けれども声は呵責なく、カイルワーンを責めたてる。
『なんて奴だろう。独りで山の中に倒れていて、そのままでいたら凍死していたお前を見つけて、助けて、路頭に迷わぬように面倒を見てくれた相手を、そのために殺すのか。高飛車で、高慢で、つっけんどんで、どこをとっても他人に好かれようのないお前を、孤立しないように心を砕いてくれたのは誰だ。まったくもって、自分だけが大事で、他人のことなんか虫けら同然にしか思っていない、お前らしい考えだ』
「判ってる……言われなくたって、そんなこと判ってるよ」
 吐き捨てるカイルワーンに、声は冷然と突きつける。
『お前にだって判っているだろう。歴史を変えたいと願うのなら、そしてお前が現状から逃げ出したいと願うのなら、とても簡単な方法があるだろう? 何を悩むことのない、とても簡単な方法が』
 誘うように、突きつけるように、声はカイルワーンの背筋をなでる。
『それだけがお前の選ぶべき、ただ唯一の正しい道だろう? これ以上誰に迷惑をかけることもなく、それだけでお前の周りの全ての人間を救えるだろう? 私の言うことはどこか間違っているか?』
「それは判ってる……判ってるけど、だけど」
『こんなことになるのは、判りきっていたことじゃないか。だから私はあの時――』
「やめろ! 言うな! それ以上は……それだけは言うなっ!」
 汗が吹き出る。心の深いところに押し込めた記憶がまさぐられる感触に、吐き気がこみ上げてきた。苦しくて、気持ち悪くて、自分を制していられない。
 無意識のうちに己を抱きしめていた手が、その指が、腕を掻きむしる。爪が刺さり、血が流れ出す痛みに、さらに感情が暴れ出す。
 指が動く。己の肉をえぐり、傷を広げていく。血がにじみ、爪の間が赤く染まってもなお、自傷を止められない。
 体を傷つけ、その痛みに支配されなければ――痛みという自覚がなければ、自意識を保っていることさえできない。
 もうそれ以外、痛み暴れる心を制する術を見つけられない。
 じぐじぐとにじむ血は敷布に染みを残し、忘れることさえ許さずカイルワーンに現実を突きつける。
『お前は、正気か?』
 あの日、カティスは言った。その言葉に自分は激昂した。だが、言われたあの瞬間ですら、本当は気づいていた。自覚していた。
 一側面においては、それは正しい。
「ああ、そうだよカティス……君は間違っていない」
 渇いた笑いが、荒い呼吸と共に漏れる。
「僕は君に会う前から――とうの昔から、狂っていたんだもの。君の言うことは、間違っちゃいないさ……」
 肩で大きく、ともすれば詰まりそうになる息を吐き、カイルワーンは己に毒づく。
 両腕が痛む。流れ落ちる血が敷布を汚すのも構わず、寝台に転がり、天を仰いで目を閉じた。
 暗闇に覆われた世界は回っていた。
 闇はその腕を広げて、彼を深部に誘う。引きずり込まれるような感覚に、抗う術はカイルワーンにはない。
 意識がゆっくりと、ゆっくりと暗闇に落ちた。

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