それでも朝日は昇る 6章3節

「お別れのご挨拶に参りました」
 リワードの突然の言葉に、アイラシェールは目を細める。新年の行事も慌ただしく過ぎ去り、二月になっていた。
 外の静けさとは対照的に、宮廷の喧騒は増していた。隣国ノアゼットでの大規模な傭兵徴募と軍の整備は、アルバ宮廷に警戒を抱かせるに十分だった。
 東のセンティフォリア、南のノアゼット。アルバと国境を接するこの二つの国とは、ブロードランズ朝によるアルバ独立 以降、火種が絶えた試しがない。それぞれがそれぞれに侵攻し、または貴族間の勢力争いに介入し、領土の陥落と奪回を繰り返している。
 ノアゼットの狙いが、北のアルバか北東のセンティフォリア、それとも南のフェディタなのかはまだ掴めていない。しかし、迎撃体勢の整備は急務であり、近衛騎士団員を身内に抱えるアイラシェールは、決して無関係ではいられなかった。
「拠点の一つの守備を軍務大臣より任されました。一両日中に、任地へ出発する予定です」
 それは決して上級貴族ではない彼には、栄転とも抜擢ともいえる待遇だろう。それなのに、告げるリワードの表情の暗さが、アイラシェールには気にかかる。
「……あなたのその顔では、まるで今生の別れのよう」
「そうなるのかもしれません――私の任地であるディリゲントが狙いであるのならば、恐らくはそうなるのでしょう」
 リワードが苦みの走った口調で答えた時、アイラシェールは背後で息を呑む気配を感じた。そしてそれが誰のものか、振り返らなくても彼女には判った。
 背後には、ベリンダとマリーが控えているのだから。
「侯妃殿下にはお判りでしょう。今のアルバには、ノアゼットに対抗するだけの兵力を用意するだけの財政的余裕はありません」
「……ええ」
 昨秋の作物の収穫不良は、財政に大きな打撃を与えた。税収は大きく落ち込み、国倉への穀物の備蓄もままならなかった。アルバは特に近隣諸国に比べて農業生産力が低い。状況は他国よりも遥かに深刻だ。
 現代戦において軍の主力は騎士ではなく、傭兵――歩兵だ。だがこの現状では、その傭兵を満足に雇うこともままならないだろう。
「しかも、ノアゼットの目標が一点に絞れれば、全軍勢を集中させて迎え撃つこともできるのですが」
「意見は割れているようですね」
 侵攻先がアルバだとすれば、どの経路を用いて、どこを目標とするのか。それは今の段階では掴めない。
 アイラシェールは、頭の中に大陸の地図を思い浮かべて問いかける。
「考えられるのは三つでしょうか。首都から中央陸路をそのまま北上して、国境のプレジオサ。北西に針路を取って、海沿いの国境メイロラデル。いま一つが、東に迂回して山間の国境ディリゲント」
「ラディアンス伯はプレジオサを、フレンシャム侯はメイロラデルを主張して一歩も譲られません」
「となれば、それぞれの派閥の方がそれぞれ、派兵することになったのね」
「平たく言えばそういうことです」
 リワードは小さくため息をついた。軍務会議の場がどのような展開を見たのか、そのため息だけで判るような気がした。
「ノアゼットの動きを見てからでは遅いのは事実です。可能性のある三点で、それぞれ軍備は整えておかなければならないでしょう。しかし、ただでさえ少ない軍勢を三つに割っては、果たしてノアゼットにかなうものやら」
 リワードが言外に語るものが、アイラシェールには判る。
 ノアゼットの軍勢とて、一瞬にして移動できるわけではない。彼らがアルバを攻めるとして、東・西・北のどちらの方向に進路を定めるのかは、時期がくれば判るのだ。
 だが問題なのは、その時外れの二ヶ所の軍勢が、当たりの一ヶ所の救援に駆けつけ、ただちに結集できるかということだ。
 三地点に、それぞれ足を引っ張りあいたい三勢力が配置されるのでは、結果は見えていよう。
 おそらくディリゲントが襲われても、ラディアンス伯、フレンシャム侯の軍勢は、加勢に駆けつけるように見せて、しかし決して間に合わないだろう。
「……侯妃は、どうお考えになりますか。ノアゼットが、どこを狙うのか」
 リワードの問いに、アイラシェールは答えが喉まで出かかった。
 大陸統一暦999年のノアゼットのアルバ侵攻が、どこの街を標的としたもので、それがどんな結末を迎えるのかは、アイラシェールにもカイルワーン同様判っているのだ。
 アイラシェールは背後のベリンダの顔を見た。少しだけうつむいた顔は、沈んだ表情に縁取られていて、内心は量りようにも量りきれない。
「ノアゼットがアルバと全面戦争に及ぼうというのなら、正攻法で中央陸路――プレジオサでしょう。現実的な利益ならば、大交易都市であるメイロラデルは魅力的な土地です。ラディアンス伯やフレンシャム侯の主張ももっともですが、ディリゲントを押さえれば、ノアゼットは東への足がかりができます」
 ディリゲントは、大陸を南北に走るラッセリアナ山脈の中にある。センティフォリアやオフィシナリス、さらに東のヘルモーサなどにノアゼットから向かうには、必ずこの山脈を越えなくてはならない。特にセンティフォリアに向かうには、山越えのラッセリアナ街道中に存在するディリゲントは、拠点とするにはうってつけの土地だ。
 そのため二十年前、ディリゲントはノアゼット軍の標的となったのだし、アルバ軍もまた全力で奪回することとなったのだ。
 そして、今また――。
「ディリゲントには、遺恨があります」
 背後から声が聞こえて、アイラシェールは振り返った。暗い顔をしたベリンダは、アイラシェールとリワードに、静かに告げた。
「二十年前の占領戦の時のことを、誰一人忘れてはおりません。ノアゼット軍を深く恨み、憎んではおりますが、敗北がどんな結果を自らにもたらすかもよく知っております。リワード卿、どうぞお気をつけて」
「ベリンダ、あなたはディリゲントの出身なのですか?」
 リワードの問いかけに、ベリンダは小さく頷いて言った。
「リワード卿が指揮できる兵力では、籠城戦以外に道はございますまい。ですがその時、住民の動揺、離散、暴発の可能性――籠城の危険性は、他の街よりも遥かに高いと思います。残念ながら、ディリゲントの住人は、ノアゼット軍と共にアルバ軍もまた恨んでいるのですから――自分たちを守りきってはくれなかった、アルバ軍を」
「……道理だな」
 小さく同意のため息をついて、リワードはベリンダとアイラシェールに小さく笑った。
 それは紛れもなく、諦めの混じった苦笑だった。
「負けたくない、無事街を守りきってみせると大見得を切りたいところなのですが、ノアゼット軍はおよそ二万――増援が間に合わなければ、とてもお話にならない兵力しかありません。現地で傭兵の徴募は行うつもりでいるのですが、死に戦と判っているものにどれくらいの反応があるのか」
 容赦ない現実を見据えた言葉に、アイラシェールは返す言葉がない。
「杞憂とお笑いください。しかしながら、懸念が的中すれば、二度とここには戻れないでしょう。短い間ではございましたが、侯妃殿下にお仕えできた時間は、私にとってかけがえのない時間でありました。そのことをもしお心に留めてくださるならば、これに勝る喜びはありません」
 別れの挨拶を述べて、退室するリワードを見送りながら、アイラシェールは同時に、考えこんでもいた。
 大陸統一暦999年四月十八日――そのことを、当然アイラシェールは考える。
「また戦争になるんだね」
 ベリンダはアイラシェールに洩らした。
 その暗く、沈んだ顔は、明らかに彼女の心情を語る。
「ディリゲントなのかな、戦場は」
 彼女を産み、彼女を捨てた母親が今なお住む、帰れぬ故郷の街。
 ベリンダの言葉は、アイラシェールの解答を期待していたわけではなかったのだろうが、彼女の胸には刺となって刺さり、微かな血を流す。
「汚名をそそぎ、団長と男爵様へのご恩を返すまでは、決して死なない、死んでも死にきれないって、いつも言っていたくせに、あんなに気弱なことを言うなんて……よほど預けられる兵力が少ないのね」
 ぽつり、と洩らしたマリーに、アイラシェールは驚く。
「マリー? いつの間にリワードと」
「あら、侯妃、ご存知なかったんですか? 私とリワードは幼なじみなんですよ」
「……知らなかった」
「私の家とリワードの生家は古くから親交がありまして――仲がよすぎて、まとめて没落しましたが」
 マリーは意外なほどあっけらかんと、身の上を語った。
「私と彼の家は、謀叛に巻き込まれました。私の家は領地や爵位の没収ですみましたが、リワードの父上や兄上は、謀叛に直接加担したとして処刑、家名は断絶となりました。彼自身は母上の再婚とバイド団長の口添えで、ブライアクレフ男爵家の養子に入り、宮廷に再び登ることを許されましたが、失った家名のことは常に心にあったようです。いつか必ず功を挙げて、名誉を回復するのだと、そう口癖のように言っていたのですが……」
 ため息をついて、マリーは視線を落とす。
「私はあの謀叛が、根も葉もないでっち上げであったことを信じています。全身全霊で無実を訴え続けて死んだ父も、謀反人とそしられるフランチェスカの名も、誇りに思っています。だからこそ、己の出自を隠すような真似はしたくなかった。――その方が楽だと、判ってはいるのですが」
 頑強なまでに女官長に逆らい、仮名を拒否したマリーの真意は、我が儘の一言ではくくれないのだろう。そうアイラシェールは思った。
 誇らなければ立ってもいられない。それほどに、彼女と彼女の家に対する風当たりは強かったのだろう。
「侯妃、私には何も、できることはないのでしょうか……」
 ぽつりと呟いたマリーに、アイラシェールは何も言えなかった。
 できることはある。それは判っている。けれども、それを口にできない。
 踏ん切りがつかない。
 大陸統一暦998年四月十八日、ディリゲントを包囲していたノアゼット軍を鉄砲水が襲い、アルバ軍は戦わずして勝利する。
 ディリゲント駐留のアルバ軍を指揮するのは、自らの陣営のリワード・ブライアクレフ。ディリゲントの街は、自分の侍女で親友のベリンダの生まれ故郷。
 多勢に無勢の戦力。奇跡のような大勝利。そして、魔女――預言者のいる宮廷。
 図式は見える。作為も。今ここで自分が、何をすればいいのかも。
 だが。
 歴史を変えたいと願っている。あの自分の無残な運命を変えたいと。けれども、そのためには、実際何をしたらいいのか。実のところ、アイラシェールは判らなくなっている。
 ウェンロック王に道を踏み外させなければいい――確かに政務を疎んじるきらいはあるが、歴史書が伝えるように政務を放り出して後宮に入り浸っているわけでもなく、悪法を制定するでも、気まぐれで他人を処罰するでもない。
 フィリスに道を踏み外させなければいい――確かに頭が固いという印象は受けるが、馬鹿正直なほど公明正大で、おさおさ民を虐げることなど考えられない。
 そして自分。
 今の段階では、誰の何が原因で、自分が『魔女』と罵られ、憎まれる結末に辿り着くのか、さっぱり判らないのだ。
 自分はすでに歴史を変えられたのか、否か。今なお歴史の定めた通りに動いているのか、否か。それすらも判らない。
 ここで自分が何もしない。そうすれば、恐らく歴史は変わるだろう。ディリゲントの奇跡は起こらず、ノアゼット軍にアルバ軍は破れ、ディリゲントは陥落するだろう。指揮官であるリワードは死に、フィリスは敗退の責任を追及されるだろう。となれば、その余波はバルカロール侯爵と自分にも及んでくるだろう。
 それもいいかもしれない、とちらとは思う。後に魔女の私軍・緋焔騎士団となる近衛騎士団が、ここで瓦解するのも。そして自分は体制から外れた、宮廷の日陰者になって独り滅んでいく。それもいいかもしれない、とは。
 だが脳裏を、自分の二人の侍女の横顔がよぎる。先刻のベリンダとマリーの顔が。
「……逃げてどうするのよ」
 アイラシェールは口に出して言ってみた。その声は、広い寝室にこだまして、痛いくらいに響く。
「自ら国を滅ぼして、どうするのよ。侯妃である、私が」
 それこそ魔女の行いではないか。
 自らの取る手段は、罪もないノアゼット国民を死に至らしめることになる。けれども、己がすでにアルバ国政に影響を与えられる立場にあるということ――この生活が、アルバ国民の税によって支えられているということの、意味。
 それにはすでに、責任が生じていよう。
「ベリンダ、マリー」
 アイラシェールは侍女たちを呼ばわり、急いで書きつけた書状を渡す。
「急いでこの書状を、マリーは陛下へ、ベリンダはバルカロール侯爵へ持っていって。陛下からはその場で、可か否かのご返答がいただけるでしょう。侯爵様の方は時間がかかることだから、折り返し使者が来るはずです。マリー、あなたは陛下に手紙を渡したらすぐ、リワードに明日の朝もう一度ここに来るように伝えに行って」
「侯妃様」
 訝しがって問い返すマリーに、アイラシェールは張りのある強い声で言った。
「細かい説明をしている時間はないの。全て準備が整ったら、疑問も何もかも全部答えてあげるから、早く行って!」
 翌朝、急な呼び出しを疑問に感じながらもやってきたリワードは、想像もしなかった情景に出会うことになる。
 いつも彼らが訪れ、会話を楽しんでいる広間の床いっぱいに広げられているのは、細密な地図。そしてそれには、書き込みの跡が幾つも見られた。
 迎えた侯妃は、いつもと同じように隙のない身繕いをしていたが、顔には明らかに疲労の色が見られた。
「……お疲れのご様子ですが」
「実は寝てないの。計算するのに、昨日一晩かかっちゃって」
 眠そうに手で顔を押さえるアイラシェールに、リワードは面食らった。
「あの、侯妃。計算とは」
「私からのはなむけです。私の騎士として忠誠を誓うのならば、私の言葉を疑わずどうか真摯に受け止めてください」
 アイラシェールは少しの恐れをもって、リワードに告げた。
「ノアゼット軍の目標は、ディリゲントです。その規模はおよそ二万――まともぶつかって敵う相手ではありません」
「侯妃――」
「だから、奇策を練りましょう」
 アイラシェールは床の地図の一点を指し示す。
「これはディリゲント周辺の地図です。昨日、バルカロール侯爵に骨を折っていただいて、入手しました。ここがディリゲントで、ノアゼット軍はラッセリアナ街道を北上してくることになります」
 指が左から、右へと動く。
「総攻撃を前に、ノアゼット軍はどこかに陣を構えるでしょう。恐らくは、南のここ。ここ以外に、二万もの兵力の野営地とできる広い場所は確保できない」
 アイラシェールが指さしたのは、ディリゲントから南に少し離れた盆地部分。
「さて、これがラモーナ川。ラッセリアナ山脈を水源として、ディリゲントの北をかすめて西に流れていきます」
「侯妃、失礼ですが、一体何を――」
「この川を、塞き止めなさい」
 努めて感情を抑えて、冷静に告げるアイラシェールに、リワードは言葉を呑んだ。
 数秒後、理解と感嘆と驚愕が襲ってくる。
「今は二月。まだ水量は大したことはありませんが、四月になれば雪解け水で川は相当増水します。山間の天気は変化しやすく、集中豪雨も珍しくありません。その時に、堤を切れば」
「鉄砲水で、ノアゼット軍を押し流そうというのですか……」
「この作戦には、大規模かつ極秘裏の工事が必要ですが、市民を徴用なさい。傭兵ではなく役夫の徴用ならば危険も少ない。自らの安全のために立ち上がれと、説得もできるはずです」
 地図上に自らつけた印を指さし、アイラシェールは説明を加える。
「この地点で川を塞き止めれば、高低差の関係から盆地に水が流れ込むはずです。ノアゼット軍も、戦う前に打撃を受ければ、撤退を余儀なくされるでしょう」
 アイラシェールは、ふと苦笑する。
「ノアゼット軍の目標が定まっていない今、こんなことを言うのは常軌を逸しているのかもしれません。しかし、この作戦を遂行するには、相手の出方を待っているのでは、間に合いません。どうか私の言葉を信じ、実行に移してはくださいませんか?」
 リワードはしばし呆然としていたが、やがて力強く頷いた。
「ありがとうございます、侯妃殿下。これならば必ず、ノアゼット軍を撃破できるでしょう」
 興奮がうかがえるリワードの言葉にアイラシェールは小さく頷くと、胸から大きなルビーのはめ込まれた首飾りを外し、彼に差し出す。
「陛下には許可をいただきました。これを売却した資金で、役夫を雇用しなさい」
「そんな……これは陛下が、侯妃殿下に贈られたものではありませんか。こんな大切なものを手放されるなど」
「陛下はこれを、何で買ったの?」
 厳しいアイラシェールの言葉に、リワードは返答に窮する。
「それは……」
「税金でしょう? だったら、国民の窮状に際して、国民に返還するのは筋です。陛下もご同意なさったのですから、気にすることはありません」
 リワードの手を取り、首飾りを握らせて、アイラシェールは微笑んだ。
 その天上の笑みにリワードは首飾りを強く握りしめて、感極まったように頷き、そして。
 運命は定まった。アルバにおいて『ディリゲントの奇跡』、ノアゼットにおいて『ディリゲントの悪夢』と呼ばれる、大災厄に向かって――。

Page Top