それでも朝日は昇る 6章2節

 今カイルワーンは、何を言ったのだろう。そうカティスは正直思った。
 自分の耳がおかしくなったんじゃないか、そうとさえ思った。
「お前……今、なんて言った?」
「僕とアイラシェールは、未来の人間だ。大陸統一暦1217年に王朝が革命で滅び、王女である彼女と共に落ちのびる途中で、よく分からない作用で998年に運ばれた――おそらくはアルバのそれぞれ違う場所に。そして僕は街道沿いの山中で、君に拾われた」
 小さく苦しげな吐息を洩らして、カイルワーンは続ける。
「だから僕には身寄りも、係累も、頼る相手も行くあても、何もかも存在しなかったんだ。僕の過去を知る人間なんて、いるはずがない。なぜなら僕は、この世界の人間じゃなかったんだから」
 呆然と自分の顔を見つめるカティスに、カイルワーンは苦々しげに告げる。
「証拠なら、幾らでもあるんだ。僕は驚異的に優秀な医師で、発明家だ。だがそれは、当たり前なんだ。二百年後の医学は、この時代のものとは比べ物にならないほど進んでいる。僕は二百年後じゃ凡庸な医者の卵でしかないけれども、持っている知識や技術はこの時代には存在しないものだ。奇跡のように見えてるが、僕の育ってきた時代ではそれは当たり前のことなんだ。発明品だって、僕が考えたんじゃない。僕の周りにはそれらのものが当たり前にあって、僕はその仕組みを知っていただけだ。馴染み深く使っていて、当たり前に存在していたものだから再現できたんだよ。僕は天才じゃない。僕はただ、未来から知識を、持ってきただけなんだ」
「そんな馬鹿な……」
「僕の父は、歴史家だった。その影響で、僕も飽きるほど歴史書も読んできた。史書に書かれたことが偽りなく事実ならば、これから起こる全ての出来事の詳細を、僕は知っている。望まぬに関わらず――そう、望まぬに」
 苦い表情でカイルワーンはため息をもらし、カティスに迫る。
「今ノアゼットの徴募に応じれば、戦地は間違いなく惨劇の起こるディリゲントだ。九割の確率で死ぬ戦場に行くなんて、馬鹿だ! 傭兵の徴募は今回限りじゃないだろう? お願いだから、今回だけは見送ってくれ。お願いだから、行かないでくれ。僕は、僕は……」
 ついにカイルワーンは、その一言を絞り出した。
「僕は君に、死んでほしくない」
 自分がカイルワーンにどう思われているのか――それは本当はカティスが、心の底から知りたかったことだ。その答えを求めて、得られなくて、苛立ったりもした。迷ったり、悩んだりもした。
 その答えをカティスはついに得たのだが、悲しいことに彼はそれどころではなかった。
 今の事態はカティスが――人間が、一度に処理できる許容範囲を、大きく超過していた。
 混乱し、困惑し、事態を消化しようとして――結果は、あまりにも単純だった。
「お前は、正気か?」
 音をたてて、糸が一本弾け飛んだ。
「こんなに貧しくて見すぼらしい王子が、どこの世界にいるって言うんだ。俺が自分が王子様だと主張して、一体誰がそれを信じてくれる? それこそ頭がおかしくなったかと笑われるのが関の山だろう? 違うか、カイルワーン」
 ことさらに自嘲的に笑い、カティスはカイルワーンに吐き捨てた。
「心配してくれるのはありがたいさ。だけど、どうしたらそんな世迷い言を信じられるというんだ。お前なら同じことを他人に言われて、ためらいもなく信じられるか? 俺には、無理だ」
 ぱつん、ぱつんと糸が弾け飛ぶ音が、カティスには聞こえていない。
「医者のお前に言うのもなんだが、誰かに診てもらった方がいいんじゃないか。神経がすり減れば、変な妄想にとりつかれても仕方が――」
「黙れ」
 うつむいていたカイルワーンが顔を上げ、カティスを睨んだ。その凄まじい形相に、カティスは言葉をなくした。
 傷ついた顔をしていた。そして大切なものを傷つけられた怒りに満ちていた。
 全身全霊をかけて、自分が憎まれているのがその瞬間判った。
「君は僕が気違いだというんだな。ほかならぬ君が、僕のことを、気違いだと」
「カイルワーン――」
 がたがた震える体が――全身が、憤怒を表していた。
「ああ、そうだろう。自分が信じられないようなことを言ってるのは、自分で判ってるさ。君が僕のことを気違いだと、そう言うのなら、そうなんだろうさ」
 皮肉げに、忌ま忌ましげに、カイルワーンは吐き捨てた。
「出ていけ」
「カイル――」
「ノアゼットでもどこへでも、勝手に行け! 勝手に行って、死んじまえ! 僕の知ったことか!」
 カイルワーンと出会って十ヶ月。カティスが一度たりとも聞いたことのない、激しい言葉だった。事実、カイルワーンもこれまで一度たりとも口にしたことのない、口汚い言葉だった。
 それなのに、ためらいなどかけらも浮かばなかった。
 紅潮した顔が、絶望と痛みで泣きだしそうなほどに歪む。
 けれども、カイルワーンは泣きはしなかった。代わりに、有らん限りの声で叫ぶ。
「君になら信じてもらえると……君なら信じてくれると思った、僕が馬鹿だった!」
 さくっと音をたてて、鋭い刃が自分の心に刺さったようだと、カティスはその時思った。
 血の気が引いた。
 その一言は深く深く心の奥に刺さり、じくじくと痛みをあげた。
 カイルワーンの言葉の意味。その裏返し。
「カイルワーン、あのな」
 取り繕おうとしたカティスの耳元を、空気を鳴らして何かがかすめた。投げつけられた陶器のカップは背後の壁に当たり、甲高い音をたてて砕ける。
「出て行けと言ったろう」
 剣呑な眼差しで、押し殺した声で告げるカイルワーンに、カティスは身の危険を感じた。
「二度と顔も見たくない」
 ここまで言われた時、さすがにカティスも腹が立ってきた。
 なぜにここまで言われなくてはならないのだろう? 自分が何をしたというのだ。
 おかしいのは自分ではない。向こうの方ではないか。
「ああ、結構だ。俺だって、お前の戯言にこれ以上つきあえるか!」
 叩きつけて、カティスは扉に向かう。
 手をかけて、そして言い捨てた。
「お前はお前の言うことなら何でもありがたがって聞く、お前の信奉者だけに取り囲まれてりゃいいさ! もうつきあいきれん!」
 ばたん、と音をたてて閉められる扉を見、カイルワーンは力尽きたように椅子に腰を下ろした。
 食卓にずるずると崩れ落ち、痛む胃を押さえ、荒い息を洩らす。
 目尻にじんわりと、涙が浮かんできた。
 僕は何のために――何のために。うわ言のような呟きが、小さな家屋に満ちる。
 怒りもあらわに外に出たカティスは、頬に散りかかる冷たさに、空を仰ぐ。
 灰色の空から、音も立てずに舞い落ちる細かな粉雪。
「積もるかな……」
 目の前に自分の家の入口があるのに、中に入る気になれなかった。
 壁に寄りかかり、天を降り仰げば頬に幾重にも雪の粉がふりかかる。
 どれくらい彼がそこでそうしていたのか、彼自身にも判らない。ただ彼がどんなに待ち続けても――何かが起こることを期待しても、何も起こらなかった。
 雪も、やまなかった。

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