それでも朝日は昇る 6章7節

 南からの定期船は、いつもと変わらぬ佇まいで入港したため、始めは誰も気に留めなかった。だが、降り立った人影は港に時ならぬ騒ぎをもたらす。
 大陸統一暦999年、五月半ばのことだ。
「ただいま」
 いつもほど飄々とはしていない。だが憔悴してるでも安堵するでもなく、どこか悪戯がばれた時のような困った笑みを浮かべ、彼は言った。
「カティス、あんた無事だったの!」
「そう開口一番に言うところを見ると……やっぱり伝わってるんだ」
 困ったように頭を掻いて答えるカティスに、船から降りてきたブレイリーが顔をしかめて言った。
「一月もたってるんだ。当たり前だろう? アルバ軍の奇蹟的大勝利――講釈師が広めて歩かないわけがないだろうが」
「ブレイリー! あんたも無事だってことは……」
「ああ、レーゲンスベルグからノアゼット軍に雇われた連中は、みんな無事だよ。ただ、あんな事態になっちまったもんだから、撤収に思いのほか時間がかかって、帰ってくるのにこんなにかかっちまったけどな。稼ぎもなきに等しいし」
「まあ、命を拾っただけ、めっけもんだと思うぞ、実際」
 イルゼの言葉に、カティスをのぞく一同は大きく頷いた。
 噂を聞きつけて家族や知人たちがぞくぞく集まり、埠頭はお祭騒ぎになっていた。カティスはその中に、この数ヶ月――特にノアゼット軍が壊滅して以来、ずっと会いたいと願い、そして一番会うのに気が重い人物の姿を探したが、彼の姿は一向に見いだせなかった。
「お帰りなさい、カティス」
 静かで穏やかな声に、カティスは振り返る。そこに立っているのは、カティスが一番心配をかけたくないと思っていた人物だ。
 何を言われるか、どんな反応をされるか。帰途で考えていたカティスだったが、アンナ・リヴィアの反応は全く想像していなかったものだった。
 ほんのそこまで出かけて帰ってきたというような、全く心配もしていなかったという穏やかな反応に、カティスは面食らう。
「……全然心配もしていなかったみたいだな」
「あら。ディリゲントの話を聞いた時には、私だってさすがにもう駄目だって思ったし、泣いたわよ。当たり前じゃない」
「のわりには、驚いてもいないようじゃないか」
「カイルワーンが言ったの。あなたは必ず無事で帰ってくるって。だから残務整理に手間取ったとしても、ぼちぼちだなと思ってたから、別に驚きはしないわ」
 アンナ・リヴィアの言葉は、カティスに重苦しい沈黙をもたらした。顔を複雑に歪めてしばらく悩んだ挙句、問いかけた。
「カイルワーンは、お袋に何を言ったんだ?」
「カイルが言ったことは、カティスは必ず帰ってくるから心配するなってことだけ。根拠は話してくれなかったけれども、僕が保証するからって。だから私は信じることにしたの」
「それで……信じられるものなのか?」
 この時カティスは追いつめられた――責められているような顔をした。その理由をアンナ・リヴィアは何となく察したけれども、だからこそ平淡な口調で告げる。
「あのねカティス。私はカイルワーンがどんな子かを知っている。確かにカイルワーンは素性の知れないところもあるし、かなり突飛な子よ。その言葉の根拠はどこにあるんだって、私だって思った。でもね、カイルワーンが言ったことは嘘だったらあまりにも残酷きわまりないことで、気休めや酔狂で言っていいことではないわ。カイルワーンは、それが判らない子じゃないわよ。だから、信じることにしたの。信じるって、そういうことでしょ? 言葉の真贋とか、常識とかは問題じゃなくて、ただその人物の人となりが信じられるか――それだけじゃないの?」
 カティスは、アンナ・リヴィアの言葉に、胸の奥を抉られたような気がした。
 信じるとは、どういうことなのか――そのことを、カイルワーンと喧嘩別れをしてからずっと、カティスは考え続けてきた。
 その答えをいともたやすく突きつけられて、カティスは返す言葉がない。
「カイルワーンは……俺のいない間、どうしてた?」
「会いにいってきて、自分の目で確かめたら? 私が出る時、家にいたわよ」
 甘えを許さぬ母の言葉に、少しだけためらいがちにカティスは頷いた。再会の時の短さを惜しんで引き止める人の声も聞いたが――それらは主に妙齢の女性のものではあったが、一切無視した。
 今の自分に、それらに構っていられる余裕がなかった。
 呼吸をするのも辛いほど、胸にわだかまる感情は、紛れもなく慙愧の念と自己嫌悪。カイルワーンと別れて以来ずっとあり続けた不快な感情は、一月前にいや増し、ここに至って最高潮に達した気がする。
 耳にあの時のカイルワーンの言葉が、何度も何度も巻き戻っては繰り返し蘇る。
『君なら信じてくれると思った、僕が馬鹿だった』
 その言葉の意味――そしてその裏返し。
 信じてくれた。他の誰でもない、この自分を、カイルワーンは信じてくれたのだ。
 それなのに、自分は、彼を信じてやれなかった。
 その挙句が、あの言葉。
 カイルワーンの怒りは、まったく正当だと、今のカティスは吐き気すらする自己嫌悪を持て余しながら、思う。
 ディリゲントの惨劇を目の当たりにしてから、ずっと考え続けた。あの日カイルワーンが語ったことを――ずっと自分が知りたいと思っていた、カイルワーンの素性のことを。
 未来から過去に来た――それを知った時、カイルワーンは何を思ったんだろう。
 これから起こる全て、己の人生さえも知っている――それはどんな気持ちなんだろう。
 判らない。想像さえできない。けれども、アルベルティーヌの道行で、カイルワーンが語ったことを思いだす。
 一つしか存在しない選択肢と、変わらない運命。
 全て決まっている人生。
 その話の意味を、完全に理解したわけではないけれども、朧気ながら判ることはある。
 本当に、カイルワーンは苦しんでいたのだ。その様を、自分は間近で見ていたのだから。
 それなのに。
 堪えきれず、きりと爪を立てて拳を握れば、見慣れた屋根が見えてくる。
 ためらわなかったわけではない。それでも扉を叩けば、懐かしい声が聞こえる。
「開いてるよ。手が放せないから、入って」
 ぶっきらぼうな声音に、おずおずと立ち入った。書斎の扉を開けた瞬間目が合った。
 書斎の机に向かっていたカイルワーンは、扉の開く音に振り返った。その黒い瞳はカティスの姿を認めると、喧嘩別れをする前と何ら変わらない、小さな笑みを浮かべた。
 かえってそれが、冷たくて怖い、とさえカティスは思う。
「お帰り」
「……ただいま」
 謝らなくては。心は急いてそう告げるのに、その言葉が出てこない。
「よく無事で戻ってこれたね。僕のところにも、興奮して君たちの帰りを伝えにきてくれた人が何人もいるよ」
「……お前が俺に話してくれたから、だから逃げられた。お前が俺に聞かせてくれて、それを他の連中が信じて俺を追い立ててくれたから、だから俺も逃げられた」
 そう。カイルワーンの忠告を信じなかった自分は、あそこで濁流に呑まれるはずだったのに、とカティスは苦々しく心の中で呟く。
 このことが、カティスの自己嫌悪を倍増しにしているのだ。
 カイルワーンのことを信じなかったのが、母も含めて自分一人だったというこの事実が。
 四月十八日――カイルワーンに告げられたその日。この日カティスは当然平静でいられるわけがなく、その不審な様子は、同行の仲間たちに見とがめられることになる。
「カティス、お前何を気にしている?」
 日が暮れようとしている野営地で、高地の方ばかり気にしているカティスに、ブレイリーが話しかけた。
「言いたくないがな、ここのところ――いや、この遠征に来てから、お前は変だぞ」
 ブレイリーの言葉は、今度ばかりは言い逃れを許さないとばかりに、強い。観念してカティスは重い口を開いた。
 語ったことは、さほど多くはない。カイルワーンが今日自分たちが鉄砲水に襲われると言い、そのために遠征の参加を止められたということだけ。カイルワーンが過去から来たと語ったことなど、勿論口にはしなかった。
 そのカティスの未来を、ブレイリーを始め、傭兵仲間たちは黙って聞いていた。誰もが何も言わず、難しい顔で考え込んでいる姿に、カティスはことさらに気楽な口調で言った。
「俺にはとてもそんなことは信じられないが――」
 同意を得たくて口にした言葉は、最後まで告げられなかった。
 最初に動いたのは、ブレイリーだった。自分の半甲冑と炎波剣を手に、己の隊の曹長の元に赴く。何事か語らって、戻ってくるなり言った。
「向こうに人影が見えると理由をつけて、哨戒に出る許可をもらった」
「おい、ブレイリー」
「逃げるぞ」
 ブレイリーの言葉に、カティスを除いた一同に否はなかった。不審に思われない程度に荷物を持ち、高台に登っていく一同に、カティスは取りあえずついていくより他ない。
「ブレイリー、お前、本当にそんな世迷い言を信じるのか?」
「カイルワーンの言うことが真実であるかかどうか、当たるか当たらないかはどうでもいいんだよ。預言なんてそんなもんだろうし、あいつにこれ以上『預言者』という肩書が増えたって、俺はちっとも驚かねえよ」
「ならば、どうして従う?」
「じゃあカティス、俺はお前に聞き返すがな、その言葉を信じないことに、お前にどんな得があるんだ?」
 早足で丘を上りながら、それでもブレイリーは息を乱さずカティスに答えた。
 その答えに、カティスはぐっと詰まる。
「当たっちまったら笑い話にならん。だから取りあえず従っておこうと思う。それだけのことに、どれほどの意地を張る意味があるんだ?」
 あっけらかんと告げられる言葉に、カティスは返す言葉をもたない。
「あのカイルワーンのことだ。どんな突飛なことでも、酔狂としか思えないことでも、信じられないと笑い飛ばすことは、怖くてできないよ」
 ウィミィの言葉は、ある種の信頼を示しているのだ。それがカティスには判った。
 カイルワーンと常識を秤にかければ、彼らにとってはカイルワーンの方が重いのだ。
 だから全員が、カイルワーンの言葉に動いたのだ。
 カティスは胸の奥底に押し込んできた自己嫌悪が、鎌首をもたげて自分に切りつけてくるのを感じ、思いっきり顔をしかめた。
 そんな彼に、ブレイリーは心を見透かすように続ける。
「外れたら外れたでいい。その時はレーゲンスベルグに戻ってから、『なんだ当たらなかったぞ、この野郎』と一発どついて、それで一晩の飲み代を払わせりゃそれでいい。その程度のことじゃないのか? カティス」
「あ、俺はそれより、一晩奴に全部のつまみを作らせる方がいい。俺、帰ったらカイルワーンの作る鶏肉とイモのクリームシチューが食べたい」
 イルゼの言葉に、たちまち同調者が現れる。
「あれはいいよなあ。でも俺はそれよりアイスクリームの方が」
「茸のオムレツも捨てがたい」
「…………お前ら……」
 それでいいのかよ、という一言は口にできなかった。山を登るペースはどんどん早まり、息が上がってくる。一同は野営地を見下ろす高みまで登ってきていた。
 息が、運動のためだけではなく詰まりそうだった。
「ブレイリー……俺は……」
 カティスが言いかけたその瞬間だった。轟音が響きわたったのは。
 それは火縄銃が使う火薬の音を、何百倍にもしたような。
 火薬――爆破――川――堰。連想が一同の脳裏を閃き、それはカイルワーンの告げた言葉の真実を実感させた。
「はしれぇっっっっっ!」
 叫んだのが誰だったのかも覚えていない。それからどれくらいたったのかも。遮二無二駆け続け、力尽きてようよう止まった時、誰からともなくぽつりと呟いた。
 渇ききった、言葉にならないような声で。
「クリームシチューはお流れだな……」
 カティスは眼下に広がる凄惨な光景を見下ろし、その言葉を肯定した。
 慙愧と、自己嫌悪と、ありあまる後悔と共に。
「みんながお前の言葉を信じて、事前に逃げたから――その後俺たちだけがどうして助かったのか、取り繕うのは大変で、そのおかげで戻ってくるのにこんなに時間がかかったけれども、それでもお前のお陰で俺たちは命を拾えた。それなのに、俺は……」
 言葉に詰まった。この一ヶ月、この瞬間のことを――謝罪の言葉をあんなに考え続けてきたというのに、いざとなれば何も頭に浮かばない。
「ああ、カティス。僕の言ったことなら、気にするな」
 そんなカティスの心中を察したのか、それとも違うのか、カイルワーンは言った。
 顔に浮かぶのは、人懐っこい穏やかな笑み。
 己を取り繕う、いつもの嘘の笑み――。
「気違いの言うことを真に受けるだけ、馬鹿を見るぞ」
 その瞬間、カティスは全身から力が抜けていくような錯覚を覚えた。
 わずかな虚勢で、立っているのが精一杯。もう何も言えず、何もできない。
 唇をわななかせ、真っ青な顔で自分を見つめ続けているカティスに、カイルワーンは柔らかな笑顔のままで告げる。
「セプタードが帰還の祝いをするんだって、張り切って準備してるよ。行かなくていいのか? みんな首を長くして待ってるだろう。主役がいつまでもこんなところに油を売っているものじゃないよ」
 穏やかに告げられたこの言葉が、『出ていけ』を意味するのだと、カティスは悟った。それでも何とか意気地を振り絞って、問いかける。
「……お前は?」
「仕事が片づいたらね。みんなによろしく伝えておいてよ」
 さあさあと笑顔で追い出され、扉を閉められて、カティスは所在をなくす。
 力なく壁に寄りかかり、空を仰ぎながらうわ言のようにもらす。
 こんなのない。こんなのない、と。
 詰られるかと思った。それみたことか、と言われるかと思った。僕のことを信じないからだ、と言われるかと思った。それが怖かった。
 けれども、それらの方が、まだましだ。こんな言葉を投げつけられるくらいだったら、罵倒されたあの時の方が、どれほどかましだったろうか。
 触らせてくれない。近寄ることすら許してくれない。穏やかな取り繕った笑顔が、卑屈な言葉で自分を肯定することが、かえって自分が彼に関わろうとする全てを否定する。
 僕に触るな。近寄るな。お前なんか知らない。もう僕に関わるな。
 ことさらに穏やかで丁寧な物腰が、言葉が、かえってそう語る。
 自分の何もかもがもういらないと。謝罪の言葉も、後悔も、自分の気持ちも、何もかも聞きたくなんかないと。
 全身全霊で、自分が拒まれていることが、よく判った。
 やっと信じてもらえたのに。知りたかったことを、ようやく打ち明けてもらえたというのに。
 開いてほしいと願って願って、そして初めて開いた心。自分が無神経に切りつけてしまったそれは、もう二度と開かないんだろうか。
 もう何もかも、取りかえしがつかないんだろうか。
 重い足を引きずって『粉粧楼』に向かえば、そこではすでにどんちゃん騒ぎが始まっている。けれどもその中に加わって浮かれ騒ぐ気力は、今の自分にはなかった。
 どんな酒を口にしても、苦く感じて仕方がない。
「飲んでも飲んでも、うまくない」
 厨房から姿を見せたセプタードに、カティスは唯一愚痴をもらした。そんなカティスにセプタードは呆れたように言った。
「と言いながら、それでも飲むんだから処置なしだな」
 人と話をする気力もないカティスには、飲み続けるほかにできることがない。結果、カティスは生まれて初めて泥酔し、欠かさず続けてきた素振りをさぼった。
 酔いつぶれて家に運ばれたカティスが目を覚ましたのは、昼も過ぎた頃だった。痛む頭を抱え、重苦しい胸を押さえて、それでも意を決して隣家を訪れる。
 鍵はかかっていなかった。だが扉を開けると、そこに立っていたのは意外な人物で。
「おそよう、どら息子」
 掃き掃除をしていたのは、アンナ・リヴィアだった。母の厭味たっぷりの言葉に、カティスは顔をしかめて問いかける。
「……カイルワーンは?」
「しばらく帰ってこないわよ。鍵を預かったから、掃除でもしておこうと思ってね」
 言われた瞬間、血の気が引いた。
「どこに、行くって……」
「さあね。あの子の放浪癖は今に始まったことじゃないし。ただ、開門と同時に出かけたみたいよ」
 息子の心を知ってか知らずか――否、ほとんど察しながらも、わざとアンナ・リヴィアは言う。
 箒に、身を預けながら、実に意地悪く。
「どうする?」

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