それでも朝日は昇る 6章9節

「アイラシェールは、己の運命を変えたいと言った。己の運命を変えるために、歴史を変える――アルバ国民に自分が忌まれる原因となった、『魔女』の呪いを解くのだと。そのために時間を越えて、この時代にやってきた」
 カイルワーンは、カティスに自分の境遇のかなりのところまでを語った後、こう言った。
 自分の仕えた国が、アルバの後の時代の王朝であること。この時代の白子の寵妃が悪事を尽くしたため、白子の女性が忌避されるようになったこと。
 それ故アイラシェールが幽閉され、自分が侍従として遣わされたこと。
 そして国民の彼女への恐れを他国に利用され、王朝が滅び、彼女の家族も彼の家族も皆、殺されたということ。
 勿論、その王朝がカティスが開祖となるロクサーヌ朝であることも、白子の寵妃――魔女が原因でブロードランズ朝が滅ぶことも、まだ明かしていない。巧みにカティスにつながることを回避しながら、カイルワーンの話は進められた。
「『時の鏡』が何だったのか、どうしてアイラシェールと僕が望み通りにこの時代に来れたのかは判らない。けれどもアイラと僕がこの時代に来たことは、歴史を変える行為ではなく、歴史の定めだった。それは僕が『賢者』になってしまった以上、認めざるを得ない」
「というと」
「だって、僕の時代でも、この時代に賢者がいることになっているんだから」
 このカイルワーンの言葉は、カティスには理解不能だった。疑問符を宙に浮かべる彼に、カイルワーンは苦笑して付け加えた。
「賢者が残した業績は、未来の知識やそれまでの歴史をつぶさに知る、未来人の『僕』でなければなしえないものばかりだ。つまりは、賢者カイルワーンは、絶対に1198年生まれの僕なんだよ。そして僕の時代は、その賢者がいることを前提に成り立っている。つまりは、僕の知っている歴史は、大陸暦998年に僕がいることが大前提なんだ。だから逆に言えば、僕が998年に来なければ、賢者カイルワーンは消える。その方が、歴史が変わってしまう。何がどう変わるかは定かじゃないが、少なくとも親父があやかってこの名を僕につけることはなくなるな」
「とすれば、お前がこの時代に来るのは、必然だというのか」
「僕はこの時代に、来なければならなかったんだ。そして、これから二百年すぎたら、また僕は生まれて、またこの時代にやってくるんだろう」
「それじゃあ……終わりってものが」
「ないんだ」
 時間がねじれている。そのことにカイルワーンはカティスに出会って気づかされた。
 一直線であるはずの時間が、998年と1217年の間でねじれて、輪になっている。自分とアイラシェール、そしてそれに関わる人がその時間の中で、ひたすらに同じことをぐるぐる回りながらくり返している。
 自分たちはこの時間を、輪を、一体何度くり返したのだろう。百度か。千度か。
 いやきっと、無限に。
「こうやって考えると、僕が存在していること――僕が生まれて、育って、この大陸暦998年にやってきたということ自体が、歴史は決して変わらないということの証明なのかもしれない。何千度、何万度生まれてきて、同じことをくり返し、それが判っていながらも、この回転を止めることができなかったから、1198年をまた迎えて僕が生まれたんだ。一度だって変えられたのならば、僕は生まれてはこなかっただろう」
 いや、それとも、とカイルワーンは自嘲気味に口許を歪める。
「それどころではなくて、世界全部が壊れてなくなったっておかしくないんだ」
 あまりにも物騒で突拍子もないカイルワーンの言葉に、カティスは唖然として問い返す。
「世界が、壊れる……?」
「実は、歴史を変えるということは、矛盾を起こすということだ。矛盾なく歴史を変えることなんて、僕らの場合に限ればあり得ない。だが時間と世界はその矛盾を呑み込むことができるのか」
 神妙な顔をして、カイルワーンは己の懸念を話す。
「もし仮に、アイラが『魔女の呪い』をなくせたとする。そうすると、アイラは幽閉されることもなく王女として幸福に生きていけるだろう。そうなれば、アイラはこの時代に来ないよ。来る理由も動機もなくなる。でも、アイラが来なければ、誰が歴史を変えるのさ」
 ああ、と要領をつかんだようにカティスは呟いた。カイルワーンが言う『矛盾』――それがようやく呑み込めたが、それは考えれば考えるほどこんがらがりそうな思考だ。
「僕でもいいんだ。僕が歴史を変えられたとしよう。そうなれば僕はアイラの侍従に命じられることもなく、彼女に出会うこともない。彼女に出会わなければ、僕はどうやって彼女を追ってこの時代に来ようなんて気になる。僕が来ない、歴史を変える出来事が起こらない、歴史が変わらない――歴史を変える出来事を起こせば、その出来事を起こすための前提が消滅する。だから何をしても歴史は変わらないと言い切るのは簡単だけれども、起こってしまった出来事は、それを前提として流れた時間は、それじゃあ一体どこに行ってしまうんだろう? あったことがなかったことになる――それってどういうことだ?」
「どういうことだって……俺に聞いて判るか」
「僕にだって判らないよ。このことを考えると、頭が混乱する。ただ言えることは、もし仮に『歴史を変える行動』を僕らが取れたとして、それをするということは、歴史がこんがらがって破綻するということだ。それがどういう結果を引き起こすかなんて判らない。うまく収まってよい方向に僕らの運命が変わるのかもしれないし、僕らの今回の人生はこのままで、ねじれた時間の回転がもう終わりになって、僕らが出会わない別の未来が発生するのかもしれない。何も変わらないのかもしれないし、もしかしたら全てが壊れてしまうのかもしれない。僕が消え、アイラが消え、矛盾に耐えきれず世界までもが消える――そういう可能性だって、ありだ」
 ふう、とカイルワーンは小さくため息をついて、所在なげにサクランボの茎を指で弄ぶ。
「実のところ、破綻への誘惑に駆られなかったわけじゃない。今までの時間の中で、ここでこれをすれば――もしくはしなければ歴史は変わった、という瞬間は幾つかあった。やろうか、と思ったことはなかったわけじゃないよ。全て消えるかもしれないと判っていても――いいや、世界さえ壊しても構わないと」
「カイルワーン……」
「でも駄目なんだ。僕にはできなかった。歴史が変えたくなかったからじゃない。世界を壊すのが怖かったからじゃない。『歴史を変えるためにすること』が、僕にはしたくないことだったんだ。だから、できなかった」
 入城式の時、アルベルティーヌ行きの馬車の中でカイルワーンが語ったことだと、カティスは思い返す。
 カイルワーンが『賢者』と呼ばれる最初のきっかけは、間違いなくシーガルの野菜屋の旦那を助けたことだろう。あれがなければ、カイルワーンはその名をレーゲンスベルグに知らしめることにはならず、隠れて暮らすこともできたのかもしれない。
 けれども彼は、目の前で死んでいこうとする怪我人を見捨てられなかった。
 カイルワーンがフロリックと出会うこと。それに歴史的意味があることはカティスもすんなりと認められる。カイルワーンがフロリックという後援者を得ることで実現できたことは沢山ある。歴史を変えるには、フロリックと誼を得なければよかったのだ。
 けれどカイルワーンは、セプタードを見捨てられなかった。アイラシェールを探すために、フロリックの持つ権力が、人脈が、どうしても必要だった。
 選択肢はない。選べたのは、選べたただ一つだけで、それは歴史の定め。何か一つ己が行動を起こすたび、何か一つ選択を下していくたび、そのことを突きつけられたカイルワーンが何を思ったのか。なぜアルベルティーヌ城門前で泣いたのか。カティスは胸が痛んだ。
 気持ちさえ――思う心さえ、歴史に定められた通りならば、カイルワーンは――否、人間という生き物は、一体何なのだというのだ。
 歴史の繰り人形――カイルワーンが否定しようとした言葉は、カティスも吐き気を催す。
「それでも、全てを投げ出して諦める気はないんだな」
「アイラのことを忘れることができたのならば、どれくらいいいだろう」
 こぼすようにカイルワーンは言った。今までどれほどアイラシェールのために彼が努力してきたか、カティスはよく知っている。だからこそこの言葉は意外で……余計に、その心情は納得がいった。
 切実だからこそ、全てを傾けてきたからこそ、心にきたす疲れ。
「本当はアイラシェールのことを忘れて、賢者様賢者様と僕をありがたがってくれる人に囲まれて、レーゲンスベルグの街でふんぞりかえって生きていくのが、一番いいのかもしれない。アイラのことを諦めて、僕を慕ってくれる可愛い嫁さんでも貰って、平凡に生きていけば、それがいいのかもしれない。でも、駄目なんだ」
 この気持ちこそが歴史の軌道なのだと判っていても、なお捨てきれぬ思いがある。
「これから、どうするつもりだ?」
 漠然としたカティスの問いかけに、カイルワーンは考え込んだ。『運命』の存在を知った上での問いかけなのだから、カティスの真意は単純に一つしかない。
「あがき続けよう、とは思う。たとえそれこそが、歴史の定めであったとしても。それでも全てを諦めて、歴史に抗う意思を捨てることはできない」
 悲愴な表情で、けれども力強い声で答えるカイルワーンに、カティスは小さく頷いた。
「俺に、できることはあるか? 俺に助けられることは、あるか?」
 殊勝な申し出に、カイルワーンは意外な言葉を聞いたとばかりに、珍しく屈託なく笑む。
「なに、それは罪滅ぼしかい?」
「……反省しているんだから、古傷をえぐるな」
 顔を手で押さえてしかめっ面をしたカティスに、カイルワーンは静かに笑って言った。
 遠くを見通す、哀しい笑みを浮かべて。
「君は君であってくれればそれでいい。僕に構わず、僕に気をつかわず、君がしたいように――君の心のままに、道を選んでくれればそれでいい」
「カイル……?」
 それはカイルワーンの、偽らざる本音であり、切なる願いだった。けれどもそれが、決して叶わぬ夢であることも明白で。
 だから。
「時にカティス、一つ君に聞きたいことがあるんだけれども」
「……なんだ?」
「これ、お代わりないの?」
 空のサクランボの袋を逆さにして言うカイルワーンに、カティスは苦虫をかみつぶしたような顔で答えた。
「ねえよ」
 まだ言えない沢山の言葉を胸の奥に押し込んで、カイルワーンは立ち上がる。
「帰ろうか、レーゲンスベルグに」
 カティスは少しだけ微笑むと、頷いて立ち上がった。

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