それでも朝日は昇る 6章12節

 最後の旋律がゆっくりと空気に溶けていく。絃が震える余韻が完全に消えるのを待って、アイラシェールは目を開けた。
 夜会も果てた深夜過ぎ、仄かに明かりが灯された侯妃の寝室には二つの影。
「どう?」
「今日は上出来。間違いもなかったしね」
 寝台に身を預けたアイラシェールは、傍らで採点を待つベリンダにそう言った。師匠の言葉に、リュートを手にしたベリンダはにっこりと笑う。
 アイラシェールが侯妃となって半年。様々なことがあり、最初は何をどうしてよいかも判らなかったが、ようやく最近になって日々の過ごし方も、使用人の配置なども固まってきた。
 侯妃付として何人もの侍女や女官が彼女につき従い、彼女が勢力を増していくにつれその数は増えていったが、やはりその筆頭に数えられるのは、ベリンダとマリーだった。そして二人の女官は、己が領分において、遺憾なく才を発揮していた。
 マリーの領分は、昼であり公だ。近衛騎士団員リワード・ブライアクレフと旧知であった彼女は、フィリスを始めとして他の団員と親交をもつことに抵抗がなかった。
「マリーがまた何かを言いたがっている」
 これはアイラシェールのサロンにおいて、政治や経済の談義が行われている時に、騎士団員たちがよく口にする言葉。アイラシェールは騎士団員たちや貴族の子弟たちが集まる昼の会合には、およそマリーを伴った。
「昨今の物価の高騰は、本当に昨年度の凶作だけが原因なのでしょうか。私には、凶作を建前にした、ある悪意を感じずにはおれません」
「確かにある程度の便乗値上げはあろうな。だがマリー、全ての責任を商人たちに転嫁するのはどうかと思うが」
「エスター卿、この国の経済を牛耳っているのは、一部の商人――ギルドであることはもはや否定できません。その財力、影響力は時に国を動かすことさえある。現実に、銃の生産地をいかに押さえるかが、戦の勝敗を左右していることはご存知でしょう? 私は、国の命運が理想や思想ではなく、利得に左右されている現状は我慢がなりません」
 椅子から立ち上がらんばかりの勢いでエスターに食ってかかるマリーに、アイラシェールは口許に小さな苦笑を浮かべた。
「侯妃、止めなくてよろしいんですか?」
 ためらいがちに問いかけたリワードに、アイラシェールは首を振った。
「私はマリーのこういうところが、決して嫌いではなくてよ。自分の姿を見るようで、恥ずかしい気はするけどね。あなた方も、女だから、侍女だからと彼女を差別するつもりもないでしょ? なら、やらせておきなさい」
 自分と近衛騎士団が接近するきっかけとなった『黒真珠の間』の一件を思い起こせば、アイラシェールとリワードは苦笑するしかない。
 マリーの主張はいつも理想に走りすぎる嫌いはあるが、決して的外れなものではない。いつしか彼女は、アイラシェールのサロンになくてはならない存在になっていた。
 一方ベリンダの領分は、夜であり私だ。基本的にベリンダは、アイラシェールの日常生活の、最も私的な部分を支えるために呼ばれたのであるが、間もなく彼女にはもう一つ有能な才能があることが判った。
 それは、酒席における饗応役だ。
 娼館に籍を置いていたことは当然秘匿されることではあるが、それだけにベリンダはマリーやアイラシェールよりも遥かに人との接し方、あしらい方を身につけていた。話術も巧みで、気のきいたことを言っては場を和ませ、楽しませる。
 そして何より重宝されるのは、その楽才だった。
 アイラシェールから習い続けているリュートはまだまだ彼女の域には達しないが、人前で演奏するにはもう差し支えない技量に達していた。それはめざましい進歩で、師匠であるアイラシェールも舌を巻くところであったが、それ以上に彼女には別の楽才があった。
 少し低めの、朗々とした声。彼女の豊かな声は、詩の詠唱や朗読にも、また歌唱にもうってつけだった。
 アイラシェールは己の主催した夜会で、よく要望されてリュートやバイオリンを弾いたが、その音色に合わせてベリンダには歌を歌わせた。二つの響きは溶け合い、広間に響きわたり、広間の前を通りがかった人々さえ、仕事をやめ、足を止めて聞き入るほどだ。
 その歌声と、異国の血を感じさせる神秘的な容貌に、ちらほら信奉者すら現れていることも、それらをベリンダが戸惑いながらやんわりと袖にし続けていることも、アイラシェールは知っている。
「でも、もうちょっとこなれないとね。緊張してるのは判るけれども、どこか音も指遣いも固いよ」
「アイラの評価がやっぱり一番怖いね。一応あたしも外に出れば、いっぱしのリュート奏者として認められてるっていうのにさ」
「師匠としては、まだまだだと思います」
 ベリンダは、ウェンロック王以外でアイラシェールの寝室に入ることを許されている唯一の存在だ。そして二人は、この寝室においてだけは、昔通りの言葉づかいで話をする。
 普段は侯妃、アレックス様と呼ぶベリンダも、この一時だけはアイラシェール、アイラと呼ぶ。
 それはアイラシェールにとっては、真実かけがえのない時間だ。
「ねえ、ベリンダ」
「なあに?」
「どうして誰の求愛にも答えないの?」
 何でもないことのようにアイラシェールは聞いたが、それは実はかなり意を決したものだった。案の定表情を曇らせるベリンダに、アイラシェールは続ける。
「私はベリンダに、男の人を引きつけるだけの魅力も価値もあると思うのよ。物珍しさや一時の戯れじゃなくて、真剣にベリンダに恋をした人だって、いると思うけれども」
 それとも、とアイラシェールは問いかける。
「誰か、好きな人でもいるの……?」
 ベリンダはリュートを置くと、椅子の上で膝を抱える行儀の悪い姿勢で、アイラシェールに答えた。
「多分あたしは、男が怖いんだと思う」
「ベリンダ?」
「あたしの世界にいる男はみな、客だった。つまりね、あたしの中の男は、金を払ってあたしの体を買いに来る、そんな奴ばっかりだった。だから、怖いんだと思う」
 ベリンダの言葉に、アイラシェールは言葉をなくした。そんな彼女に、ベリンダはやんわりと笑う。
「勿論、頭では判っているんだよ。世の中の男がみなそんな訳じゃない。でも、駄目なんだ。この思いは多分、理屈じゃなくて、体に――肌にしみこんでしまっているんだろうね」
 いつか、と寂しそうにベリンダは笑って言った。
「あたしの過去も全部知って、それでもあたしを好きになってくれる人が――あたしが全てを捨てても好きになってほしいと思える、そんな人に巡り合えるといいんだけれどもね」
「今までの誰も、そんな人にはなれなかったんだ……」
 微かな沈黙が寂しくアイラシェールの言葉を肯定した。
「どうして、こんなことを聞くの? アイラ」
 責める風でもなく問いかけるベリンダに、アイラシェールは枕を抱えて答えた。
「私、ベリンダには幸せになってほしい。本当にそう思うの」
 力なくささやかれる言葉。
「ベリンダがいてくれて本当に助かってる。ベリンダがこうして、ここでアイラって呼んでくれるから、私は自分がアイラシェールであることを覚えていられる。そんな気がするの。だけど、だからこそ、私はベリンダを巻き込んじゃいけないって、そう思う」
 目の前に運命がわだかまる。破滅の、無残な運命が。
 もしも運命が変えることが叶わなければ――できるだけ考えないようにしている仮定を、アイラシェールは当然のように思う。もしかしたら、歴史は決して変えることができないものかもしれないと、そんな絶望も心にきたす。
 けれども、その破滅の時、ベリンダは――この親友は、どうなる?
「ベリンダは、自分で選んでここに来たんだって言ってくれる。そのことは、とっても嬉しい。いなくなることなんて、本当は考えたくもないの。でも、私の立場も何もかも、本当に危うくて、坂を転がり落ちたらどこまでも落ちていくものだということも、判っているの。それにあなたを、巻き込みたくない」
「じゃあアイラに逆に聞くけれども、ここで男の人を捕まえて、運よく奥方に収まって宮廷を辞することが、幸せなの?」
責める風は決してなかったけれども、ベリンダの言葉はアイラシェールの胸に刺さった。
「ベリンダ……」
「責めてるんじゃない。これはあたしの、本当に単純な疑問よ。でもアイラ――幸せって、何なんだろう?」
 惑うように、悩むように――本当に判らないといった風に、ベリンダは問いかける。
「アイラは女官から侯妃になった。傍から見ればとんでもない成り上がりよ。羨む人は、五万といるでしょう。でも本当に、アイラにとって、これが幸せ?」
「それは……」
「あたしにとっての幸せが何なのか、あたしには正直判らない。そりゃあ確かに、飢えることもない、将来に不安がないことは、本当に大きなことよ。軽んじていいことじゃない。でも、それだけが、本当に幸せなの? それが全てに優先するの?」
 自分にとっての幸せは――アイラシェールがそう考えれば、目の前をよぎってくるのは、カイルワーンの手を振りきった、シャンビランでのあの一瞬のこと。
 その時の自分の思い。
 運命を変えたいと思った。その願いのために、何もかも――一番大切な人さえ捨てた。
 ならば、運命を変えることが、己の幸せなのだろうか?
「悩ませてごめんね。明日も忙しいんだから、ゆっくりお休み」
 そう言い残し、額に口づけて、ベリンダは寝室を出ていった。
 残されたアイラシェールはベッドにもぐり込みながら、なおも脳裏にベリンダの言葉が回る。
 幸せって、一体何なんだろう――?
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