それでも朝日は昇る 6章13節

 アルバ宮廷の――特に後宮の目覚めは遅い。夜会が遅い時間まで繰り広げられ、就寝が時に明け方近くになるのだから当然のことであるが、この後宮で今一、二を争おうかという権勢を誇る女性が、意外なほど早起きであることを知る人は少ない。
 貴婦人は、音をたてぬように重いドアを押し開け、室内に滑り込んできた。
「おはよう」
「……アレックス侯妃殿下、またこのようなところにお独りで」
 アルベルティーヌ城王宮図書館の司書は、明かさず通ってくる貴人に少しだけ眉をひそめた。
「仕方ないではないですか。図書館の本には鎖がついているのだから、本を読みたいと思ったらここに来なくてはならないではないの」
「侯妃のご希望とあらば、このような鎖など、いつでもお取り外しいたしますのに」
 ため息まじりに言う司書に、アイラシェールは小さく苦笑して答える。
「ここの書物は、王家の財産よ。それをみだりに占有することなど、許されることではないでしょう。違って?」
「……はあ」
 この時代、書物は安価なものではない。人の手によって一言一句まで書き写された写本であり、その労力に見合うだけの価格がつけられる。よってそれらの書物を収める図書館も盗難を恐れて、書面台や棚に一冊一冊鎖で本をつないでいる。
 つまりその本は、その場でしか読むことができないのだ。
 この鎖が外されるようになったのは、アイラシェールたちの時代に近くなってからだ。活版印刷技術が普及し、書物が安価になって初めて、図書館は人を限定しているとはいえ、館外持ち出しを認めるようになったのだ。
司書はいいというが、アイラシェールは自分の身分を嵩にきて規則を曲げさせたくはなかった。だから人目のあまりないこの時刻を選んでは、図書館に通ってきている。
 アイラシェールは窓際の書面台に座り、ページを繰る。以前来た時から読みかけの一冊は、彼女の時代には書名だけを残し、失われてしまった哲学書。
 この図書館には、彼女が以前――『赤の塔』にいた頃から、読みたいと切望していた書物の宝庫だった。
『見つからないんだ』
 不意に耳に言葉が蘇る。それは何歳の時だったろうか。王立学院の図書館から戻ってきたカイルワーンは、抱えていた山のような本を置いて、自分にそう言った。その情景を、アイラシェールは思い出す。
『目録には記載があったんだけどね。司書さんたちに手伝ってもらったけれども、どこかに紛れたか盗られたか』
『そう……』
 それは彼女が、カイルワーンにぜひ借りてきてほしいと頼んでいた本だった。
 王立学院の図書館は、今自分がいるこの図書館よりも、遥かに広かったのだろう。その書架の中で紛れたとしたら、発見するには相当の労力が必要だろう。
『だけど代わりに、こんなものを見つけてきた。アイラは好きそうだと思ってね』
 カイルワーンは本の山の中から、紺色の背の本を抜き出すと、アイラシェールに手渡す。開いてみると、中は極彩色があふれていた。色とりどりの蝶が、美しい羽を広げている。
『うわぁ……』
『最近出た図鑑だってさ。気に入ってくれた?』
『ありがとう、カイル』
 喜んで礼を述べ、だが胸に寂しさが下りた。
『いつもありがとう。でも私……一度でいいから、自分で図書館に行ってみたいな。カイルが持ってきてくれる本はいつも間違いなけれども、でも、一度でいいから自分の目で確かめて選んでみたい』
『アイラ……』
『オフェリア姉様が言ってくれたの。姉様はいずれ、女王か王妃になられる。その時が来たら、決して私をこのままにはしないって。時間はかかるかもしれないけれども、必ず臣下たちに、国民に納得させて、私をここから出してくれるって。そう約束してくれたの』
 告げたアイラシェールを、カイルワーンは静かな眼差しで見つめ続ける。
『その時が来たら、私――』
『そうなったら、僕は、お払い箱だな』
 小さく告げた言葉。笑みさえ口許に浮かべるカイルワーンに、一瞬アイラシェールは言葉をなくした。
 彼の言葉の意味が、判らなかった。
 がくん、という音がして、アイラシェールは我に返った。書面台に乗せていた手が――震える手が、平衡を失って机からずり落ちていた。
 どうして今、こんなことを思い出した?
 どうして今まで、こんなことを忘れていられた?
 記憶がどんどん情景を手繰りだす。
 幼い自分が泣いていた。『赤の塔』の子供部屋。そこには泣きじゃくる自分と、気づかわしそうに自分たちを見下ろすコーネリアと、同じ目線で自分を見つめるカイルワーンがいた。
 あれは確か、自分が十くらいの時だ。
『カイルワーンは私の友達でしょ? どうしてそんな冷たいこと言うの? 私とカイルの、何が違うっていうの!』
 泣き声が、震える叫びをつづる。
『カイルは侍従なんかじゃない。そうでしょ?』
『アイラ、僕は本当なら、君の侍従になんてなれる身分じゃないんだ。そのことを忘れちゃいけない』
 それは突き放した言葉。告げたカイルワーンの顔に、表情はない。
 ただ固く、冷たく――だがそれが、彼の苦吟を表していたことに、その時は気づかず。
 私は――アイラシェールは小さく呟く。
 私はもしかしたら、とても大切なことから目をそらしていたのではないだろうか。
 歴史を変えたいと願った。自分の運命を変えたいと願った。それは決して嘘ではない。
 そうすれば、誰もが幸せになれると思った。
 だけど、昨晩ベリンダは言った。
 幸せって、一体なんだろう、と。その言葉が、アイラシェールの脳裏を回る。
 自分の、そして何より、カイルワーンの幸せとは、一体なんだったのだろう。
 それは本当に、歴史を変えれば、叶うのだろうか――?

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