それでも朝日は昇る 7章5節

 ウェンロック王暗殺未遂事件を受けて走り続けた一日は、まだ終わってはいなかった。
 午後六時、疲れきったアイラシェールが夜会への出席を断り、自室で休んでいた時。訪問客の応対に出たマリーが、ひどく深刻な表情で告げた。
「時間の余裕があれば、面会したいという申し出なのですが」
「……誰?」
 マリーの表情にただならぬものを感じて問いかけるアイラシェールに、ぶつけられたのはあまりにも意外な返答。
「エヴァリン公妃の侍女でした。公妃自ら、お見えになりたいとのことです」
 その返答に、アイラシェールは音をたてて安楽椅子から体を起こした。傍らに控えていたベリンダも、動揺した表情でマリーを見やる。
「昨日の今日です。何を企んでいるのか判りません。お断りいたしましょうか」
 硬い表情で問うマリーに、アイラシェールはしばし迷った。
 ソムブレイル子爵の犯行が、フィリスに唆されてのことだったことは自分のサロンに出入りする者たち――特に近衛の面々しか知らないことだ。しかし、自分ですら不審に思ったことを、子爵の一番近くにいるエヴァリン公妃が不審に思わないはずがない。
 身の危険は感じなくはない。しかし、呼び寄せられたのならばまだしも、自分より位の高い公妃が自ら訪ねてくるというものを、無下に断ることなどできない。
「承知いたしました、とお伝えしなさい。お互い準備もあることだし、一時間後ということでどうかと」
「……判りました」
 午後七時。エヴァリン公妃は侍女をただ一人だけ連れ、現れた。それは公妃の位を戴くものとしては、あまりにも不用心で、そしてあってはならないことだ。
「ご機嫌よう、アレックス侯妃」
 エヴァリン公妃は全身に黒をまとっていた。ドレスは喪服の型ではなかったし、ベールをかぶっていたわけではなかったが、アクセサリーは全て黒玉で、それは彼女の明確な喪の意思を示していた。
「ご機嫌麗しく存じます、エヴァリン公妃」
 エヴァリンに椅子を勧めて、アイラシェールは向かいに置いた己の椅子に腰をかける。二つの椅子の間は十分に開けられ、立ち上がって三歩は歩かなければお互いに届かない。
 その微妙な距離。
「お供の方はどうされました?」
「次の間に控えさせてあります。私は侯妃と個人的な語らいを持つためにここに来たのであって、私は私の侍女にそこに立ち入ってほしくはないのです」
 エヴァリン公妃の言葉に、アイラシェールは瞬間考え込んだ。それは賭でもあるが、立場上も礼儀上も切り出さないわけにはいかない。
「私の侍女たちも下がらせましょうか」
 部屋にはマリーとベリンダがいた。彼らを見やり、公妃は仄かに笑う。
「結構よ。貴女には貴女の事情がおありでしょうし、非力である女が集まって何ができるわけでもないし」
 それは皮肉であり、一種の脅しでもあった。マリーとベリンダはお互いの顔を一瞬見交わし、だがお互いにも公妃にも何も言わず、ただそこに控え続けた。
「アレックス侯妃、お互い時間のある身ではないのだから、率直に申し上げましょう。今回のソムブレイル子爵の事件で、ラディアンス伯爵派はかなりの力を失うでしょう。伯爵ご自身がどこまで事件に関与していたのか、それは私ですら知るよしもないことですか、貴女がたが伯爵を共犯者として罪に問うことも、また伯爵が全く無関係としらを切り通すこともできることではありません」
「……はい」
「派閥が解消、離散するのか、踏みとどまれるかは伯爵の力量次第、というところでしょうが、全く以前と同じ勢力を保持していけるとは到底思えません。宮廷の趨勢は、今回の一件で一気に貴女がたに傾くでしょう」
 エヴァリン公妃は、自分が関わっているにしてはあまりにも冷静な分析を、淡々と告げた。それは居合わせた者全てを困惑させた。
「ところで、私は貴女のことを、結構な野心家だと理解しております。貴女の主張が正義であったとしても、慈悲であったとしても、己の主張を通し実現しようとすること、それがすなわち野心なのです。違いますか?」
「……いいえ」
「フレンシャム派とフェリシア公妃がこれからどう出るかは、私の与り知るところではありませんが、それでもこの宮廷闘争の最終的な勝者はおそらく貴女でしょう。私は昨日の一報を受けて、そう思いました」
 アイラシェールは何も答えられなかった。エヴァリン公妃が一体何を考えて、こんなことを言っているのかがさっぱり判らなかった。
「ですが、この宮廷闘争に勝ち抜くこと。それがすなわち人生の勝ちなのでしょうか? 貴女は自分の人生に、本当に勝ったと胸を張ることができるのですか?」
 だが彼女のこの一言が胸を刺し、アイラシェールはおずおずと問いかける。
「エヴァリン公妃、貴女は何を……」
「昨日からずっと、考え続けていました。自分と、子爵と、王とこの宮廷のことを」
 公妃は仇とも言うべきアイラシェールを見た。だがその目にあるのは、怒りではなく、そのことがアイラシェールにはとても不思議だった。
「ソムブレイル子爵と私の関係は宮廷の誰もが噂する通りのものであるし、彼の死は確かに悲しかった。けれども、その経緯を聞いた時、私は自分の中に悲しみとは別に、もう一つ正反対の感情があることに気づいたのです」
 公妃は笑った。泣き笑いじみてはいたが、その笑みには迷いも曇りもない。
「私、嬉しかったのです」
「うれ、しい……?」
 この時、居合わせた者たちはみな、己の耳を疑った。
 公妃の言葉が、とても信じられなかった。
「あの人は私のために陛下を憎んでくださり、私のために己の立場や未来もなげうって陛下に剣を向けてくれたのです。そのために迎えたこの無残な結末は、勿論受け入れがたく、耐えがたいものですが、それでもあの人がそれほどの気持ちを私に示してくれたことは、嬉しくないことであるはずがないのです」
 この言葉に、三人の表情が変わった。全てを理解できたわけではない。しかし、彼女が告げようとしていることが何となく察せられ、それは姿勢を改めずにはいられないものだ。
 これは命まで賭けた恋の話だ。
「私たちは陛下の寵妃と呼ばれていますが、その現実は後宮という体裁を整えるための頭数揃えにすぎません。これが陛下の心の慰めのため、理解者を得るため女性が傍らに必要だということだったのなら、この後宮にも多少の意味があったのでしょうが、残念ながらその陛下ご自身が女性を性交渉の相手、子供を産むための存在としか見ておられません」
「私も、そう思います」
「そんないびつな後宮に私たちがあり続け、覇を競わなければならないのは政治的な理由です。私たちが覇を競う背後に諸侯がいるのではなく、諸侯たちの争いのために私たちが王の近くに送り込まれたわけです。私も貴女もフェリシアも、結局は諸侯たちの政治の道具でしかない」
「……はい」
 アイラシェールは深々と、心から同意の声を上げる。
「その中で私たちは多くの男性と知り合い、騎士の礼を捧げられます。愛の言葉さえ投げられることもあるでしょう。けれどもその愛の言葉が、純粋に真実であると信じることはできません。騎士が女性に仕えるのは宮廷の倣いですが、その時誰を選ぶのかはこの宮廷においては、政治的な選択です。私の騎士になるということは、ラディアンス伯爵の派閥に加わるということ。逆もまたしかり、例外はありません。この状況下では、その騎士の礼が私個人を選んで捧げられたものなのか、ラディアンス伯の派閥に加わるための儀礼なのか、どうやって判断したらいいというのでしょう」
 小さくため息をついて、公妃は続けた。
「そして子爵です。子爵は私に愛を語り、私をほしいと言ってくださった。私も彼を信じ、愛しましたが、それでもなお私の心には疑念がありました。彼の語る愛は、誠実は、本当に私のためなのか、ソムブレイル子爵家がラディアンス派の中で重きをなしていくためなのか、正直判らなかった」
 彼女の語る言葉は、アイラシェールにとっても重かった。
 愛の言葉さえ裏を読まずにはいられないほど、ここは利害と打算がもつれ合っている。
「そして貴女もお判りでしょう。所詮私たちは、秘された愛人にしかなれない女です。私は陛下の寵妃で、形だけでも妻です。たとえ陛下がお亡くなりあそばしても、誰かの元に嫁ぐことなどできません。そして彼はソムブレイル子爵家を背負って立つ人でした。亡くなるまで結局独り身でしたが、いずれは奥方を迎える。彼は私以外の人間を妻に迎え、その人との間に子どもを残さなければならない。私は彼と逢瀬を重ねながらも、心のどこかで思っていました。しょせん遊びでしか終われないのならば、どうして彼は愛を語るのかと。その愛は真実なのかと。そうずっと思っていました」
 声が、膝の上で組まれた指が震えていた。うつむいた相貌は血の気がなく、今にも消えていきそうな危うげな気配を漂わせていた。
「たとえ陛下がお亡くなりあそばしても、私たちの恋は成就することなどないのです。それなのになぜ、あの人は陛下を弑そうとしたのか。確かにラディアンス派もフレンシャム派も、陛下に早くご逝去遊ばしてほしいというのが本音でしょう。ですが、大逆は最も重い罪、露顕すれば破滅です。そのことが判らない人ではないはずなのに、どうしてあの人は自ら剣を握ったのでしょうか。故人の気持ちを確かめる術はありませんが、私は思うことにしました。あの人は自らの手でそうせずにはいられないほど、陛下を――私たちのどうすることもできない運命を、憎んでおられたのだと」
 語る公妃は泣き笑いを浮かべていた。その彼女に、アイラシェールは語る言葉の一切を持たない。
「もし私が王の寵妃でなかったら、もし彼が子爵の責任を負っていなかったら――そう考えるのは、詮のないことです。そうでなかったら私たちは出会うこともなかったのですから。人間は、出会えた相手としか恋をすることはできません。ですが、伯爵家の係累である私は生まれた時からこの後宮入りを定められていたし、彼は後の子爵として生まれてきました。そう生まれついた私たちには、恋を貫こうとすれば破滅しかなかったのです。そして与えられた責務を果たそうとすれば、破滅など選べるはずなどなかった。それなのに、あの人は己の責務も未来も何もかも投げうって、破滅を選んだのです。……嬉しかった」
 公妃は顔を上げ、真っ直ぐにアイラシェールを見た。鳶色の瞳は涙に濡れていたが、覚悟を決めたように凛としていた。
「私はこの宮廷から破れ去っていく者です。ですが、己の人生に敗れたとは思いません。何一つ自分の思い通りにならぬこの人生の中で、私は一人の男性と出会い、これほどの思いを捧げてもらえたのですから。たとえその結末が悲劇であったとしても、二人で添い遂げていくことができなくても、それが不幸だと決めつけることは、誰にもできないことではないですか」
「エヴァリン公妃……貴女は、いかれるのですね」
「子爵があれだけの心を示してくださったのです。私はそれに報い、応えなくてはなりません」
 きっぱりと言うエヴァリン公妃に、アイラシェールは小さく頭を下げた。
 覚悟を決めた者に、他に何が言えるだろうか。そしてできるだろうか。
「アレックス侯妃、貴女はその野心を叶えるでしょう。この傾く国をその叡知と先を見通す目で救い、救国の聖女と讃えられるかもしれません。でも、貴女の人生はそれで『勝ち』なのですか? それで貴女は本当に、己の人生が幸せだったと、胸を張って死んでいくことができるのですか?」
 問いかけに、アイラシェールは瞑目した。
 それは実際には長い時間ではなかっただろう。だが居合わせた者たちにはずいぶんと長く感じられるほどの沈黙の時間の後、彼女は答えた。
「……判りません」
 それは国と己を知る彼女でさえも――彼女だからこその、正直な答えだった。
「もう貴女にお目にかかることもないでしょう。ですがどうか、私のことを覚えておいてください。何一つ選ぶことのできない人生に逆らって、こんな選択を下した女もいたのだということを。そして私とは違う道を選んでいく貴女と、私と、そのどちらが正しいのかなんて」
 晴れやかに、エヴァリン公妃は笑った。
「何が正しいのかなんて、誰にも判りはしないのだということを」
 かたん、と扉が閉まる音を聞き遂げて、アイラシェールは姿勢を崩し、椅子に身を沈めた。緊張を解いた三人の女性は、それぞれ大きく息を吐く。
「思いがけないことをおっしゃいましたね、侯妃」
 グラスに水を注いで差し出しながら、ベリンダは言う。一方マリーは、懐から取り出した物を弄びながら、不満げに言った。
「てっきり敵討ちにやってきたものだとばかり思っていたのに」
「マリー、それは……」
 彼女が手にしていたのは、鞘に収められた懐剣だった。
「もし公妃が襲いかかってきたら、これで刺し返してやろうと思っていたのに」
「それこそ、向こうの思うつぼでしょ」
「侯妃、それは――」
「あの人、死ぬ気だわ」
 彼女は己の死によって、定められた己の人生に反旗を翻すつもりなのだ。
 そしてそれを止めることは、もはや誰にもできない。
「自分を餌にして、私たちを罪へと陥れられればそれもよしと思って来られたのでしょう。どうあれ私たちは、あの人が憎むに値する存在なのだから」
 だが、彼女はここでは死ねなかった。だとすれば、その死を復讐に使うとすれば、彼女はどう出る?
 答えはただ一つしかなく、それはアイラシェールを暗澹たる気分させた。
 おそらく彼女はあの方の目の前で、笑って死んでいくのだろう。
「……本当に、人生の『勝ち』とは一体なんでしょうね。判らないわ」
 彼女が告げたことを、負け惜しみだと受けることは簡単だ。しかし――。
「……どうしてこの世に生まれてくる全ての人間は、自由では、平等ではないんだろう。人である、ただそのことは誰であっても変わりはないはずなのに、どうして生まれ落ちた瞬間にすでに定められたことがあるんだろう」
 疲れたようにアイラシェールは呟いた。冷えた水が、渇いて粘つく口を潤し、胸の奥に落ちてじんと染みる。
「身分、貧富、国籍、容姿――上ならばいいというものでも、恵まれているわけでもない。上には上なりの、下には下なりの苦しみがあって、変えられない定めがある。同じ人間から生まれた同じ生き物なのに、何が違うって言うんだろう。どうして許されないものがこの世にはあるんだろう」
 胸に去来するのは、一人の影。
 エヴァリン公妃の話を聞いて、彼女とソムブレイル子爵の物語を聞いて、アイラシェールはようやく一つのことが腑に落ちたのだ。
 沢山の言葉の裏にあった、その思い。今まで自分が見ようとしなかった、その思い。
「平等なんて、所詮はこの世には存在しない、青い薔薇なのかもしれない。誰もが夢見て、夢見るだけのそんな青い薔薇みたいなものなのかもしれない。だけど私……」
 椅子に身を預け、片手で目を押さえ、疲れた声で呟くアイラシェールを、二人の侍女が見下ろした。
 主の言葉の真意を、量ることなどできない。しかし二人のそれぞれの口にできなかった問いは、その言葉と共に、いつまでも胸の中にあり続けた。
 彼女たちの運命と共に。

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