それでも朝日は昇る 7章6節

 あまりにも沢山のことが起こりすぎた一日も終わった。疲れきっているはずなのに、寝床にもぐり込んだアイラシェールの下に、眠気はちっとも訪れてはくれなかった。
「……アイラ、眠れないの?」
 何度目かの寝返りを打った時に、ノックの音とともに微かな声が響いた。気配を感じて起き出してきたのであろうベリンダは、小さな盆にグラスを載せて現れた。
「サクランボ酒を持ってきたんだけど、どう?」
 この甘い酒はアイラシェールの気に入りで、ベリンダの心遣いを彼女はとても嬉しく思った。寝台から身を起こし、グラスを口に運ぶ彼女に、向けられた問い。
「公妃のことが気になってる?」
「うん。でも、考えていたのは自分のこと。自分と、とっても好きだった人のこと」
 この言葉に、ベリンダは切なげに目を細めた。それは彼女が、今まで知りたくて、聞きたくて、でも聞けなかったこと。
「私と彼は一緒に分け隔てなく育てられて、差なんてないと思ってた。でもそれは、上から見下ろしていた私の見方であって、下から見上げていた彼が同じように思っていたとは限らない。そのことに、やっと気がついたの」
 きっとそれは、本当は自分にも判っていたに違いない。だが受け入れたくないから、ずっと見ないようにしていたこと。考えようとしなかったこと。
 十四年の歳月の間、カイルワーンが残した幾つもの謎の言葉。謎の行動。その心理の扉は、たった一つの鍵で簡単に開いた。
 その答えは、身分。
「私は王女で、彼は平民。本来であれば言葉を交わすことさえ許されない立場だってことを、彼が考えなかったはずがない。そして、どんなに分かり合ったとしても、どんなに愛し合ったとしても、その恋が叶うことはないってことも」
 アイラシェールの告白に、ベリンダは心の半分で驚いて、半分で納得した。
 高貴な身分だろうとは思っていたが、まさか王女だったとは――とは思うものの、彼女ならば一国の王女であったとしても、何の不思議もないとも思う。
「王女様、だったんだ……」
「今はもうない国だし、この容姿のせいでちっとも王女らしい育てられ方はしなかったけれども、でも私と彼が、本質的に身分違いだってことは、決して変わらなかった」
 脳裏をよぎるのは、二人でまだいられた、遠い昔のこと。
『僕と親父は身分的には平民だ。ま、大雑把にくくってしまえるのならばね』
 年はカイルワーンが十三、四、自分が十一、二の頃。何かの折に聞いたことがあった。
 確か話のきっかけは、リメンブランス博士の経歴だったはずだ。
『大雑把って、それは……?』
『平民にも、色々な立場や階層の人間がいる。親父はその中でも、貧民階級の出だよ。隷属階級ではなかっただけで、社会の最下層に属していた人間だ。あの人の恐るべきところは、そこから這い上がってきたことだ。そのことに関してだけは、本当に敬服に値する』
 今思えば、カイルワーンが自分の親のこと、家庭環境のこと――自分に関わることを話すことは、ほとんどなかった。
 それでも態度から、言葉ぶりから、薄々察したこともある。それはカイルワーンとその父親である博士が、決して仲のいい親子ではなかったということだ。
 自分は血のつながった親子というものを、この二人でしか見たことがなかったので、一般的な父と息子がどのような関わり合い方をするのかは知らない。しかし彼が母親がわりのコーネリアと接する時の態度と、博士に対する態度とはあまりに差があった。血のつながっていないコーネリアとの方が、よほど親密で打ち解けているように思えた。
 彼が博士に敬意をもって接していたのは確かだが、それは父親というよりは師に対してという感じであり、二人の間には歴然と壁があるのが見て取れた。
『親父は生まれつき、とんでもない計算力と記憶力の持ち主だった。学校になんか通える家じゃなかったけれども、それでも諦められなくて家事手伝いの合間に学校に通いつめて、窓の外から授業を眺め続けていたらしい。そんな様を教師が見かねて、色々と話をしているうちに才能を見いだされて、教師たちの個人的な援助で学校に通えるようになって、そこから特例に特例を重ねて王立学院の教授にまで登り詰めたわけだ』
『凄い……』
『あの人が学者馬鹿なのは、確かに性格もあるだろうけれども、そればかりじゃない。あの人は、結果を出さなければならなかったんだ。原則的に貴族の子弟や富裕階級の人間しか入れない王立学院に入るのにも、そこで教鞭を取るのも、親父に限った特例だった。特例を認めさせるには、他人とは比較にならないほどの成績を、結果を出さなければならない。だからあの人は、手を抜くことなんてできない。努力することなんて、当たり前なんだ。あの人は確かに天才だけど、それ以上に呆れ返るほどの努力家だよ。それほどのことをしているんだから、その片手間で家庭まで持とうというのがそもそも間違ってるんだ。それは人間の容量を明らかに越えてる』
 苦々しく呟くカイルワーンの言葉の意味が、判らなかった。
『え……?』
『親父の結婚は、そもそも間違ってたんだ。自分のことだけで手一杯の人間が、女房もらって子ども作ったことがそもそも間違いで、だからこんな事態を背負いこむことになる。……それでも自分の研究時間をつぶして、こうしてここに通ってくるのは、アイラのことが可愛いと思っているからなんだろうかね』
 自分に聞かせるためというよりは、独り言に近かったカイルワーンの言葉はまったく理解できず、目を白黒させる自分に、彼はともかく、と言った。
『親父の常人離れした努力のおかげで僕は陛下の目に留まって、ここに来ることになったけれども、だからといって正式に侍従の身分をもらったわけでもないし、まして宮廷に何の関わりを得る権利もない。まあ親父のコネで学院に入って博士の道を選ぶことはできるかもしれないけれども、僕にできるのはそれくらいかな』
 ことさらにカイルワーンは明るく言って見せた。けれどもその口調にも、表情にも、どこか寂しそうな気配があって、自分はひどく胸騒ぎがしたものだった。
 今なら判る。あの時の――いや、常にカイルワーンが、何を考えていたのか。
 それはきっと、あの塔での生活が終わりを告げた時、己がどうなるのか。
「私はこの容姿のために忌むものとされて、王宮の外れに隠されて育てられたけれども、その生活が未来永劫続けられるものじゃないことは、私にも、侍従だった彼にも判っていた。道は二つしかない。王宮から逃げ、国からも逃げるか、国民を説き伏せて恐れを取り除き、私が王女として名乗りを上げるか。でもそのどちらの道を選んでも、私たちには未来がなかった。そのことを、彼は判っていたんだわ」
 現実に『赤の塔』での生活は、最悪の形で終わりを告げた。己に関わった人々のことごとくが死に、自分たちは追われる身の上となった。そして迎えたこの結末。
 しかし、もしオフェリアが以前告げたように、アイラシェールが王女として王宮に戻ることができたとして、その時カイルワーンはどうなっただろうか。
 侍従の職を解かれたカイルワーンは、王宮を去らなければならない。無論、これまでの働きに対しての褒賞は与えられるだろうし、王の覚えもあるから、生活に困ることもないだろうし、出世だってできるだろう。けれども貴族ではない彼が、アイラシェールのいる世界に足を踏み入れることはない。
 どうしてカイルワーンがあんなにもダンスを嫌ったのか、その理由がアイラシェールには朧気ながら察せられた。
 社交界に加わることの許されないカイルワーンにとって、ダンスは不要だ。しかし、アイラシェールはいつかその時が来るかもしれないから必要。それはお互いの立場の違いを――身分の違いを、明確に彼に突きつけた。
 ダンスの練習につきあうごと、カイルワーンは身分の違いを、自分たちの関係の終わりの可能性を突きつけられていたのだ。できる限り考えたくないことを、目をそらしていたいことを認識させられることを、彼が嫌がったのは当然だった。
 その日が来れば、もう二度と会うこともない。言葉も交わすこともできない。王女殿下と呼び、恭しく跪かなければならない自分の立場を、その未来を、ずっとカイルワーンは考え続けながら暮らしていたのだ。
 そのことを、今やっと自覚した。
 自分がどうして過去に来たのか――アイラシェールはこれまで、あの一瞬の衝動の意味を何度も考えてきた。
 それは決して自分のためではなかった。己のために、己の運命を変えたいと告げたその言葉も決して嘘ではないが、一番の理由は。
「私、あの人を自由にしたかったの」
 本音はアイラシェールの目尻に涙をにじませる。
「私が亡国の魔女の生まれ変わりとして、国民に憎まれ、追われることも耐えがたかったけれども、それ以上にその私の運命に、あの人を巻き込みたくなかった。だからあの人の手を振り切って、独りで逃げてこの国に来て、その過程でベリンダたちに出会った」
「そう、だったの……」
「あの人は――カイルワーンは、私がいなければまともな人生が送れた。医術の心得もあるし、賢者の再来とさえ呼ばれた博士の息子として、国一番の学者だって目指せた。国が滅んで、自国での仕官の道はなくなったけれども、あれだけの学才を持った人だもの、他の国でも医者としてでも学者としてでも十分やっていけたはず。誰に後ろ指さされることも、誰に罵られることもなく、可愛い奥さんをもらって平穏で幸福な一生が歩めたはず。私さえいなくなれば、あの人は幸せになれるんだって、そう思って……だけど」
 叶わぬ恋を貫くために、破滅を選んだ恋人。そのことを嬉しいと言ったエヴァリン公妃。その物語を聞いた時に、馬鹿なと思いながらも、心の奥底は叫んでいた。
 羨ましい、と。
 なんて羨ましいと。
「私は望み通り、あの人の前から消えられた。もしかしたらまだ、あの人は私のために追われているかもしれない。でも、私を連れるよりはずっと身軽になって逃げやすいし、きっと何とかなって無事に暮らしてくれてると信じてる。全て望み通りなのに……どうしてこんなに辛いの」
「アイラ……」
「私の姿を見ても、恐れたり憎んだりする人のいないこの国に来て、侯妃なんて身分になって、沢山の人に囲まれて、その中には愛を語ってくれる人だっているのに、どうしてあの人でないと駄目なの。どうしてカイルワーンのことを思うことが、こんなに苦しいの」
 何が不満なのか。何が足りないのか。自分に何度問いかけたか。
 贅沢者と己を叱咤した。けれども、寂しさは、恋しさは決して埋まらない。
「この地上に、二人で生きていける場所はどこにもなかった。私が王女である以上、許されれば身分が立ちはだかり、追われれば王女であるだけに、どこの国に行っても狙われる。私たちには、諦めて別れるか、共に破滅を選ぶかしかなかった。だから私は別れることを選んで……だけど、エヴァリン公妃の話を聞いて思った。なんて、なんて羨ましいと」
 愛しい人に幸せな一生を歩んでほしい、その願いは決して嘘ではない。
 けれども同時に思う心がある。
 愛しい人が、己のために命を捨て、人生を捨て、破滅を選んでくれたら、それはそれで決して不幸なことではあるまい、と。
 もし、と何度も思った。あのままカイルワーンの手を取り、逃げていたらどうなっていただろうかと。
 足手まといの自分を連れて、カイルワーンが逃げきれたとは到底思えない。イントリーグ党に追いつかれ、捕らえられ、処刑されただろう。
 だがその最後の瞬間まで、そばにいられたら。
 もし一本の剣に共に刺し貫かれて、死ぬことができたのならば。
「暗くて醜い、独占欲だってことは判っているの。だけど最期まで共にいて、一緒に死ぬことができたのならば、それは――」
 それはきっと――。
「それはそれで幸せだったんだろうって、思ったの……」
 今思えば、あの時のカイルワーンの求婚は、どれほどの覚悟をもってなされたものだったのだろうか。彼にその逃亡の道行きがどれほど過酷なものになるかが判っていなかったとは思えない。それでも自分を愛していると、自分が必要だと、その時を迎えたら共に死んでも構わないと、彼はそう言ってくれたのだ。
 どうしてそれが嬉しくないことがある?
 けれども、その手を払いのけてしまった自分の気持ちも――その根底にある己の思いの正体も、アイラシェールには判っている。
 身を投げだし、泣き狂ったあの日。長い間伏されていた真実――己の幽閉の理由を告げられたあの日、心の中で暴れ狂った一つの思いは、胸の奥底に消えることなく漂っている。
「幸せとは何かと聞かれても、私には判らない。今の自分が不幸せかって聞かれたら、はいとは答えたくないわ。この結果は、全ては私が選んできたこと。国を救いたい、民を救いたいと思うことも、侯妃の責任だけではなくて、自分の都合も含めた己の望みに違いはないの。この国に来てからの自分の選択を、私は何一つ悔いてはいない。悔いてはいないけれども……どうして、こんなに苦しいの」
 ほろり、ほろりとこぼれる涙が、手元の赤い水面にさざ波を起こす。
「どうして、他の誰かでは駄目なの。どうして、もう二度と会えないあの人でなければ駄目なの」
「……それが恋なんだよ、アイラ」
「あの人に……カイルワーンに、会いたい……」
 自分に取りすがって泣くアイラシェールを抱きしめながら、ベリンダはもう何も言えなかった。
 そして寝室の外、扉の前で立ち尽くしていた、フィリスも。
 息を殺し、苛立たしげに爪を噛み……やがて踵を返して、部屋を出ていく。
 その相貌を横切る歪んだ表情は、いまだ誰一人見たことがなかった。
 憤怒に似て、それとも違う。焦燥に似て、それとも違う。
 かくしてフィリスが携えていた報告は、明朝まで持ち越されることになったのだが、その中身はアイラシェールの予想範疇内だったので、大した意味を持たない。
 この深夜の訪問が歴史的に意味を持つのは、また後の話だ。
 そしてその報告内容の渦中にあった人物は、今もってその現場にいた。
 絨毯の上にとめどなく広がっていく赤い海を眺め下ろす彼の体は、小刻みに震えていた。
「陛下、このような場所におられてはお体に触ります。どうか、お移りのほどを」
 懇願する侍従長を、ウェンロック王は血走った目で睨みつけた。
「やかましい」
 血溜まりの中、赤に静かに浸っていくのは、長い栗色の髪と、彼女がまとっていた漆黒のドレス。刃があたって糸が切れた黒玉の首飾り玉が四散し、海の中を漂っていた。
『もし陛下が、私をただの一人の人間として――女として見てくださったのならば、こんなことにはなりませんでしたのに』
 彼女の――エヴァリンの最期の言葉が、ウェンロック王の脳裏に蘇る。
「お前たちに何が……何がお前たちに判る!」
 己の胸に短剣を突き刺し、笑いながら死んでいった女。
 その姿に、声に、過去が重なっていく。
『王統を残せぬ私が、どうして何もかもを背負わなければならないと言うのですか、母上! いたずらに国を混乱させるだけだと、どうしてお判りになられないのですか』
『貴方は王となるより他に道はない。他に生き延びる手立てはないことは、貴方だって判っておられるはずです』
『そうまでして生きたいと……そうまでして生き延びたいと、いつ私が頼みましたか!』
 どれほど言葉を尽くしても伝わらなかった思い。届かなかった言葉。
「母上……」
『案ずることはない。時が来れば、真の王はレヴェルと共に必ずこの王宮へ帰ってくる』
『父上、そんな――それはまさか』
 ありとあらゆる道を塞いでおきながら、最後の覚悟さえ打ち砕いた言葉。
「父上……」
『貴方様の一生は、それはお苦しいものになるのでしょう。貴方様だって、他の誰とも変わらず、同じように痛みも苦しみも感じるただ一人の人間なのに、王子であり、ただ一人の王位継承者であるというだけで、誰一人貴方様に弱さを、過ちを許してはくれないということ。そして、誰もが貴方が王であるというだけで、その過ちを責めていくということ』
『私は……どうしたらいい』
『それでも私には、何もできません。どれほど過酷でも、どれほど理不尽でも、それでも人間は己の人生以外を歩んでいくことはできないのです』
 優しさと厳しさと覚悟を突きつけるだけ突きつけて、突然消えていった言葉。
「アンナ・リヴィア……」
 もう誰もいない。
 自分の気持ちになど構わず、好き放題するだけして、そしていなくなっていった人々。
 そして残された自分を、誰もが責めて死んでいく。
「私の何が、お前たちに判るというんだ」
 怒気のこもる声で叫ぶウェンロック王に、泣きだしそうな顔で侍従が寄る。
「陛下、陛下、お気を確かに!」
 だが周囲の狼狽に構わず、ウェンロック王は叫んだ。
 その孤独と悲痛の全てを込めて。
「誰が私を王にしてくれと頼んだ! いつ私が王になりたいと言った!」
 ぱりぱりと音をたてて何かが壊れていく。
 壊したのが誰だったのか――ソムブレイル子爵だったのか、フィリスだったのか、エヴァリンだったのか、アイラシェールだったのかは、それは誰にも判らない。
 そして大事件に揺れたアルベルティーヌ城も、朝はやはり同じ時刻に目覚め始める。
 図書室の窓から差し込む朝の光は、やはり同じ輝きを持っていた。
 ページを繰り、文章を目で追いかけても、一向に頭に入ってこない。小さくため息をついて本を閉じると、アイラシェールは誰もいない室内を見渡した。
 もし、運命を変えられたら。自分が王女として王宮で育てられていたら、自分はやはり同じように本好きに育つだろうか。
 王立図書館に通いつめて、そこでカイルワーンに出会っただろうか。
 アルバの歴史に残るほどの天才の息子は、やはり学者の道を選ぶだろうか。
 空想が、目の前に像を作るのを感じた。
『ご機嫌麗しく存じます、アイラシェール王女殿下』
 彼は自分の姿を認めると、跪いて恭しく礼をするだろう。それに対して、自分はそれを当然見下ろしているだろう。
それが運命が変わるということ。
『このたびのご縁談、誠におめでとうございます。北方諸国は地下資源に恵まれた富裕な国と聞き及んでおります。アルバにとって北との縁戚が結べることは、何より心強いことでありましょう』
『……はい』
 そして自分はたとえ誰に恋をしても、その思いは叶わないだろう。国のために尽くすのは王女の務めで、その最たるものが他国の王族や国内の有力貴族と婚姻を結ぶことだ。そうして自分は父王の決めたままに、顔も見たことのない誰かの元に嫁がされるだろう。
 そしてそのことを、彼は苦痛にも思わない。
 自分を一人の女性として見てくれることもなく、自分に恋してくれることもなく、自分も身分違いの相手を好きになることもまたできただろうか。
 もし歴史を変えることができたとしたら。運命を変えることができたとしたら。
 自分たちは出会うこともない。出会うことができたとしても、お互いを王女として見、臣民として見、一人の人間として見ることもない。
 恋することも、ない。
 それが変えられた、運命の結末。
 光が差し込む図書館。そこでさえ運命はすれ違っていく。
 幸せとは何なのか。今が幸せではないのか。その答えは判らない。けれども。
「私……あなたと過ごせた時間は、幸せだった」
 ためらうこともなく紡ぎだされる、言葉と涙。
「己の運命が怖かった。国民に憎まれていることが怖かった。何もできない私が、あなたを縛りつけていることが苦しかった。それでも、私の人生に幸せがあるとしたら、それはあなたと過ごせたあの十四年なんだって……やっと、判った」
 そしてきっと。
 変えられた運命には、その人生には、それ以上の幸せなど、きっとありはしないのだ。
 胸の隙間を、寂寥の風が吹く。アイラシェールはその小さな手で己が胸元を握りしめ、明るい部屋の中でただ立ち尽くした。
 その数刻後、ざわめきが宮廷の一角を満たす。
 侍従長が掴んだ扉の握り。普段は何の抵抗も示さないはずのそこが、固くこわばって動かない。
「陛下、どうなされたのです!」
 叫びに答えるものはない。
「陛下、どうかここをお開けになってください! 陛下!」

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