それでも朝日は昇る 8章17節

 朝議を終え自室に戻ろうとしたフィリスが、彼女の姿に足を止めたのは、偶然ではない。
 広くはない廊下の真ん中に立っている彼女は、紛れもなく彼の行く手をふさいでいた。
「ベリンダ、私に何か?」
「話がある」
 普段の礼儀も何もかも置き捨てて、ベリンダはそう告げた。琥珀色の瞳に浮かんでいるのは紛れもなく怒りで、事実その言葉にもひどく刺があった。
「あんたたちが侯妃の反対を押し切って決めた、売春の禁令を撤回しなさい」
「何を言っている? お前は」
「今まであたしは、あんたたちが何をしても、それがどんなにおかしいと思っても、全て黙って見てきた。だがこればっかりは我慢ならない。一体あんたたちは、何を見ているんだ! 本当に現実を見ていれば、そんな世迷い言を平然と実行できるわけないだろう!」
 フィリスはかちん、と来た。いくらアレックス侯妃に重く用いられているとはいえ、たかが侍女風情にこのような口の利き方をされる覚えもないし、施政に口を出される謂われもない。
「どけ」
「国軍元帥ともあろう者が、逃げるのか。民のためを標榜する者が、一人の民草の声さえ聞けないというのか。自分とは相いれない意見には耳を塞ぎ、美しい理想に酔えば、そりゃあ毎日楽しいだろうが、そんな奴が国を救うなどと冗談でも口にするな、臆病者」
 ベリンダは、臆することもなく敢然と言い放った。その言葉に――恐れることもなく真っ直ぐに立ち、自分を睨み続けるその姿に、フィリスは怒りを通り越して唖然とした。
 いつも侯妃の陰に控え、必要なことを以外は決して自分から話そうともしなかったこの侍女が、本当はどんな人間なのかを初めて思い知らされた。
 だからこそフィリスは不快そうな顔をすると、気押されることなくベリンダを見下ろして答えた。
「売春という行為が、どれほど国の風紀を乱し、秩序の混乱の素となっているのか、お前には判らないのか。一夜の慰めを金で買うという行為が、そのために体を売るという行為がどれほど汚らわしいことか、そして娘子供が近親者から金で娼館に売られていくことが、どれほどの悲劇なのか――こんな汚らわしい悪習は誰かが断たなければならない」
「あんたの言っていることが間違っているとは言わない。ああ、何一つ間違ってはいない。だがあんたは、それなのになぜ娘子供が売られていくのか考えたことがあるのか? 売った者の気持ちを、売られた者の気持ちを、少しでも考えたことがあるのか? 泣きながら男の相手をし続けている女たちが、何を考えているのか、ちらとでも想像してみたことがあるのか」
 ベリンダは一歩も引かない。怒りに紅潮した顔を上げて、だが極めて冷静に語る。
「誰が好き好んで、子供を娼館に売るんだ。誰が好き好んで、娼婦なんかし続けてると思っているんだ。それ以外に道がないから――子供を売らなければ自分たちが、他の子供たちが、そして当の子供が飢え死ぬから、だから売るんだろう? 客を取り、男と寝なければ生きていけないから、だから娼婦であり続けるんだろう? 今売春を禁止して、全ての娼館を閉鎖させて、それでそこからどうするのさ! 今まで売春で食いつないでいた者たちは、これからどうやって食っていけばいいのさ! この飢饉と貧困に誰もが喘いでいるこの時に、他にどんな方法で生きていけと? あんたたちは本当に、そこまで考えているのか?」
 フィリスは一瞬、言葉を返せなかった。感情としては、怒りにあふれていた。ふざけるなと叫び、反論しようとし……だが、その言葉が出てこなかった。
 現実的にどうするんだ、と問いかけられて初めて、フィリスは返す言葉がないことに気づいたのだ。
 愕然とした。
「あんたたちは正しい。あんたたちの語ることは皆正しくて、美しくて、公明で正大だ。……だけど、その理想が、本当に実現可能なのかどうか、あんたたちは一度だって考えたことがあるのか? 正しいことなら安直に実行していいのだと……それによって現実に国や民に何が起こるかということを、本当にあんたたちは考えているのか?」
「ベリンダ、貴様、何が言いたい……」
「あんたたちは王政をなくし、国民が己で選んだ者を君主に据えて政治を行うという。国は国民のもので、君主はその国民の総意で選ばれるべきだという。その思想はあたしだっていいな、と思わなくもない。だけど、あたしはあんたたちに問いたい。現実に、どうやって、何を基準に、君主を選んだらいいんだ? それが判っていない民に、どうやって君主を選ばせようというんだ」
 それはその時、アルベルティーヌの街にいたカイルワーンが呟いた一言。それをベリンダが、フィリスに突きつける。
 カイルワーンが『早い』と言った、その意味。
「今仮に、アイラが言う『選挙』というものを行ったとする。成人した国民全てに権利を与えて、王様にしたい人の名を挙げろと言ってみる。だけど、あたしが保証する。国民の大部分が、なんでそんなことをしなければならないのか、何でそれが自分たちのためになるのかが判らない。そして、誰を選べば自分たちのためになるのかも判らない。この状態で、選挙なんてものをして何になる。大部分が自分たちの元領主の名前でも書くのが関の山だ」
「だからそれは――」
「国民に広く施策を訴え、理解してもらった上で――あんたたちの話したことは全部覚えている。だけど、はっきり言わせてもらう。今の国民のどこに、その話を聞き、自分の頭で考えていられる時間があるというんだ」
 ベリンダは断罪の鎌を振り下ろす。この場でただ一人、どん底の貧民を見てきた彼女だからこそ判るし、言える。
 それは貴族の思い上がりだ。
「この国を支えている大多数の庶民は、日々を暮らすだけで精一杯だ。地を耕し、種を蒔き、鉄を打ち、機を織り、そして子を産み育て――それで精一杯なんだ。精一杯働いて、それでやっと一家が食べていけるんだ。その庶民のどこに、そんなことまで考える時間と精神の余裕があるというんだ。自分のために考えろ、と口で言うのは簡単だ。だが、その考えるための素地を学ぶ時間と金は、どこから捻出するんだ。判らない――判らないんだよ、民衆には、あんたたちの望んでいることは! それを理解するための素地が――教育がない人間に、そんなことを望んだってしょうがないんだよ! どうしてそれが判らない!」
 もどかしそうに叫ぶベリンダに、フィリスは血の気が引いた。
 目の前のこの混血の侍女は、自分たちが考えもしなかった脆さを突きつける。
 もしかしたら彼女は、自分たちが考えているよりも遥かに明晰だったのではないか――そうとさえ、ちらりと思えてしまえるほど。
 彼女の語る言葉に、反論も、逃げ場も、ない。
「あんたたちはそのために、国民に教育が必要だって言うだろう。子どもたちは皆教育を受けさせて――そう言う。だけど、その費用はどこから出すのさ。国か? この餓死者さえ救えない国庫の現状で、どうやって。親が負担するのか? 食うにも事欠く者たちが、どうやって! 学がないから貧困から抜け出せない――その主張は正しい。あたしもそう思う。子どもが皆学校に行けたら、どれだけいいだろう。だが、子どもが皆学校に行っていたら、誰が水を汲みにいく。誰が小さい弟妹たちの面倒をみる。誰が麦を刈り、誰が粉を挽くんだ。この国は貧しい。親だけではなく、小さな子どもまで働かなければならないほど――その小さな手さえ借り出さなければならないほど貧しい。そんな民衆にあんたたちは、これ以上の負担を課すのか? ふざけるな!」
 ベリンダは憎しみさえ感じさせる目で、フィリスを見る。
「自分たち貴族が何のためにいるのか、働くこともなく生きていける身分が何でこの世にあるのか、あんたたちは考えたことがあるのか? 貴族の責務は、その負担を民の代わりに背負うことだろう? 働いていては到底受けられない教育を代わりに受け、生活に追われていてはとても考える余裕もないことを代わりに考え、考えられない者たちのためになる施策を選択する。貴族が国に対する責任を全て背負ってくれるから、民衆は貴族を支えるために日々身を粉にして働き続けるんだ。違うか?」
 問われても、フィリスは咄嗟に返す言葉を持たない。
 完全に、ベリンダの勢いに呑まれていた。
「身分をなくし、人を平等にするということは、背負う責任も等しくするということだ。その責任を誰もが背負えるほど、アルバが豊かじゃないってことが、あんたたちにはどうして判らない。その上で、身分などいらない、人は平等であるべきだと言うのならば……それは飢えたことのない、身を粉にして働いたこともない、上から人を見下ろしているあんたたち貴族の傲慢だ!」
 静寂が訪れた。フィリスは何も言わなかった。言うべきことを言い尽くしたベリンダは、そんな彼の反応を待ち……そして、ひどく重苦しい沈黙の後、決然と顔を上げたフィリスに、こんな言葉を向けられる。
「ベリンダ、お前をこれを私に言って、それで結局どうしろと言いたいんだ?」
「……これ以上、アイラを巻き込むな」
 先程の激情とはうって変わった静かな――危惧にあふれた声で、ベリンダは告げた。
「あんたたちを責める言葉はそのまま、あたしはアイラにも向けなければならない。あんたたちのやろうとしていることは、アイラの思想だからね。だけどその思想が、理想が、今の現実とどうしたって折り合わないことは今話した通りだ。だったら、あたしはアイラを止めないといけない。だがあたしがアイラにやめろと言って、彼女がそれを理解したとして、あんたたちがアイラを――思想の女神様としてのアレックス侯妃を、放すものか」
 きり、と空気が凍った。まさしく敵を見る眼差しでフィリスとベリンダは睨み合う。
「あんたたちが、己の理想に殉じるのは構わない。それも騎士の生き方として、本望なんだろう。だがそれにアイラを巻き込むな。滅びるのは、あんたたちだけでいいだろう。あの子がどんなに優れた思想家だとしても、それ以前にまだ二十にもならない一人の女なんだ。あの子にだって人としての、女としての幸せを望む権利があるってことを忘れるな」
 この時フィリスの脳裏によぎったものを、ベリンダは知るよしもない。
 今この王宮で、糸が全てつながっているのは――レーゲンスベルグの賢者と、アイラシェールの愛するカイルワーンの二つの像が一つに結びついているのは、フィリスただ一人だったのだから。
 だからこそ、フィリスは止まりようがない。
「……それを選ぶのは、侯妃ご自身だ。違うか」
 ただそれだけを言い残し、フィリスは立ちはだかるベリンダを強引に押し退けて、廊下を先に進んでいってしまう。
 ベリンダももはやその背中を追わず、やがて小さなため息をもらした。
 全身に、ひどくやるせなさを漂わせながら。
 一方、自室の扉を閉めたフィリスは、机にしたたか己の拳を打ちつけた。
 がん、というけたたましい音が、部屋いっぱいに響きわたる。
 後から後からこみ上げてくる怒り。それを持て余し、フィリスは憤怒の表情のまま立ち尽くす。
 その怒りがベリンダに向けられたものなのか、それとも先刻脳裏をよぎってしまった光景に対してのものなのか、自分でも判らぬままに。
 自分にさえ向けたことのない、幸せそうな笑顔を浮かべた侯妃の手を取る、見も知らぬ男に対してのものなのかも、判らぬままに。

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