それでも朝日は昇る 8章16節

 冬に向かって落ちていくアルベルティーヌに、渇いた風が吹く。砂塵を巻き上げて流れていく風にカイルワーンが目を細めた時、その肩を叩いた者がいた。
「……黙って消えるなって、何度言えば判るんだ? お前は」
「君も忙しいだろうに。何度も何度も追いかけてこなくていいよ」
 憮然として言うカイルワーンに、カティスは顔をしかめて言い返した。
「お前がいなくなると、俺のところにギルドの連中やら何やらが、血相変えて怒鳴り込んでくるんだよ。探してこいとレーゲンスベルグから叩き出されるのがオチなんだから、大人しく連れていけよ」
「君が僕の護衛役だから、か?」
「判ってるなら、いい加減諦めろ」
 カイルワーンが暴漢に襲われた後、レーゲンスベルグの人々は彼の挙動に過敏になった。その中で、カティスは自分がカイルワーンの護衛を請け負っていることを明らかにせざるを得なくなった。カティスとしては、カイルワーンが嫌がることが判っていたから隠し続けたかったのだが、傭兵団の長の自分がついている、と言って歩かなければ、もはやカイルワーンは街中すら自由に歩かせてもらえなくなりそうだった。
「一緒に暮らして、始終守ってもらってるんだ。それでもう十分だよ」
 二人が一緒に暮らし始めたのも、そのためだ。言い出したのはカティスだったが、カイルワーンはそれを拒まなかった。そしてそれ以来カティスは仕事の手が空く限り、カイルワーンについて歩いている。
 自分はカティスにひどく助けられている――依存している。そうカイルワーンは感じていた。そしてそれが、怖くもあった。
 レーゲンスベルグの街は、冬に向かっていくにつれ、どんどん不安定になってきている。職を求めて、税の取り立てから逃れて、農村部から人がどんどん流れてきている。実権を握ったギルド連合が、定住場所を持たない人間を街に入れないよう、検問を厳しくしているのだが、完全な規制などできない。
 カイルワーンが建てた工場は、全力で稼働し、かなりの難民に職を与えた。しかしそれでも救いきれない人々が、街にあふれかえっていた。
 カイルワーンは毎日その救済事業のために走りまわっていて、護衛についているカティスは自然、その手助けをすることになる。
 その時に思うのだ。カティスには自分にできないことができる、と。
 自分では持ち上げられないものを持ち上げられる、ということの意味。
 自分では納得させられない不安を口にする人々に、カティスが『大丈夫』と答えて、それを納得させられることの意味。
 他人に与えられる安心感の差。度量の違い。
 それにもはや嫉妬は感じない。だからこそ、恐いのだ。
 彼を、巻き込んでいくことが。
 彼をこうしてレーゲンスベルグ中の人の目にさらすことが。
 勿論、彼は自分が来る前から、レーゲンスベルグの有名人だった。だがそれは、軽薄で女好きの、気やすい傭兵の姿だ。だが今、弱い者を救うために走りまわる彼の姿は、その片鱗は残るものの、ずっと真面目で誠実だ。もう彼は、そうでしかあれない。
 そう。飢饉に喘ぎ、人が次々と倒れていく今のレーゲンスベルグは、戦場と代わりがない。
 病と飢え、そして死が蔓延する場所で、彼は軽薄さを取り繕っていることなどできない。
 その結果。
 じわじわと、カティスの信奉者が増えていく。彼を自分と一括りにし、慕い、崇める者が現れ出していく。
 これ以上巻き込みたくない。そんな人たちを見ているのが、たまらない。しかし、もう戻ることもできない。
 息苦しさに耐えきれなくなると、カイルワーンは何もかも置き捨てて、レーゲンスベルグを飛び出す。一日二日、ふらりと息抜きをしてから戻ろうと思い、何も告げずに出てくるのだが、必ずほどなくカティスに追いつかれる。
 レーゲンスベルグの反乱から一月。時は十一月――あと一月もすれば、雪が降る。
「アイラシェールから、例の恋文の反応はないのか?」
 カイルワーンがたびたびレーゲンスベルグを抜け出し、アルベルティーヌを訪れる理由は、息抜きのためだけではない。彼は商談を代償に、王城のアレックス侯妃に面会を申し入れているのだが、突っぱねられ続けているのだ。
 対等の条件などあり得ない。自分たちがレーゲンスベルグの者に門を開く時は、ギルド連合が降伏する時のみだと、城側は同じ回答を繰り返す。
「アイラシェールにあの手紙が届いていないのか、それとも読んだとしても、それほど僕が許せないのか――さて、どっちだろう」
 沈んだ表情で呟くカイルワーンの背中を、慰めるようにカティスは軽く叩く。
「まだ結論を出すには早いさ。これからだろう?」
 歴史を知らないカティスは、自分に時間がないことなど知らない、とカイルワーンは切なく思う。だがそれを口に出せるはずもなく、曖昧に微笑むだけ。
 そして二人はあてどもなく、アルベルティーヌの街を歩く。
「レーゲンスベルグもひどいが……アルベルティーヌはそれ以上だな」
 都市は食料の自給ができない。それがどれほど悲惨な結果を生むのかを、二人は目の当たりにした。
 街には浮浪者があふれていた。だがそれが、飢饉のせいばかりではないことを、カイルワーンは知っている。
「どうしてこんなにも、アルベルティーヌに失業者があふれているか、君には判るか?」
「改めて問いかけるところをみると、レーゲンスベルグのように離農者が流入しているから――というわけではないんだな。むしろ人は減っているように、俺には見える」
 常日頃、自分は頭がよくない、自分には学はない、とカティスは言う。だが、それでも彼はこういう時、「俺に判るか」と逃げることはしない。精一杯自分の頭で考えた後に、答えを問いかける。その姿勢に、カイルワーンは彼に未来の名君たる素質を見る。
 それが嬉しいかどうかは、別にして。
「原因は城だ。宮廷が奢侈をやめたツケが、この失業者の山とアルベルティーヌの荒廃の一因だ」
 カイルワーンの答えを、カティスは理解できなかった。
「……どういうことだ?」
「王家の財政は逼迫していた。この大凶作では、税の減収は必至だ。だから城での支出を最大限切り詰めた――アイラシェールの選択は正しい。それ以外に道はない。だが、アルベルティーヌには、城での消費によって生計を立てていた人が、五万といた」
 アイラシェールの選択は間違っていない。だが、それが招いたこの事態。
 この、誰にも御せない恐ろしい化け物。
 それが、経済だ。
「城で使う花、リネン、夜会や晩餐会で供されていた様々な食材、寵妃たちのドレス、宝石――数え上げたらきりがないほど沢山の消費が、消滅した。それは商人だけでなく、それを生産していた人々からも職を奪った。それだけじゃなく、多くの下官や下女が、城から解雇された。その人たちは、これからどうやって食っていけばいい? 需要が消滅し、生産の必要がなくなれば――雇用は、ない」
「それじゃあお前は、王宮は無駄遣いをし続けなければならないところだと、そう言いたいのか?」
「消費をしなければならない、という点においては、それは一側面正しい。消費が生産を促し、雇用を生むことは君にも判るだろう。だから税収によって莫大な資金を集積できる王家――国家は、それを消費して雇用を生み出さなければならない。だが、その消費が次の生産に――税収に寄与しなかった時、国の財政はやがて破綻する」
「税収を食いつぶしていくだけだものな。要はじり貧だ」
 納得したように答えるカティスに、カイルワーンは小さく頷いて呟く。
「ウェンロック王が――ブロードランズ朝歴代王がしてきたアルバの発展に寄与しない消費――『無駄遣い』のツケがこれだ。僕の亡くした国はそうやって破綻したし、今アルバも破綻しかかっている。城での奢侈をやめれば大勢の人間が失業するし、奢侈を続ければ財政が破綻して、辿る道は一緒。――手段も、逃げ場も、どこにもないんだよ。僕が恐ろしいと言いたいのは、そこなんだ」
 アイラシェールの苦悩が判る。彼女はどれほど、この難問の前に苦しんだろう。
 よかれと思ったしたことが、裏目を出す。どんなに努力をしても、結果が出ない。
 それは、誰がやっても同じだ。どうにもならないのだ。それが彼女には判っているだろうか?
「アイラは関税を引き上げ、商取引に新たに税を課し、そして通行税を取った。彼女が私腹を肥やすための増税だとラディアンス派やフレンシャム派はやり玉に上げるだろうが、僕はそうは思わない。彼女は必死だ。税収を上げなければ、この貧民を救済することも、新たな事業を興して失業者を減らすこともできやしない。金がなければ、何にもできない。だから取れるところから取ろうとしていることも――それしか道がないことも、判っている。けれども今の現状じゃ、都市貴族だって――大商人だって、その負担を呑めるほどの余裕はない」
「悪い……その意味も判らない」
「この大飢饉で、大部分の人間が困窮した。その中で、わずかに得られた収入は、まず何に当てられる?」
「そりゃ、食い物だろうな」
「そう、食わなければ人は死ぬ。そして食料相場は飢饉で高騰している。人々のわずかな金は、食料だけに消えていく。その結果、他のものが売れなくなる。商品が売れなくなった商人は、利益を確保するために経費を削減する。そこで、手っとり早い経費の削減方法といえば」
「解雇か……」
 カティスが苦々しく呟くのに、カイルワーンは頷いて続ける。
「そして、物が売れないから、当然その物の値段は下げざるを得なくなる。となれば、経費を削減しなくては商人は赤字だ。そうなればまたやってくるのは解雇で、ますます物が売れなくなる。そして、これが循環し、景気はどんどん悪化する。そこに税が課される。経費が上がる。生き残るためには、別のところで経費を削減しなくてはならない」
「……もう判った、それ以上言わなくていい」
 げんなりした風にカティスが言うと、カイルワーンはたまらなさそうにこぼした。
「アイラが悪いんじゃない。これは誰がやったところで無理なんだ。だけど今、それを背負わなければならないのも、紛れもなく彼女なんだ……」
 アルベルティーヌは――アルバは荒廃した。それは決して彼女のせいではない。ウェンロック王が、先代のレオニダス王が、そしてそれ以前の王たちが誤ったことだ。こうならないために、王家は――国は気候に左右されない、安定した収入を確保しなければならなかった。もしくは、凶作に対する備えをしなければならなかった。または開墾を奨励し、資金を提供して農地を整備して、収益を上げる努力をしなければならなかった。それは長い時間をかけて国が――為政者が取り組まなければならない国務で、一朝一夕にアイラシェールがどうにかできたことではない。
 だが、今現実の為政者は彼女であり、その責めを負うのも彼女だ。
 なぜ彼女がこの先魔女と呼ばれるのか、国民に憎まれたのか、カイルワーンには判ったような気がした。
 それは生贄だ。
 この国の破綻を、ブロードランズ朝十六代分の失政のツケを、そこから来る国民の憎しみを、次に来る王が負わぬよう、代わりに一身に背負って焼き滅ぼされる生贄の山羊だ。
 だが、それではあの時と同じだ。イントリーグ派が国民の不満を煽り立て、まとめるために使った彼女の存在――魔女の呪い。
 どうして彼女が二度までも、そんなものを背負わなければならないというのか。彼女自身にはどうにもならない憎しみを向けられ、追われなければならないというのか。
 ぎり、と爪を立てて拳を握ると、痛ましそうな――しかし気づかわしげなカティスの顔が目に映り、カイルワーンは重ねてたまらなくなった。
 何が英雄だ、とカイルワーンは己に反吐が出そうになる。
 この事態を打開するために自分がしたこと――それが何のことはない、センティフォリア・ノアゼット併合だ。
 確かに先に攻められた。戦争は、防衛戦から始まった。だが、それが併合まで至ったのは――なぜ他国を侵略したのかは、間違いなくこのアルバ国内の閉塞と破綻が存在するからだ。
 戦争という莫大な消費が、国内の産業を活性化させ、景気を回復させた。その代わりロクサーヌ朝は初っ端から莫大な戦費の借金を背負うこととなったが、そこからアルバは回復へ向かい、やがて富裕な大国への道を歩き出す。
 事実、現在のレーゲンスベルグの産業がかろうじてもっているのは、内乱のせいだ。これから確実に始まる内乱で、武器や防具の確実な需要が見込めるから、各工房やカイルワーンが建てた工場は、生産を続けられるし、金融業者も融資を続けられる。それが現実だ。
 これが彼女の選んだ理想と、自分が選んだ現実。
 その結果、彼女は民を虐げた者として罵られ、自分は救国の英雄と讃えられる。
 あんまりだ、とカイルワーンは思う。
 だが、同時に思わなくもないのだ。彼女の為政がつまずいたもう一つの理由を。
 レーゲンスベルグでその布告を見た。カイルワーンは息抜きのためばかりではなく、そのために今日アルベルティーヌにやってきたのだ。その布告を前にした、アルベルティーヌ市民の様子を見るために。
 王国摂政の名において、王政の廃止と貴族制度の廃止を宣言したその布告に、カイルワーンはなんとも表現しようのない、複雑な心境に駆られた。
 高らかに人の自由と平等を謳うその宣言は、カイルワーンにある人物を思い出させる。
 これではまるで、イントリーグだ、と。
 これは復讐なのだろうか。彼女の国を滅ぼし、彼女の家族を奪ったその思想に対する、皮肉的意趣返しなのだろうか。
 それとも、彼女は時間を繰り上げることで、歴史を変えようとしているのだろうか。ロクサーヌ朝を飛び越え、一気に共和制へ持っていくことで、魔女を歴史から抹消しようと考えたのだろうか。
 アイラシェールの内心を量ることはできない。そして、カイルワーン自身も、イントリーグの思想に何も感じなかったわけでもない。身分の違いに苦しみ、平等のお題目に惹かれたことがあるのもまた事実なのだから。
 だが、その布告を見た瞬間、カイルワーンはある確信を得た。それはアイラシェールの破滅を予感させられずにはおれなくて、彼は失望の吐息を上げた。
 アイラシェールの思想は、為政は、間違ってはいない。美しく、高潔で、平等だ。
 だが――。
「まだ、早いんだ。どうしてそのことが判らない……アイラ」
 カイルワーンは、ぽつり、と呟く。
 どうしてこの時代に生まれたイントリーグの思想が、体現されるまで二百年もかかったのか、そのことを彼女は考えはしなかったというのか。
「アイラ、君は現実を見ていない」
 確かに自分には理想も思想もない。現実に対処するばかりで、彼女には到底受け入れられないことばかりしているという自覚はある。
 だが、彼女は現実を見ていない。
 なぜこの世に王がいて、貴族がいるのか。
 なぜこの世に身分が存在するのか。
 その本質を、彼女は本当に判っているのだろうか。
 だからレーゲンスベルグは、ギルドの長たちという一部の特権階級たちが施政を預かる。自由都市レーゲンスベルグ――その自由の意味は、共同体としての『街』、その施政が王権から自由だということなのであって、民の一人一人が真に支配というものから自由なのではない。そうでなければならなかったのだ。
 なぜならば。
「自由と平等には責任があるんだってことが――そして今のアルバ国民にはそれを背負いきれはしないってことが、君にはきっと判っていないんだろうね……」
 ひどく悲しげな、失望に満ちたカイルワーンの独り言を、カティスは聞き逃さない。
 この言葉が――その重さが、自分たちの運命の根幹にあったことを、後にカティスは深く思い知ることになる。
 だが今は何を知ることもなく、二人の間を渇いた風が流れていく。
 冬は、すぐそこまで来ていた。

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