それでも朝日は昇る 8章15節

 王宮薔薇園は、遅咲きの秋薔薇が最後の花を散らしていた。薔薇園の一年最後の季節は寒々しく、それは何事かを暗示しているようにベリンダには思えた。
 アイラシェールに請われ、彼女が宮廷に登ってから、一年が過ぎようとしていた。そしてそれは、あまりにも目まぐるしく、そして激しい歳月だった。
 おそらく宮廷史においても、激動の一年として刻まれることは間違いないだろう。そう思うのだが、それは自分が一介の平民だからだろうか。宮廷においては、こんなことは日常茶飯事なのだろうか。いや、そんなことはないだろう、とベリンダは思う。
 たった一年。その間に王は死に、宮廷は死んだ。そして主人であり、親友である少女は国権を握った。小さな背中で国を背負い、日々奔走する彼女に、ベリンダは痛ましさを感じるとともに、違和感もまた感じずにはいられなかった。
 何かが、違う。
 侯妃付の侍女であるベリンダは、アイラシェールほどではないにしろ、忙しい。誰もがまだ眠りに就いている朝、アイラシェールが図書館に行っている間に、彼女もまた部屋を抜け出す。
 まだ誰も来ない薔薇園の片隅。そこは彼女だけの場所であり、この時が唯一彼女が一人きりになれる時間だ。
 黄薔薇の茂みの陰、置かれてあるベンチに腰かけ、ベリンダは空を見上げた。カリネラ山もようやく落ち着き、晴れあがった空がかえって目に痛く、そして寒く感じられる。
 これでいいのだろうか。心の中には絶えず疑問が点灯する。
 ベリンダは政治には関与しない。そんな才覚も教養もないと思っているし、緋焔騎士団の連中が認めることはないだろうから、自ら口を出したりはしない。だが、彼らやアイラシェールが語ることは耳に入ってくる。
 彼らの主張するところは正しい、とは思う。何一つ間違ったことを言ってはいないと。そしてその理想を美しい、とも思う。
 だが聞けば聞くほどに、違和感を、そして危惧を感じずにはいられなくなるのはなぜだろう。それを口に出すこともできず、呑み込むたび、ベリンダは自分を持て余してこの場所で佇むことになる。
「……やはりここにいらっしゃったのですね」
 突然声をかけられて、驚いてベリンダは視線を戻した。すると薔薇の茂みの向こうに、考えもしなかった人物が立っていた。
「エスター卿、どうしてこんなところに」
 騎士団員の証である緋色のマントも身につけてはいない。一分の隙もない普段の彼からは想像もできないほど砕けた服装で、エスターはベリンダの前に立っていた。
「貴方に会いに来る以外に、こんな時間のこんな場所に足を運ぶことなんてないでしょう。そう思いませんか?」
 鳶色の目が、笑って彼女を見下ろしていた。だがベリンダには、その笑みも、言葉も、全く理解不能だ。
「私に会いにくる? 何のために」
 ベリンダは椅子に座ったまま、エスターを見上げた。だがやがて、沈着な表情で問いかけた。
「いよいよ私が邪魔になりましたか。侯妃の近くに下賤な者を置いておくのに耐えきれなくなりましたか? 貴方たちの団長は」
 突然の言葉に、一瞬エスターはきょとんとした顔をした。そんな彼に、ベリンダはなおも言い募る。
「始末したいというのなら、勝手にすればいい。人目のないここならば、誰がやったのかも判りはしないでしょう」
「……どうして貴女はそんなことを言うんですか」
 次の瞬間、怒気が満ちあふれた言葉をぶつけられて、ベリンダは目を丸くする。
「……違うの?」
「当たり前でしょう!」
 エスターは心底怒っているようだった。だがベリンダにしてみれば、その怒りさえも謎だ。
「私が貴女に会いたいと思う、ただそれだけの理由で会いにきてはいけないんですか!」
「そのお言葉の意味がそもそも判りません、エスター卿。貴方が私に会いたい? なぜ?」
「……ベリンダ、卑屈になるのも大概にしてください」
 心の奥底を見透かしたように言うエスターに、ベリンダはどきりとする。怒りのにじんだ真剣な顔つきで、自分の顔をのぞき込んでくる彼に、その強い視線に、ベリンダは顔を背けた。
 直視など、できようがない。
「そろそろ気づいてくれても――認めてくれてもいいでしょう? 私が貴女を、どう思っているかくらい」
 本当は気づいていた。だが敢えてそれを自覚しないようにしていただけ。
 この一年の間に、彼女に声をかけた男は幾人もいた。そして宮廷が崩壊し、その男たちのあらかたが去った後、残ったのは、最も控えめに、そして誠実に自分に接し続けていた、目の前のこの男だけだった。
 緋焔騎士団副長、エスター・メイランロール――あまりにも自分とは釣り合わなさすぎる、厄介すぎるこの男。
「貴方は何を見ているというの? 私がどんな生まれをして、どんな育ちをしてきたのか。この肌の色を見ても判らないというの?」
「確かに私は貴女のことを何も知らないんだろう。だからこそ知りたい、打ち明けてほしい、貴女の傷を分かりたいと願うことは、そんなにも傲慢なことなのか?」
 エスターの言葉に、ベリンダはかっとした。その怒りがどこから湧いてくるのかも判らず、彼女は勢い込んで立ち上がると言い捨てた。
「笑わせないで。貴族の貴方が、娼婦の私と何を分かち合うって? そんなことを言われるくらいなら、一晩幾らなら体を買えるのかと聞かれた方がましよ」
 ベリンダの言葉を聞いた瞬間、エスターの顔にぱっと朱がさした。延ばされ、振り上げた手が何を意味するのか――次に来る痛みを予測してベリンダは反射的に身をすくめ、そして思いがけない事態に目を白黒させた。
 エスターの両腕に囚われ、抱きすくめられ、ベリンダは声を上げる。
「……いきなり、何を……」
「殴りかけたのを必死に思い止まったんだから、これくらい我慢してください。自分がそれだけのことを言ったってこと、判ってないでしょう、貴女は」
「そんな勝手な……」
「私が貴女のことを知らないのと同様に、貴女だって私のことを知りもしないでしょう。貴女が私のことをどんな人間だと思っているかは判りませんが、私は清廉でも高潔でもない。汚辱にまみれ、一度は泥の中に沈んだ。団長に掬いあげられなければ、その汚泥の中で今頃腐りきっていたでしょう。本当は騎士を名乗ることすらおこがましい、そんな男です。誰かを愛し、愛されたいと願う資格などないと……でも」
 抱きしめた腕、背に回された指が、長い黒髪を絡め捕る。
 エスターの声は震えていた。
「貴族だから何だというんです。同じように生まれて、こうして言葉を交わせて、触れることも抱きしめあうこともできるのに、何が違うというのですか。貴女が傷つくように、私だって傷つくし、貴族が無条件に尊いのならば、今のこの国のありさまは何です。私利に走り、民を苦しめ、いたずらに国をかき乱しているのは、一体誰だというんです」
「エスター卿……」
「貴族なんて、身分なんていらない。そんなもの、何も生みはしない」
 激情に揺れる声。後は何も言わず、ただエスターはベリンダを抱きしめ続けていた。そんな彼に、ベリンダももはや抗いはしなかった。
 だが、彼女の心に去来するのは、いつものあの違和感。
 ひどく落ち着かない、引っかかりを残す、その感覚。
 違う、と自分の奥底が叫ぶ。
 エスターはやがて落ち着くと――覚悟を決めると、そっと彼女を放し、その琥珀の瞳を見つめた。
「侯妃と団長は、王政の廃止とアルバの共和制への移行を進めています。いずれ、身分も貴族もこの国からなくなる。人は本来あるべき自由を取り戻す」
「だけど、それは……」
「容易ではないことは知っています。しかし、ラディアンス派とフレンシャム派を打ち破れば――アルバ全土を統一できれば、光は見えてくるでしょう。そのために、私は剣を取って戦ってきます」
 戸惑うベリンダに、エスターは静かな口調で告げた。
「ティスリンへの派遣師団の指揮を任されました。一両日中には出陣することになるでしょう。冬が近い――もたもたしていたら、現地で冬営することになる。それで、ベリンダ」
「……はい」
「戻ってきたら――いいえ、この内乱が全て終わって、貴女が私を屈託なく受け入れてくれる日が来たらでいい。そんな日が来たら、私の妻になってくれませんか?」
 突然の言葉だった。しかしそれは、ある程度予想していた――恐れていた言葉だった。言葉もなく佇み、困り果てているベリンダに、エスターは跪くと、手の甲に口づけた。
「ゆっくり考えておいてください。いつまででも、待っています」
 言い残し、去っていくエスターを見送り、ベリンダは脱力したようにベンチに再び座り込む。目の前には散りゆく黄色の薔薇。
 ぽたり、とまた一枚、その重い花弁が落ちる。
 もしかしたら、うまくやっていけるのかもしれない。そうも思った。エスターの妻になり、騎士団と縁故を結び、そういう形でアイラシェールと関係をつないでいくのも、またいいのかもしれない、と。
 だがそれが、上辺だけの考えであることもまた、ベリンダには判っている。
 ――貴女と私と、何が違うというのですか。
 エスターの言葉が耳にこだまする。そして心は叫ぶ。
 違う、と。
 奥底から沸き上がり、心を占めてやまない違和感の正体を、ベリンダはようやく悟った。
「それは夢想なんだよ……エスター」
 ベリンダは、冷徹な目で、エスターの消えていった先を見つめる。
「あんたには、平等の意味が――自由の本当の意味が、判ってはいないよ。だって、民は」
 民衆は。
「そんなこと、望んではいないんだよ」

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