それでも朝日は昇る 9章2節

 その病は、コレラと呼ばれる。古くから大陸東側の異教国――特にヘルモーサで猛威を振るう風土病として知られていた。
「それが突然、境界線を越えて西に押し寄せてきたのが、1195年。僕が生まれる二年前のことだ。東のヘルモーサから始まった大流行は、近隣の国々を呑み込み、ついにはアルバにも伝播した。症状は、今見てきた通り。極端な脱水症状で青ざめるせいか、それとも死斑のせいか、いつしかこの病は『神の白い手』や『黒死病』のように『青い恐怖』と呼ばれるようになった」
 歴史学に転向したために現場から離れていたが、医師免許を持っていたために駆り出されていたリメンブランス博士は、その時の様子を恐れをもってカイルワーンに話した。
「当時の医師たちも、識者も、高をくくっていた。東の程度の低い国の病が、文明国で清潔なアルバに伝播することなんてないと。だが、現実のアルバは、押し寄せてきた病になすすべもなかった。点々と町村が冒されていき、アルベルティーヌで災禍は頂点に達した。最初は貧民や職人が住む密集地で多くの死者を出し、その後に流行は貴族や王侯の住まう街の中心部へと移動した。貧富に関わらず病は襲い、アルベルティーヌは混乱の極みに達した。勿論僕の父を含めた医師たちも、全力を持って原因の究明と治療に当ったけれども、何一つ有力な手を講じることができず、日一日と街には遺体が積み上げられ、埋葬が追いつかなくて、順番待ちの列が墓地に延々並んでいたと……そんな有様だったと、父は言っていた」
 カイルワーンが告げる未来の出来事に、カティスは蒼白になった。だが、話はまだまだ終わりはしない。
「民衆は怒りと恐怖を晴らす相手を――生贄を求めて、様々な暴虐を起こした。何の手だても打てない苛立ちから医師を、治安維持に出動しては混乱する市民と衝突した治安担当者を襲い、暴動は病に冒されていない人の命を奪った。そして病を毒のせいだと信じた一部の人間によって、あらぬ濡れ衣を着せられた罪もない人々が虐殺された。こうしてアルベルティーヌは白い汚物と、遺骸と、そして血に埋めつくされ、この一年だけで病絡みでの死者は一万二千人にも登った」
「一万、二千……」
「それも、アルベルティーヌだけでだ。アルバ全土となれば、どれほどの死者が出たのか、数える術もない」
「そんな恐ろしい病が、あれだというのか……」
「僕だって信じたくはない。青い恐怖がアルバに入ってくるのは、まだまだずっと――そう、二百年も先の話のはずなんだ。その二百年後だって、なんの手だてを講ずることもできずに、それほどの死者を出した。それが……今、ここにある。現実にここにあって、死者を出している」
 二人の間に、渇いた沈黙が流れた。お互いがお互いの顔を見、助けを求め――だが何ができようか。
「どうして、って叫びたいよ。そんなはずがない、あり得ない、って叫んで、見ないふりをしたいよ。だけど現実に今、目の前に患者がいる。そして村人に次々移っている! 記録に残っていない、だから他の村に――土地に伝播なんかしないって高をくくることは、本当に許されるだろうか」
 そしてカイルワーンは、ゆっくりと己に言い聞かすように言った。
 その破滅に到る言葉を。
「青い恐怖を始めとした伝染病が、どうして人から人に移るのか、二百年後の医学でも判っていない。ただ判っていることがあるとすれば、人から人へ移るのだから、患者は封じ込んで隔離しなければならないということだけだ」
「カイルワーン、お前、まさか……」
「青い恐怖は、ここで封じ込まなければならない。たとえ、そのためにサンブレストの人たちが犠牲になっても」
 かたかた、とカイルワーンの体が震えた。自分の告げる言葉の恐ろしさに、芯から体が震えていた。
 けれども言葉は止まらない。
「大陸統一暦1000年四月五日、サンブレストは国軍によって――アレックス侯妃と緋焔騎士団によって焼き払われる。村人は一人残らず殺され、遺体を焼かれた。これが後の世に言う『サンブレストの大虐殺』――僕が確かめたかったことの、全てだ」
 ごくり、とカティスは生唾を呑み込む。理解は恐れを生み、それは彼を凍りつかせる。
「僕はこれを止めたかった。アイラがどうしてこの罪に踏み込むのか知りたかった。そして……結果がこれだ。止められない――これでは止められない! 確かにそれは虐殺だ。サンブレストの村人に、病にかかった人たちに、何の罪もありはしない。殺されなければならない謂われはない。だけど、だからといってここで見過ごせば、アルバ一千万の国民までもが危険にさらされる!」
 栄養状態が今より遥かによい1195年のアルバで、万単位の死者が出た。それが今、アルバ全土に広がれば、一体どうなる――それは二人にとって、明白な恐怖。
 答えは判りきっている。
「今は三月――まだ人の動きは盛んじゃない。だがもう少し暖かくなれば、人は一気に動き始めるぞ! ここは確かに主要じゃないが、センティフォリアに抜ける街道の一つだ。春になれば、必ず少なくない数の人間があの村を通る。そうなれば、必ず誰かが病を外に持ち出す! そうなれば……病が広がれば、アルバはどうなる……。ただでさえこの飢饉で、今にも倒れそうな人たちがあふれている、このアルバは」
 それは選択。本来人間が下すことの許されるはずもない選択。だがそれをカイルワーンとアイラシェールは突きつけられ、そして。
 カイルワーンは、それを下す。
 不意に笑い声がこぼれた。それは己を嘲笑う、渇いた空虚な笑い。追いつめられ、己の下した選択に耐えきれずにひび割れてしまった、カイルワーンの狂いだしそうな心の鏡。
 もう泣くこともできない。自分を慰めてやることもできない。
 だとしたら、笑うこと以外に何ができようか――。
 運命を変えるだなんて。彼女を救うだなんて。自分は何ておこがましいことを考えていたのだろう。この僕が――彼女を追いつめ、殺すために用意された繰り人形のこの僕が。
 彼女のためなら何だってできる。彼女のためならこの身などどうなったっていい。そう言い続けた僕が、彼女と一千万の人間を秤にかけて、そして見も知らぬ人間を選ぶ。彼女が破滅に走っていくと知っていて、それを敢えて見過ごす。
 あまつさえ、彼女を罪に押し出す。
 僕は何をやっているんだ。何のためにこんなところまでやってきたのだ。
 何のために、時さえも越えたというのだ――。
『自分のため。自分の虚栄のため。違うかい? カイルワーン』
 声が聞こえた。優しく甘く、彼を嘲笑ういつもの声。憎く恨めしく、そして何よりも恋しいその声音に、びくりとカイルワーンは身を震わせた。
『愛している。君のためになら、世界中の全ての人間を敵に回しても構わない。その言葉の欺瞞にやっと気づいたかい。なんでアイラシェールがお前から逃げたのか、こんなところまであの子を追い立てたものが何だったのか、やっと判ったかい? あの子は全部判っている――お前の薄汚い魂胆など』
「それは……」
『ほら、目をちゃんと開けて、自分の本性を見な。救国の英雄と讃えられる、己の本性を。お前は、多くの人に誉めそやされるためなら、自己顕示のためなら、罪もない人々を手にかけることも、愛しいと言い続けた相手を罪に押し出すことも、構いはしないんだ。その結果、アイラシェールが多くの人に憎まれて、殺されても、自分が英雄としてちやほやされればそれでいいんだ。それがお前の本性だろう、違うか!』
 違う、と反論したかった。だが、その声が出ない。
 目の前に情景が浮かぶ。コレラが蔓延し、ばたばたと人が倒れていく国。地に倒れた人たちが怨嗟の声を上げる。助けてくれと、誰のせいでこんなことにと。
 憎しみは、誰の元に向かうだろう。憎しみは、彼女の元に向かうだろうか。人々は疫病を流行らせた魔女と呼ぶだろうか――そう考えて、彼は口許を覆った。
 なんて自分は身勝手なことを考えているのだろう。そんなことになる保証が、一体どこにある。それは自分の正当化したいがための勝手な観測ではないか。
 本当は、本当は判っていた。今まで自分が『アイラシェールのため』と口にし、そしてやってきた全てのこと。それが本当は、全部自分のためだったことを。
 愛していると言い続けたその言葉さえも。
 自分を今まで駆り立てていたものの正体。それをカイルワーンは、本当は知っている。
 それは『愛』ではない。
 『依存』、というのだ――。
「カイル……? カイル、どうした?」
 突然嗤い出したかと思うと、固まってしまったカイルワーンに、カティスは訝しげに声をかける。肩に手を置かれた瞬間、カイルワーンの奥底から衝動が猛然とこみ上げてきて、堪えきれずに体を折る。
 それは凄まじい勢いの吐き気。朝無理矢理詰め込んだ粥を吐き出し、胃が空っぽになっても、酸い臭いのする胃液を吐き続けても、まだ止まらない。
 ぎりぎりと、鳩尾の付近が痛む。
 そばについているカティスにも、どうすることもできない。ただうずくまって吐き続けるカイルワーンの肩を抱き、背中をさすり続け――そして。
 カティスはその瞬間を、見た。
 胃液も何もなくなって、それでも咳き込むカイルワーンの口から不意にあふれ、地面を、衣服を汚したものを。
 どす黒く変色し、酸い臭いのするそれ――紛れもない、血を。
「カ……イル」
 呆然と名を呼んだカティスに、カイルワーンはひどくぎこちなく振り返った。
 口許を、両手を吐いた血で染め、ただ彼もまた呆然と、カティスの顔を見返した。
「……どう、しよう……」
 カイルワーンは、血に染まった己の両手のひらを見つめて、そう呟く。
 それ以外の言葉も、思いも、何も浮かんでこなかった。
 自分に何が起こったのかは判っていた。けれども、それに対してどうしたらいいのかが浮かんでこない。
 どうしよう、と麻痺した頭がぼんやりと言葉を紡ぐ。
 ただひたすら、痛くて、苦しくて、気持ち悪くて……目の前が、視界がかすむ。
 ぐらり、と体が傾いた。慌てて手を出して崩れるカイルワーンを支え、そしてカティスは息を呑む。
 腕の中のカイルワーンは、白目を剥いて意識を失っていたのだ。
「カイル! カイルワーン! しっかりしろ! 頼む、起きろ! 頼むから、起きろっっ!」
 見るかげもないほど狼狽し、カティスは昏倒したカイルワーンの肩を、がくがくと揺さぶる。だが一向に意識を取り戻す気配のない彼に、わなわなと体を震わせた。
 カティスには、カイルワーンの身に何が起こったのか、さっぱり判らなかった。どうしてやればいいのかも、また。
 ただ一つ判っているとすれば、これが尋常ではない症状だということ。
 そして、サンブレストのことも含めて、今自分が退っぴきならない状況に置かれているということ、ただそれだけは――。

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