それでも朝日は昇る 9章9節

 カイルワーンとアイラシェール。カザンリクとアルベルティーヌ。二つの場所と、少しだけずれた時間上で、二人は全く同じ心の闇に落ち込み、それぞれ血を流して倒れ伏した。
 そしてそれは、この二人を心の底から思う親友二人を、全く同じ事態と苦悩に直面させたことを意味する。
 カティスがカザンリクの森で、カイルワーンの告白に苦しんだように、ベリンダもまたアイラシェールの全てを受け止めることになる。
 彼女は、カティスと同じ運命を分かつ。
 アイラシェールは発見が早かったために、大事には至らなかった。この一件は発見者のベリンダと、悲鳴を聞きつけて事態を知り、人を呼びに走ったマリー、そして処置をした侍医の三人の間で、秘することを申し合わせた。
 そしてアイラシェールが意識を取り戻した時、ベリンダは彼女と向かい合う。
「逃げよう」
 ベリンダは、そう言った。
「食べていくことならば、どうにでもなる。一緒にここから逃げよう――もうアイラが、何もかもを背負う必要なんてない」
 真摯に告げられた言葉に、アイラシェールの胸が痛んだ。そうできたらどれだけいいだろう、と素直に思った。
 だが。
「逃げても、何も変わりはしないの。逃げて、歴史を変えれば、私は消えてなくなる。ただそれだけ」
「アイラ……?」
「私の目の前には、運命がある。何一つ変えることなどできない、絶対の定めが。残された選択肢はただの二つ――運命を全うして殺されるか、運命を変えて自分の存在もろとも全てなかったことにするか」
 小さなため息と共にもらされたのは、ベリンダが今までずっと知りたいと願いつづけた真実。
「六月になれば、魔女の――私の追討を名目に兵を挙げたラディアンス伯とフレンシャム侯の軍勢が、まずは共通の敵である私を倒そうと、イプシラントで合流する。そしてそこに、徴兵されて集った多くの民の歓呼の声に押されて、真の王が――英雄が現れる」
 それは以前、彼女が語ったこと。正しく記憶を取り出して、ベリンダは問いかける。
「それが、市井におられるウェンロック陛下の弟君――」
「やっと判った。貴族が、あの方を王にしたのではない。あの方に流れる血が、あの方を王にするのでもない。あの方を王にしたのは……民衆の声なんだわ」
 ラディアンス派とフレンシャム派の貴族が、何の確証も後ろ楯もないカティスをなぜ王位継承者と認めたのか。その長い間の疑問が、やっと解けた。
 それは、認めざるを得なかったからだ。
 我らを救え。国を割る貴族の争いから、飢えから、貧困から、侵略してくる諸国から。
 国に満ちた声なき声が、戦場にかき集められた名もなき兵の怒号が、貴族の思惑も利害関係も全て押し流し、一人の青年を玉座へと突き上げたのだ。
 なぜこの政変が革命と呼ばれるのか――正統の王位継承者であるカティスが即位するという結末の、一見収まるべきところに収まったように見えるこの政変が、なぜ革命と呼ばれるのか、その真実を知ったと思った。
 彼は、王にしてもらったのではない。彼は、ラディアンス伯とフレンシャム侯から、その手で王位をもぎ取ったのだ。
 カティスはイプシラントを通らずに王になることなどできない。ラディアンス派とフレンシャム派が自分を滅ぼすことために、仮初めの共闘を選んだあの一時をおいて他に、彼が王になることなどできはしないのだ。
 魔女とは、原因ではない。諸悪の根源でもない。
 カティスが立つための前提である、両派共闘の大義。そして、後の世に伝説を残すために必要だった、大義だ。
「陛下は国を救わなければならなかった。真実レオニダス陛下の落胤であるか確証のないカティス陛下は、国を救う英雄になることでしか、王にはなれなかった。だから六月十三日に私を殺し、国を魔女から解放して、初めて陛下は王として国に迎えられる。ロクサーヌ家が、王家としてこの世に生まれる」
「ロク、サーヌ――」
 ベリンダが息を呑むのが判った。目を見開いて自分を注視する彼女に、アイラシェールは諦観を浮かべて、小さく頷いた。
「アルバ王国ロクサーヌ朝十二代王、クレメンタイン・ロクサーヌの三女、アイラシェール・ロクサーヌ――それが私。先王の血を引き、兄王を殺した魔女からこの城と国を解放した英雄王、カティス・ロクサーヌ初代王の直系の子孫。私を殺して、王になる人の、遠い娘――」
 ふふっ、と渇いた笑いがこぼれた。自分を嘲笑うアイラシェールのその声は、凍りついたベリンダを撫でる。
「信じられないでしょう。信じてくれなくてもいい。頭がおかしくなったのだと、そう思ってくれていい。私だって、自分の頭がおかしくなったのだと思いたい。すべて自分の妄想なのだと、そう思うことができたら、どれだけ……どれだけいいか」
「アイラシェール……そんな」
「私は六月十三日に殺される。けれども、その運命から逃げ出し、歴史を変えれば――陛下が即位できなければ、私は生まれてはこれない。カティス陛下が即位し、私につながる王子をもうけなければ、私は生まれてもこれない。それが私の運命――三ヶ月後に殺されるか、今すぐ消えてなくなるか、ただそれだけ――ただそれだけしかないのよ!」
 笑い声が寝室に響いた。たがが外れたように甲高い声を上げて笑うアイラシェールに、ベリンダはかける言葉を持たない。
 アイラシェールがこの二年、堪え続けてきたもの――心の中にあり続けた恐怖。彼女が戦い続けてきたもの。その真意。その全てを知れば、何も言うことができない。
 彼女が預言者であるということ。歴史を変えたい、運命を変えたいと願ったこと。そのあまりの重さと痛さ。それが人に背負いきれるものだとは、ベリンダには到底思えない。
 過去に来た彼女が、どれほど切実に歴史を変えようと――この死の運命から逃れようとしたのかは、切ないほどに判った。
 だが、さらにその前段階――そもそもの始まりは。
 判らない、と思った。
「どうして、過去に来たの……?」
 ベリンダはしばし迷った後、そう問いかけた。狂ったように嗤いつづけていたアイラシェールは、その言葉に、ぴたり、と笑いを止めると、ベリンダを見た。
 信じられないものを見るような目をしたアイラシェールに、ベリンダはたじろぐことなく問いかける。
「アイラが過去に来てから、運命を変えたいと思った理由はよく判る。でも、その前が判らない。アイラは本当は、何を変えたかったの? 自分の時代も、世界も、国も……何よりも、一番大切な人と、自分の人生までも捨てて、何を変えたくて過去に来たの?」
「ベリンダ……何を言っているの」
「好きな人を――カイルワーンを自由にしたかった。自分に囚われる彼の運命を変えたかった。アイラはそう言ったね? 確かに彼は、魔女に魅入られた人間として、憎まれたのかもしれない。追われたのかもしれない。だけどそれは、彼自身の選択でしょう? 彼自身が、望んでその運命を選んだんでしょう? それなのに、どうしてアイラがそれを歴史を変えてまで、なかったことにしようとするの? 彼が愛してくれることが嬉しくなかったの? そこまで好きになった人が、自分を愛していると言ってくれたことを、どうしてなかったことにしたかったの?」
 ベリンダの問いかけは、アイラシェールの心の一番深いところをえぐった。
 そこには、あの日と同じ、小さな自分が泣いている。
 震える唇が、言葉を紡いだ。
「彼に幸せになってほしかった。私なんかと運命を共にするより、もっと他の幸せが彼にはあると思った。だから……」
「どうして自分のことを愛してくれた人を、その言葉を、信じることができなかったの」
 決して責める風ではなかったが、寂しそうな表情で、ベリンダは言った。
「人は、自分で自分の不幸を選ぶことはないと思う。幸せになろうとして、自分の人生を選択するのだと思う。それが傍目に、どんなに不幸に見えたとしても」
「ベリンダ……」
「彼は、彼にとっての幸せを考えて、アイラと共に生き、共に滅ぶ道を選ぼうとしたんだと思うよ。私には彼が不幸だったなんて思えない――愛している、共に死んでも構わない、とまで言わせる相手に出会えたことが、幸せでなかっただなんて、私には到底思えない」
『幸せの形は一つじゃない。そうだろう? アイラ』
 彼がそう言ったのはいつのことだったか。それは遠い昔――ずいぶん遠くなってしまった昔のこと。
 彼にとっての幸せとは、何だったのだろう。
 自分はどうして、彼の言葉を――彼の幸せを、信じてあげられなかったのだろう。
 いや、それは違う。
 信じられなかったのは、彼ではない。
 彼ではないのだ。
「……どうして、信じろ、というの」
 ぽつり、と落とされた言葉は、ようやく真実を語る。
「私が愛されてるなんて、私が人を幸せにしているなんて、どうして信じられるの……この私が、魔女の私が」
 本当に信じられなかったのは。本当に許せなかったのは。
「私を生んだことに耐えられなくて、実の母親まで狂わせた私を――私に他人に愛される価値があるなんてこと、どうしたら信じられるというの……」
 自分、自身だ。
 小さな子供が泣いている。己が生まれてしまったことが、この世に存在していることがたまらなく辛くて――申し訳なくて、泣くしかなかった小さな子供がそこにいる。
 そのことを自分に告げたのは――もらしてしまったのは、カイルワーンだった。おそらく彼が口をすべらせなければ、自分の周りの誰一人、そのことをあんな形で打ち明けるつもりはなかったに違いない。
 きっかけは、自分の我が儘だった。自分の境遇も何も知らず、自分がどれほど周囲の人たちに恵まれていたのかも知らず、言い放ってしまった一言が全てのきっかけ。
 自分が十歳、カイルワーンが十二歳。己がとても生意気で、手に負えなかったあの一時。
『コーネリアは、私の本当のお母さんじゃないから、そんなこと言うんだ! 本当のお母さんじゃないから、私のこと真剣に考えてくれないんだ!』
『アイラ!』
 自分の言葉に、激昂したのはカイルワーンだった。自分に対して、あんなにも彼が怒りをあらわにしたのは、おそらくこの時ただ一度だけだったろう。
 その真意は、知るよしもない。だが彼は、当のコーネリアがいいと言って止めるのも聞かず、顔を真っ赤にして自分に詰め寄ってきた。
『アイラ、コーネリアに謝れ! 実の親じゃないからどうだって言うんだ。コーネリアがどれだけアイラのことを思ってるのか、どれだけ心を砕いてるのか、判らないのか! 自分のことを一番愛してくれる人が、大切にしてくれる人が、本当の親だろう! アイラはあんな母親の方が――アイラのことを認めもしないで、自分の世界に逃げ出した王妃の方が、コーネリアより大事だって言うのか!』
『カイル!』
 鋭い叱責が飛んだ。切迫したコーネリアの声に、カイルワーンははっと口を押さえる。
 自分が欲してやまなかった真実。けれどもそれは、少しも嬉しいことではなかった。
『カイル……それはどういう意味なの』
 血の気が、引いた。
『私は、何なの? 王女だっていうオフェリア姉様の妹で、だから私も王女で……でも、どうしてここにいるの? 父上は、母上は、どうして会ってはくれないの? どうして外に出てはいけないの! ねえ、私は何なの!』
 叫んで泣いて、取りすがって、コーネリアと博士はようやく全ての真実を打ち明けてくれた。魔女の呪いと、恐れのために殺されてきた自分と同じ境遇の子供たち。そして国のため、民心の安定のため、処分されなければならない自分がこういう形で父王に救われたのだということ、そんな自分のために乳母のコーネリアや侍従のカイルワーン、教師の博士が送り込まれたのだということ。
 そして、母が辿った末路。
 全てを受け止めた時、感じたことは色々あった。勿論、恐いと思った。他人に憎まれることが怖かった。殺されるかもしれないと思うことが怖かった。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかとも思った。
 だがそれすら、胸を満たしたあの思いに比べれば、ささいなことだ。
 申し訳なくてたまらなかった。
 自分が生まれてきたことが。
 今、こうして生きていることが。
 自分が存在しているということが、ただひたすらに申し訳なくてたまらなかった。
「私が母上を狂わせた。私が父上や姉上たちから、母上を奪った。私がいなければ、みんな幸せに暮らしていけたのに……私が生まれなければ、何もかもうまくいっていたのに、私のせいでみんなおかしくなってしまったのに、その私のどこに愛される価値があるって言うの? その私がどうして人を幸せにできたって言うの?」
 カイルワーンの求婚を拒み続けた思いも、差し延べられた手を振り払った思いも、歴史を変えようと願った真意も、全てがそこにたどり着く。
 自分の価値が信じられなかった。自分が彼を幸せにできると信じることができなかった。だから彼の愛を受け入れられなかった。彼の愛を、幸せを、信じることができなかった。
「私は歴史を変えたかったんじゃない……本当はそんなこと、考えてはいなかった」
 ぽたり、と落ちた涙と言葉は、アイラシェールの心の一番深い場所からこぼれた、最後の本音。
「私はただ、逃げたかっただけなんだ。彼の前から、消えたかっただけなんだ。彼の優しさがいたたまれなくて、自分が彼のそばにい続けることがたまらなく罪悪に感じられて――だから逃げ出しただけなんだ!」
「アイラ」
「愛してるなんて、言わないでほしかった。守ってなんてほしくなかった。彼が優しければ優しいほど、彼が何かをしてくれればしてくれるほど、私はそれがたまらなくて……いたたまれなくて……だけど、私には何もできなくて。何もしてあげられなくて」
 だけどそれでも彼のことが好きだった。そばにいてほしかった。
 我が儘だとは判っている。傲慢だとは判っている。それでも止められなかった思い。
「……だけど、もういい。カイルワーンはどこにもいない。この世界の、どこにもいない! 今さら何を思っても、何をしても、何もかもがもう遅い!」
 越えてしまった時の壁。隔たる時間は、もはや取りかえしがつかない。
「ベリンダ……もういい、もう疲れたの……。どうせあと三ヶ月で死ぬんだもの。殺されてしまうんだもの。だったら、今死んでも、同じことでしょう……?」
「……それは……」
「もう、沢山……」
 枕に身を沈めて泣き伏したアイラシェールに、もはやベリンダは何も言えなかった。何も言わずに手を伸ばし、その小さな頭を撫でてやりながら、静かに思った。
 希望を、どこに見いだしたらいいだろうか、と。
 生きていく希望を、どこに見いだせばいいのだろうか、と。
「己の価値……か」
 泣き疲れて眠ってしまったアイラシェールを見下ろし、ベリンダは小さく呟いた。その顔には、いっぱいに苦いものが浮かんでいる。
 視線が、宙を泳いだ。
「アイラでも、そんなことを言うの……? アイラがそんなことを言ったら、私はどうなるの……?」
 脳裏を支配してやまないのは、過去の記憶。封じて封じきれない、忌まわしい思い出。
 カイルワーンの言葉がカティスの記憶を揺さぶったように、アイラシェールの言葉はベリンダの過去もまた揺さぶる。
 今となっては、顔も思い出せない。思い出されるのは、自分に振り下ろされた平手と、それがもたらしたあの痛みだけだ。
『汚らしい! お前の顔なんか、見たくもないんだよ!』
 娼館での暮らしが辛くて――そこで毎晩強要される勤めが苦しくて、駆け込んだ場所。そこには、夢に見たような温かな家庭があった。
 窓からのぞいた小さな家。貧しくはあったが、炉には赤々と火が起こり、それを一家が囲んでいた。
 父親がいて、小さな子供がいて、その中で母は笑っていた。
 その笑顔が見る間に曇り、憎しみと嫌悪に満ちたのは、自分の姿を見留めた瞬間。
『二度とここには来るんじゃない! お前のことがあからさまになったら、私がどうなると思ってる!』
 容赦なく殴られ、蹴られ、捜しにきた娼館の男たちに向かって放り出された。その剣幕に戸惑った男たちに、母は口汚く言い捨てた。
『あんたたちも、足抜けなんてしないようにちゃんとそいつを見張ってな! そんな人でなしの子供、外に出されたら迷惑なんだよ!』
 夢を見ていたわけではなかった。決して夢を見ていたわけでは。
 喜んでくれるとは思っていなかった。笑ってくれるとも。だが、ここまで罵られ、殴られ、見放されるとは思わなかった。
 ここまで憎まれているとは、思わなかった。
 娼館に連れ戻され、折檻を受けている間中、ずっと考えていた。
 契約につながれ、来る日も来る日も辱めを受けながら、ずっと考え続けた。
 何のために生まれてきたのだろうと。
 母を苦しめ、不幸にするためか。こうしてこんなところで、男の慰み物になり続けるためか。人の蔑みと、嘲笑と、偏見と差別を集めて、指を差されるためか。石を投げられるためか。
 そうだとしたら、自分は――。
「消えてなくなりたいのは……私の方よ」
 己の価値を信じることができないのは――信じる以前に、あるとすら思えずにいるのは、むしろ自分の方だと言うのに。
 むしろ、自分の方だというのに――。

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