それでも朝日は昇る 9章11節

 小さな体が震え、重い目蓋がゆっくりと持ちあげられる。薄明の中、黒い目が虚ろに緑の目を見た。
 二人がカザンリクに戻ってから、数日が過ぎた。その間カイルワーンは幾度か目を覚まし、そしてまた昏睡に陥ることを繰り返していた。
「……カ、ティス……」
「水、飲むか?」
 嗄れた声に、カティスは優しく問いかける。ぎこちなくカイルワーンが頷くのを確かめて、カティスはカップに水を汲んでくる。
 半身を支えて起こしてやると、渇いてがさがさになった唇にカップをあてがってやる。カイルワーンの喉は一心に注がれる水を飲み干し、やがて渇きが癒されると、深いため息をもらした。
「もう少し寝るか?」
「ううん、いい。起きてた方が楽な気がする」
 壁に身を預けると、カイルワーンは力のない声で言った。
「色々な夢を見た……」
 その夢の中身を、カティスは聞かなくても判るような気がした。
 この数日、うなされた彼が上げた苦痛の声は、悲鳴は、まだ耳に残っている。
「俺も、色々なものを見たし、思い出したよ」
「カティス……?」
 突然の言葉に、要領を得ず問い返すカイルワーンに、カティスは苦笑で応えた。
 とうとうカティスは、意を決した。
 病の床から、ようやく起き上がった人間にする話ではない、ということは彼にも十分判っていた。だが時間がなかった。
 もはや時間がない。自分の心にも、彼の心にも。
 伝えることは、今伝えなければ。
 一方、この日から少しだけ後になる同じ瞬間、ベリンダもまた病床のアイラシェールと向かい合う。
 扉の向こう、そのずっと先。王宮の中心では、フィリスが中心となって派兵の準備が進められている。
 サンブレストの大虐殺――もはや、止めようのない惨劇を前に、ベリンダは残された時間を思う。
「ベリンダ、フィリスたちは……?」
「もうじき、みたいだね」
 言葉少なく語ったベリンダに、アイラシェールは無言で視線を落とした。そんな彼女に、ベリンダは静かに言った。
「決して楽しい話じゃないけれども、あたしの話、聞いてもらえるかな」
「え……?」
 こうしてカティスとベリンダは、己の最も深い場所へ、足を踏み入れる。
「俺が十の時だ。お袋が病気になってな。金もなくて、医者にかかるどころかろくに食うこともできなくて、死にかけたことがある」
 カイルワーンは絶句した。一年ほど前に、アンナ・リヴィアが語ってくれたこと。
 カティスの根底。
 それを彼が自ら口にしようとしている。
「俺はそれで金の無心をしに、城に行った」
「それは……レオニダス王に、会いに行ったということなのか」
「半分くらいは、そうかな。そこで別の男でも、自分の父親が見つけられれば御の字、と思ったことも事実だし、別に父親じゃなくても、お袋の昔の知り合いが見つけられて金を貸してもらえればそれもいい、と思ったのも嘘じゃない。でもやっぱり、自分の父親だと噂される奴に手を差し延べられて、すまなかった、大変だったろうと言ってほしかったのが本音だろうな」
 たとえその結果、自分がどうなってもいい、そう思っての道行き。
 だがそれが、子どもの浅知恵だったことをすぐに思い知ることになる。
「その結果、どうなったかは、お前になら予測はつくだろう。お前が越えられなかったように、俺にもあの大門を越えることはできなかった。門番にさんざ馬鹿にされ、追い払われた。お前みたいな見すぼらしいガキが王子だなんて笑わせる、と言われた。――惨めだった。俺はあの時以上に惨めな思いをしたことは、今まで一度もない」
 淡々と語る言葉が、カイルワーンの胸に迫った。息を呑んで自分を見つめるカイルワーンに、カティスはなおも苦笑を浮かべて続ける。
「俺はそこで突きつけられた。お袋が俺を生むためになくしたものが、どんなものだったのかということを」
 母にとっての幸せが何だったのか、自分には判らない、といつもカティスは思う。不幸だなんて彼女は決して言わない。だが、本当はどうなのか。
「お袋は俺にことあるごとに言う。金だけが幸せじゃない。俺と二人、ささやかでも平穏に暮らしていければそれでいいのだと――その言葉も嘘ではないと思う。お袋が俺を紛れもなく愛してくれていることも、認める。だからこそ、俺はそのことがたまらない。お袋は、どうして俺を愛することができたのかと。これほどまでに人生を台無しにした俺を、どうして愛することができたのか、実は疑問だ」
「そんな……何を言うんだ」
「俺を生む道具にされ、人生を目茶苦茶にされたお袋は、俺を恨んだっていいはずなんだ。それなのに、あそこまで愛情を注いでくれた。自分のために尽くしてくれた。だからこそ、俺はたまらない。自分がここに存在していることに、罪悪感を覚えてならない」
 極めて冷静にささやかれた言葉に、カイルワーンが凍りついた。愕然として己を見上げる彼に、カティスは笑ってさえみせる。
 それは、カイルワーンが見せた諦観の表情に、よく似ていた。
「カイル、お前にも判ってるんだろう? 俺はおそらく、レオニダス・ブロードランズという人物に、王位を継がせるために作られた道具だ」
「カティス……そんな、それは……」
「お袋が、家に宝剣を隠している。大粒のサファイアがはまった、ブロードランズ家の家紋が入った宝剣だ。お前なら判るか? あれはきっと家宝か国宝だ。もしお袋が盗んできたのでなければ、それの意味するところは、一つだ。俺を王族と認める――そういうことだ」
 自分は何者なのか。自分はどうして生まれてきたのか。問い続けて、決して答えてもらえなかった疑問。そこには決して認めたくなかった仮定がある。
 だが、もうそこから目をそらすことは、できない。
「仮定は三つだ。お袋がレオニダス王と愛し合い、俺を身ごもったが、王妃やウェンロック王を恐れて城を出た。その時、レオニダス王が俺のためにあの宝剣を下した。二つ目は、とにかく跡継ぎを決めなければならないために、城の誰かと関係を持って妊娠していたお袋に宝剣を下し、腹の中の俺を王子にしてしまおうとした。だがこれらは考えにくい。ここまでかたくなにお袋が親父のことを話さずにきた理由が説明がつかないからだ。真実を知ったところで、市井にいる俺ならば、どんな道でも選ぶことができるからだ」
 それは以前、カイルワーンがアンナ・リヴィアに憤って言ったこと。知ったところで、何が変わったというのかと。そのことに、カティスもまた気づいている。
 だとしたら――結論は、一つ。
「おそらくお袋は、俺を孕ませられたんだろう。王という立場から関係を強要されたのか、それとも手込めにされたのか……おそらく真実はそういうことだ」
 それは、カイルワーンが最も恐れていた――第三者である自分でさえも恐れて、決して認めたくなかった仮定。カティス本人に、気づいていてほしくないと願っていた仮定。
 かたかたと何かが震える音を聞いて、カティスは切なげに目を細めた。つい、と手を伸ばしてその肩を撫でる。
 真っ青な顔をして、震えるカイルワーンを気づかうように――気にするなとばかりに、そっと。
「真実は何一つ判らない。全ては憶測でしかない。ただ、おそらく確かなのは、レオニダス・ブロードランズという人物には、道具としての自分の子が必要だったのだということと、その道具としての俺を生み出すために利用されたのが、お袋だったということだ。だから、アルベルティーヌからの帰り道、運よく乗せてもらった荷馬車の中から星空を見上げた時――そのことに気がついた時、心の底からたまらなくなった。どうして俺は生まれてきたのかと。何のために生まれてきたのかと」
 苦悩に満ち、落ちた言葉は、カイルワーンの心に同じように存在した。
 そしてそれは、同じ運命の線の上にある二人の心にも、等しく存在している。
「あたしが娼館で、初めて客を取らされたのは、七つの時だった。三つの時に娼館に売られて、そういうことを教え込まれてたから、自分が何をしなければいけないかは判ってた。でも、そこであたしが、他の娼婦と同じに扱われることはなかったのね。そう……人間だとすら、思ってもらえてなかったのかもしれない」
 ベリンダは椅子を寝台のそばまで運んでくると、その上で膝を抱えた。
 己の出自を明白に語る、この異彩。己の肌に、己の出自に向けられた蔑視と嘲笑を、ベリンダは皆つぶさに思い出せる。
 忘れることなど、できようがない。
「娼婦は体が資本で、娼館にとっては女自体が商売道具だからさ、娼婦を傷つけたり暴力をふるったりということを決して許しはしない。だけど、あたしの場合は違った。結局、そういうことが好きな男というのは少なからずいて、そういう客に対してあたしはおあつらえ向きだったのね。蔑んで、罵って、それで自分の優越感を満足させるには、あたしは格好の存在だったわけ」
 琥珀の目が、切なそうに揺れる。
「ある日たまらなくなって、娼館を抜け出して、母親のところに駆け込んだ。それでも、助けてもらいたい、と思ったわけじゃ決してなかった。ただ一目見たいと……ただ会いたかっただけだったんだと思う。どうにもならなくてもいい、ただごめんね、と言ってほしかっただけだと、今となっては思うよ。でも、現実はそんなに甘くはなかった。あたしを見た母さんは、悲鳴を上げると凄い形相で掴みかかってきた。罵られ、殴られ、どうして来たのだと責められた」
 自分のことを語ろうとしなかったベリンダの言葉に、アイラシェールは息を呑んだ。そんな彼女に、ベリンダもまたカティスと同じように苦笑を浮かべた。
 己を嗤う以外に、二人は心の底にある記憶を語ることはできない。
「その時、心底思ったのね。ああ、本当に母さんは、あたしを憎んでいるんだなと」
「ベリンダ……」
「自分の身に置き換えてみれば、よく判る。凌辱が、どれほど心に傷を残すのか。その果てに、どこの誰とも知れない、憎い男の子どもを身籠もらされるということが、どれほど忌まわしく辛いことなのか。本当はね、あたしが誰よりもそのことを判ってるの。だから、恨む気は起きなかったけど……だからこそ、申し訳なかった。自分がこの世に生まれてきたことが。この世に存在していることが」
 それは幼い日、塔で泣き狂ったアイラシェールの心の中にあったものと同じ。
「あたしはすぐに娼館に連れ戻されたんだけど、やっぱり騒ぎになったのね。後で聞いた話なんだけれども、どうやらこのことが元で母さんはあたしのことが旦那さんにばれて、離縁されたらしいんだ。それを聞いた時……本当になんてことしてしまったんだと思ったわよ。これじゃ、とことんあたしは疫病神じゃない? あたしはどこまで、自分の母親を不幸にすれば気がすむんだろうって……そう、思ったのよ」
 当時のことを思い出し、ベリンダは疲れのにじむため息をもらした。そんな彼女に、アイラシェールはかける言葉がない。
「ねえ、アイラ、あたしは何のために生まれてきたんだろう。あの時から、ずっとそのことを考えてきた。混血児だと、私生児だと蔑まれて、道を歩いているだけで石を投げられるため? 人間だと認めてもらえることもなく、夜毎に笞で叩かれ、縛られて、まるで獣を扱うように犯され続けるため? ……そうよ、あたしは獣の子よ。だから全部罰なんだって言われたって、我慢できた。だけど」
 遠い場所と分かれた時間の中で、言葉と思いが重なる。
「私生児だと周りの子どもたちにはやし立てられ、石を投げられるためか? 心ない大人たちに、陰口を叩かれるためか? ――いや、自分の痛みなら、何だって甘んじて引き受けられる。だが……」
 心の底、一番深いところに封じ込めた、たった一つの言葉。
 どんなに苦しくても、辛くても、決して口にはしなかった言葉が、せり上がってくる。
「こんな風に、自分を生んでくれた親を不幸にするためだったのならば」
「こんな風に、ただ一人の親を不幸にするためだったのならば」
 重なる、一つの否定の言葉。
「生まれてきたくなど、なかった――」
 それこそが、四人の心の芯に存在する思い。
 こんな結末が待っているのだと知っていれば。
 貴女をこんなにも不幸にするのだと知っていたのならば。
 生まれてなどこなかったのに。
 貴女をこんなに苦しめてまで、不幸にしてまで、生まれてなどこなかったのに――。
 ぼろぼろと、音をたてて涙が落ちた。黒と赤の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、二人はそれを拭おうともせず、ただ目の前の唯一の人を見つめつづけている。
 それは決して同情ではない。そこにあるのは深い共感――誰もが本当に見つめているものは、自分自身だ。
「カイル、俺にはお前の気持ちが判る、だなんて口が裂けても言えない」
「それに、アイラとあたしのどっちがより辛いとか、より不幸だったとか、考えるのも意味のないことだと思う」
「でも、お前があの森の中で、もう疲れた、もう沢山だと言った時、俺ももういい、と思った。お前の話を聞いた時、俺もまた自分のことを思った。そして俺ももう、自分の人生を沢山だと思った。お前に同情したからでも、引きずられたからでもなく、俺は俺自身の真の気持ちで、死んでしまいたい、と思ったんだ。それだけの理由は、俺の中にもある」
「こんなあたしだから、アイラに何も言ってあげられない。疲れた、休みたいんだと言う人に、他人は何を言う権利もない――どれほど、その相手を愛しく思っていたのだとしても。この先生き続けて何があるの? あがき続けて、それで何が変わるの? そう思う気持ちは、あたしの中にもある。何もかも手放し、ゆっくり眠りたい、と思う気持ちをあたしは否定できない」
「そういう俺でも、お前の真の気持ちを、痛みを判るという資格はない。痛みは、苦しみは、自分一人だけのものだ。だが俺には、己が許せない、己が存在するそのことこそが許せない、ということ、それがどういうものなのかは、判る。判ると言わせてくれ」
「自分を許せないから、他人の優しさを信じられない。他人に自分が必要とされているということを――自分の価値を信じられない。アイラの気持ちを判るだなんて無責任には言えないけど、それがどういう気持ちなのかは、あたしには判る」
 こくり、とカイルワーンは小さく頷き、涙に濡れた瞳を一心に向ける。
 アイラシェールは、いたたまれなさそうに顔を歪める。
 そんな二人に、親友たちはこの数日間、悩みに悩み続けて出した答えを口にした。
「判るからこそ、これだけは言いたい」
 カティスとベリンダの、存在がかかった悲痛な叫びが上がる。
「たとえそれでも――それでも、お願いだから、俺がお前のことを思っているということ、お前を思う俺という人間がこの世にいたこと、そのことまで否定しないでくれ」
「たとえそれでも――それでも、お願いだから、あなたがいてくれたことがあたしが救ったのだということ、そのことまで否定しないで」
 カティスの顔が、苦痛に歪んだ。語る声が、苦痛に震えた。
「己の価値を信じろ、だなんて俺には言えない。自分だってそれを信じられずにいるのに。だけど、紛れもなくこの二年、お前がいたことで救われた奴が、ここにいるんだ。そりゃ苦しいこともあったし、ひどい喧嘩もした。罵り合ったこともあったな。だけどそれさえも、俺にとってはかけがえのない記憶だ。俺がお前に感謝する気持ち、お前に救われたという事実、それはお前の中で何の意味も持たないのかもしれない。俺がお前と共にいたい、そう願う気持ち、それはお前をかけらも救わないのかもしれない。そんなものは全部俺の都合、俺の身勝手だ。だがそれでも、言わずにはいられない」
「アイラがあたしに城に来てくれ、と言ってくれたこと、それがどれほどの意味を持ったのか、どれほどあたしを救ってくれたのか、判らないでしょう? 今まで一度だって、あたしを必要としてくれる人なんていなかった。適当な娼婦、一座の一員――姐さんたちが優しくなかったわけじゃない。でも、誰にも代えることのできない、あたし自身が必要だと感じさせてくれることは、遂になかった。だから、アイラが来てくれと、ベリンダにそばにいてほしいんだと言ってくれたことが、どれほど嬉しかったのか、判らないでしょう? このあたし――こんなあたしでも必要なことがあるんだ、こんなあたしでも力になれることがあるんだ、他の誰でもないあたしを必要としてくれる人がいるんだ。そう思ったから、あたしは来たのよ! それなのに、アイラが自分でそれを否定したら、あたしはどうしたらいいの? あたしのこの気持ちは、どこに行ったらいいの!」
 ベリンダが、震えが走る体をなだめ、必死に言い募る。
 カティスとベリンダが、語る言葉は――思いは、一つ。
 二年前のあの日、己を許さず、他人も信じず、凍りついたような日々を送っていた自分たちの前に、彼らは天から降ってきた。
 彼らはこんな自分を信じてくれた。必要だと言ってくれた。心の底から一緒に笑い、泣いてくれたと思った。
 そこには紛れもなく肯定があった。
 自分たちが心の底から欲してやまなかったもの。それをくれた人が、目の前で壊れていく。己を価値のないものと見なして、死に走っていこうとする。
 その気持ちは判る。引き止める権利がないことすら。だがそれでも――だからこそ、心は叫ばずにはいられない。
 それは、彼らによって救われたと感じる自分たちをも――その気持ちまでもを、否定することに他ならないと。
「俺を否定しないでくれ! お前に救われた者がいたことを、楽しいと感じた者がいたことを、そしてそばにいたいと願った者がいたことを……その思いを、俺の思いまでもを、諸共に否定するのだけはどうか……」
「どうか……言わないで……いらないなんて……いらないなんて、言わないで……」
 カティスとベリンダは、泣きはしなかった。だが俯いた顔が、震える声が、その気持ちを痛いほどに伝える。
 沈黙が、下りた。
 薄い払暁の光が差し込む部屋で、カイルワーンは、両手で顔を覆って天を仰いだ。その手のひらから、止めどなく涙の滴があふれ落ちる。
「カティス……どうして…………ったんだろう」
 しゃくり上げる掠れた声に、カティスは彼に身を寄せた。触れ合うほどの近さの中に、噛み殺しきれない嗚咽が響く。
「どうして……母さんは、僕を……愛してくれなかったんだろう……」
 色々なことを語った。己を責める言葉を口にし続けた。だがそれこそが、カイルワーンの本心だと、カティスは思った。
 ごく当たり前の、本心だ。
「僕の……僕の何が悪かったんだろう……」
 そんな彼の言葉に、カティスは首を横に振る。そして、静かに――だが、力強く言った。
「お前は何も悪くない」
 その瞬間、ほんの一時だけ、時間が止まったような気がした。
 ずきり、と胸の奥が疼いた、とカティスはこの時感じた。カイルワーンのために口にした言葉は、それ以上に己の胸の奥を締めつける。
 ああ、そうか、と思った。
 心の深い部分に、すとんと落ちた言葉。
「お前は何も悪くない……そうだ、お前は何も、悪いことはしていない。俺はお前にそう言ってやりたかった。だけど、それと同じくらい、自分にも言ってやりたかったんだ。俺もその言葉を、誰かに言ってもらいたかったんだ」
 この言葉が、泣き笑いのようなカティスの顔が、カイルワーンの中の堰を切った。
 他の誰でもない。彼がそう言ってくれること――彼もまた、許されたいと願うこと。それはカイルワーンの胸をかき回すような切なさをもたらす。
 脳裏に映るのは、沢山の人たちの姿。自分にあれほどまでに優しかった人たちの姿。
 自分は彼らに何ができただろうか、とは今でも思う。でも。
 向けてもらった、優しい言葉の、笑顔の意味。
 胸にこみあげてくる例えようもない衝動。
「帰りたい……」
 止めることも拭うこともできずに、流れ落ち続ける涙と、思い。
「……レーゲンスベルグに……帰りたい……」
 あの場所に。あの暖かな場所に。
 たとえそこに、あとほんのわずかな間しかいられないと知っていても。
 自分だけでなく、カティスもまたそこから引き剥がすことになるのだと判っていても。
「帰りたい……みんなに、会いたい……」
「ああ……帰ろうな。みんな待ってる――待たれてる。お前も、多分、俺もな……」
 首筋に廻された腕。自分にしがみつき、号泣するカイルワーンを抱きしめて、カティスは刹那、目を閉じた。
 何を信じられなくても。たとえ自分を信じられなくても。
 せめてお互いと、自分を取り囲む人たちの気持ちだけは信じよう。その人たちに思われるだけの自分であるということだけは、ちょっとだけでも信じよう。
 そうしなければ、自分の愛する全ての人たちを、その人たちに向けてもらった優しさを、全て自ら否定することになる。
 自分独りだけでは決して見えてはこなかったその答えを、カティスは深くかみしめた。
 そしてアイラシェールは、涙に濡れた眼差しをうなだれているベリンダに一心に注いだ。
 もう沢山だと思った。これ以上苦しんで生き続けても、待っているのは死か消滅だ。そこにどんな違いがあると。
 だが、今は判る――今判った。
 違う。
 心の中に、言葉が落ちる。降り積もる雪のように、胸の中に落ちていく。
 消えたくない。
 忘れられたくない。
 彼女と出会ったことを、こんなにも自分を思ってくれた人と出会えたことを、なかったことにしたくない。
 自分など、この世から消えてなくなってしまえと思った。疫病神で、周囲の全ての人を不幸にするだけで、何の幸せももたらすことはできないと、そう思っていた。自分がいなくなれば、みんな幸せになれるのだと、そう思った。
 その気持ちが、なくなったわけではない。その思いもまた、嘘ではない。
 胸の中に刺さった楔は、いまだ抜けてはいないのだから。
 けれども、それでもそれ以上の強さで、思うのだ。
 消えたくない。
 忘れられたくない。
 なかったことにしたくない。
 脳裏に、沢山の情景が甦ってくる。塔で暮らしていたころの思い出も、この時代に来てから辿った出来事も。
 自分を育ててくれたコーネリアの笑顔。惜しみなく知識を教授してくれた博士の穏やかな笑み。自分にあんなに親切にしてくれた、一座のみんな。一緒に逃げようと言ってくれた、侯爵の真剣な眼差し。
 そして何よりも、愛している、と告げてくれた、カイルワーンの微笑み。
 楽しいことも、嬉しいことも沢山あった。そこには他人の優しさが――好意が、紛れもなく存在した。どれほどそれに、自分が値しない人間なのだと思えたとしても、紛れもなくそれはあったのだ。
 それを汚すことは――それを否定することは。
 できない。
 そして、したくない。
「消えたくない……」
 わななく唇が、消え入りそうな微かな言葉を紡いだ。
「アイラ……」
「消えたくない……」
 はたはたと、こぼれ落ちていく涙と本心。
「消えたくない! 消えたくない! 消えて、忘れられて、なかったことになるなんて嫌……そんなの、いやぁぁぁぁっ!」
 ベリンダは、無礼を構わずアイラシェールの寝台に上がると、その身を寄せた。触れた肌は温もりを伝え、微かな拍動が己さえも揺さぶる。
「消えなくていい」
 琥珀の瞳が、迷いと決意をない交ぜにして訴えかけてくる。
「消えないで」
 おずおずとアイラシェールが手を伸ばし、ベリンダの体を抱きしめると、彼女もまたそのしなやかな腕を伸ばして抱きしめ返してきた。
 その腕が、紛れもなく己を必要としてくれていることを――自分を許してくれていることを感じて、アイラシェールは新たな涙をこぼした。
 四人の夜は、こうして、静かに明けようとしていた。
 いまだ差し込む光は頼りなく、世界は薄暗がりに包まれていたけれども。
 その光が、本当に希望を意味するものなのか、誰にも判らなかったけれども。

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