それでも朝日は昇る 9章20節

 母はいつからこの日が来ることを知っていたのだろう、とカティスは差し出された衣服を前にして、思った。
 全ての選択と決意を告げた彼に、アンナ・リヴィアは翌朝、一揃えの衣服を差し出した。
 それは旅立ちの朝――彼が今までの全てを捨て、一歩目を踏み出す朝。
 上等の絹で仕立てられた、濃い緑色の上着とズボン。たっぷりとした純白のマント。
 なめしの革靴を履き、金糸の縫い取りのあるこれまた新品の剣帯を結び、あつらえたようにぴったりの革手袋をきつくはめたところで、母はそれを差し出した。
「カティス、これを取りなさい」
 ブロードランズ家の薔薇紋と、青玉を戴く王位の証――王剣レヴェル。
 カティスは無造作に手を伸ばし、その柄を掴むと、剣帯につないだ。
 この一瞬から、彼は王の道に踏み込む。
「用意はできたかい? そろそろ行こう」
 その声と共に、姿を現したカイルワーンに、一瞬カティスは絶句した。
 カティスが衣服を改めたように、カイルワーンもまた今まで着ていた長衣を脱いで、新しい服に着替えていた。だがその服装は、明らかに異彩を放っていた。
 体の線に合わせて仕立てられた繻子の上着と、ズボン。足首までを覆った革靴と、指先を切り落とした革手袋。形が奇抜なのではない。その全てが、ありふれたものだ。
 だが、その全てが、黒一色で統一されていた。
 その姿はまるで――。
「ああ、これが、僕が『アルバの黒い賢者』と呼ばれる所以だよ」
 黒い髪、黒い瞳、そして黒一色の服装――それがアルバの黒い薔薇と呼ばれる、賢者カイルワーンの姿。
 この時、カティスは直感した。この先、カイルワーンは黒以外の衣服を身につけるつもりはないのだと。
 それは、愛しい人をその手で葬る彼の、喪の色なのだろうか。
 カティスは、声には出せないその問いを、喉の奥に呑み込んだ。
「さあ、カティス、行くぞ」
 黒い瞳に宿るのは、決意。もう戻れない道に踏み込む、その覚悟。
「この国を、乗っ取りに」
「ああ」
 こうして、史書に記されない、英雄たちの慟哭の物語はここで終わりを告げる。


 レーゲンスベルグから自軍の本陣に戻ったバルカロール侯爵が、部下からその一報を受け取ったのは、五月五日のことだった。
 カティスと謎の青年の動向が気になり、レーゲンスベルグ近郊に残した部下が、彼に驚くべき報告をもたらす。
 侯爵が彼らを訪れた翌日――五月一日、さらなる調査をしようと彼らがロクサーヌ家とその隣家を訪れると、すでにそこは空き家になっていた。近隣の者に問いかけても誰もが口を閉ざし、レーゲンスベルグ傭兵団の者たちが出入りしていたという酒場もまた、固く閉ざされていた。
 そしてレーゲンスベルグ傭兵団の主だった者たちさえもみな、姿を消していた。
「どういうことだ……」
 ようやく何かを掴んだ、と感じた瞬間、それらはするりと逃げて、手の届かないところに行ってしまった、と侯爵は感じた。
 そして残されたのは、山積みの疑問と、解決されない謎。
 真の王とレヴェル、謎の青年とアイラシェール、そしてカティス。謎の断片の中に埋もれ、独り侯爵はあがく。
 ただ一つ判っていることがあるとすれば、何かが始まろうとしている、ただそれだけ。
 それが伝説と呼ばれるものであることを、まだ侯爵は知らない。

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