彼方から届く一筋の光 06


 金がないということは、こんなにも惨めで、辛いものなのか。私はレーゲンスベルグの大通りを歩きながら、そう内心で独りごちた。
 それは王女であり、皇太子妃であった頃にも判っていたつもりでいた。でもそれが「つもり」にしか過ぎなかったことを、一文なしになってたった一日で思い知った。
 温かい寝床で、ゆっくり手を伸ばして眠れること。
 お腹いっぱい食べられること。
 それがどれほどありがたいことなのか、それがままならないことがどれほど辛いことなのか。
 余裕ある他人の好意にすがるしかないことが、どれほどありがたく、また恥ずかしいことなのか。
 レーゲンスベルグの街は、アルベルティーヌ同様豊かで活気にあふれていた。しかしそれは、貧しい者がいないということを意味してはいなかった。大通りから路地に入れば、路上で生活している者の姿は伺えた。大きな教会が焚き出しを行っているのも見えた。そこに並ぶ人の列に、私は共感すると共に、ひんやりと底冷えがするような恐怖を感じた。
 どうしてこんなことになったのだろう。そう思う気持ちは、確かにある。それは元の元を辿れば、あの謎の女たちの手を取ったことだろう。それが全ての始まりだった。
 だがそれを悔いる気にはならなかった。そして結果として、過去のこの時間に来ることになったことも。
 現状は辛い。正直、明日どうなるか、考えるだけでも恐ろしい。
 だがそれでも、私は逃げられた。
 そう――私は逃げたかったのだ。そのことが、今となれば判る。
 ガルテンツァウバーから。皇帝から。そしてあの毎日から。
 思えば私は、時を巻き戻すことで――自分が存在する時間に戻ってくるということで、オフェリア・ロクサーヌという軛から逃れることができたのだ。
 これから時間が流れ、歴史がたとえ同じように過ぎていったとしても、あの動乱でガルテンツァウバーに拉致されるのは「この時代のオフェリア」であって、私ではない。そして1219年のグラウスが私を連れ戻すことも、またできない。私はもう、あの時間にはいないのだから。
 もし時間を越えなかったら、私はどうなっていただろうか。あの女たちの正体が判らない以上、その答えも定かではないが、ガルテンツァウバーは私の捕縛を諦めはしないだろう。あのままあの女たちと行動を共にし続け、それで逃げきれることができたとは思えない。よしんば逃げきれたとして、私はどこに行けばよかったというのだろう。ロクサーヌ朝最後の王女、そしてガルテンツァウバー皇太子妃。その私は政治の取引材料や人質としてあまりにも魅力的であり、いかなる国においても安息はなかっただろう。
 私はこの時を越えるというとんでもない方法でしか、逃げることはできなかったのだ。
 それを考えれば、悔いることなどできない。たとえどれほど明日が見えなくとも。
 そんな物思いに耽っていた私は、ふと足を止めた。かつらを商っている店の看板に、妙案が閃く。
 自分でも不思議なくらい、ためらいは感じなかった。
「私の髪、買っていただけません?」
 飛び込んだ店で私は問うた。幼い頃から当然のように伸ばし続けてきた髪は、腰まである。たとえ肩で切っても、相当の長さになるはずだ。
「お客様のような見事な金髪なら、ぜひともと言いたいところなのですが……よろしいのですか?」
「やってください」
 そうして私は、自分の髪を切り落とした。その作業の全てがすんで立ち上がった時、私は幾らかの喪失感と、びっくりするほどの解放感を感じた。
 軽い。頭と肩が軽い。
 長い髪とは、こんなにも重いものか。その解放感は、初めてコルセットを外して平服を身につけた時に感じたものに近い。
 これまでの自分が、どれほど窮屈な思いをしてきたのか。それを改めて知った。ぎゅうぎゅうに腰を締めつけ、華奢な靴に足を押し込み、髪だけでなく重い飾りを刺した頭を支えてきた。そうして自分の意思も気持ちも何もかも、その華やかな衣装の下に押し込んで笑ってきた。
 そして周囲の全てが、そんな私にだって心があるということを、考えようともしなかった。
 それが王女だ、と言ってしまえばそれまでなのだが、虚しいと感じることは否めない。
 受け取った代金を財布にしまい、私は再び街路に出た。対価は予想以上に多く、しばらくはやっていけそうだった。宿では金がかかりすぎることは、もう身に沁みた。粗末でもいいから、このレーゲンスベルグで住む場所を探せないか。そして仕事も見つけなくては――そう考えて、私は吐息を漏らす。
 女が独りで金を稼ぐ。ああだこうだ悩まなくても、必死になって探さなくても、それを簡単に叶える術があることに、勿論私も気づいている。その道を選べば、衣食住に悩む必要もなくなるということも。
 だけど、それは――そう考えた瞬間、甲高い悲鳴が耳を打った。
 振り返ると、通りの向こうから少女が走ってくるのが見えた。髪を振り乱し、周りも何も見えない様子の少女が、誰かに追われているのは明白だった。
「助けて! 誰か助けてっ!」
 追ってきたのは、強面でいかにもガラの悪そうな男だった。居合わせた人たちの何人かが、少女を助けようと動きかけたが、その時追いかけてきた男の声が響く。
「お前ら手出すな! 足抜けだ!」
 その言葉に、場が凍った。足がもつれて転んだ少女に、誰も近寄ろうとしない。むしろその場を離れるか、遠巻きに見るかどちらか。
 私もそこから、動けない。
「てめえ、自分の借金の額、判ってんのか? 大して稼ぎもしないうちに、逃げ出そうとはいい根性だ」
 少女はもう逃げられない。容赦なく殴られ、蹴られ、悲鳴が上がっても、誰も間に入ろうとしない。どんなに可哀想だと思っても、入れない。
 娼館から娼婦が逃げ出すことは、許されることではない。それを連れ戻そうとすることも正当だ。
 だけど、だけど。
 黙って見ていることなど、できない。
「もう嫌、嫌なのっっ!」
 泣き叫ぶ少女に重なって、別の誰かが見える。その悲鳴に、別の声が重なって聞こえる。目を閉じようとも、耳を閉じようともそれから逃れることはできない。
 なぜなら、それらは、私の中にあるのだから。
 忘れることなど、目をそらすことなど、できやしない。
「もうやめなさい!」
 わずかに震える、けれども驚くほど大きな声が出た。男は手を止め、私を見た。剣呑な眼差しに、私の中で何かが弾けた。
 遮二無二男にぶつかった。私程度の力では、全力であっても大の男を突き転がすことはできない。それでも突然の行動に、一瞬の隙は作れた。
「逃げなさいっ!」
 私の叫びを、少女が理解するまではいくらか時間が必要だった。だが転げるように立ち上がり、全力で駆け出そうとする。
「くそっ、逃がすか!」
 男は私を振りほどき、少女を追おうとする。だが私は男にしがみつき、放さない。男は私を振りほどくも、今度は私がその足にすがりつく。その間にも、少女はどんどん遠ざかってく。
 群衆は、誰も動かない。私と男の間に割って入ろうともしなければ、少女を止めようともしなかった。
「このアマっ!」
 男の蹴りが、容赦なく私の腹に入った。あまりの痛みに、私は息ができない。咳き込む間もなく、背や腹を立て続けに蹴られた。
 目の前が暗くなり、意識が遠くなりかける。だが意識を失うことも、抵抗することもできない。先ほど切ったばかりの髪を掴まれ、引きずりあげられて、そうして私は男の顔を見た。
 憤怒のあまり顔色さえ変えて、男は私を睨む。
「こうなったらお前に、あの小娘の残った借金、払ってもらおうじゃないか。そのつもりもなしに、足抜けの片棒担いだなんて言うつもりじゃないだろうな?」
 男の言葉に、私は返事ができない。言葉は聞こえている。意味も理解している。けれどもあまりの痛みと衝撃に意識が茫洋として、声が出ない。
「金が出せねえというなら、あの小娘の代わりにうちで稼いでもらうぞ。さあどっちにする?」
 私は返事ができない。それを男がどう解釈したのか判らないが、私は男の肩に荷物のように担がれた。
 連れていかれる――ぼんやりとどこか他人事のように私が思ったその時、声が響いた。
「貴様、堅気の女相手に何をしているんだ」
 群衆の誰もが遠巻きにしていた場に、怒声と呼んでいい険しい声が響いた。目を開けても、その声の主は見ることができない。
 だが群衆のあげるどよめきが、私の耳にまで届く。
「てめえには関係ないだろう。口をはさむんじゃねえ」
「それは俺の女だ。返してもらう」
「本当にてめえの女だというのなら、この不始末をどうしてくれる。この女が邪魔してくれたせいで、足抜け女を見失ったんだ。お前が手下使って、うちの女を連れ戻してくれるってか? それともまだ返してない借金、お前が肩代わりでもするか? その気もないのなら、とっととお屋敷に戻んな!」
 その時、がちゃりという音が聞こえた。私を助けに入った誰かが財布を地面に投げたのだと、後で私にも判った。
「一万サレット金貨で二十枚ある。娼婦一人の身請代なら十分なはずだ。釣りならいらん」
「……本気か?」
「それでもまだ足りないというのなら、逃がした女の証文を持っていつでも総領館に来い。いくらでも払ってやる。だから今すぐ、その女を置いて消えろ」
 ややあって、私はまるで荷物のように地面に下ろされた。その衝撃に、怪我をしている全身は軋みをあげる。
 くぐもったうめき声をあげる私を抱き起こしたのは、私よりおそらく年上の、だがまだ若い青年だった。ぞんざいに伸ばして結わえた黒髪が尻尾のように揺れ、黒い瞳が私を見ている。
 その色彩は私の記憶を揺さぶってやまないものだが、持ち主の造作はカイルとは似ても似つかない。そして何より。
 青年は怒っていた。激怒といってよい険しい顔つきで、私を睨んでいた。
「なんでこんな馬鹿なことをした」
 私に向けられた言葉も口調も、怒りと苛立ちにあふれている。その訳は理解できなかったが、私は荒い呼吸をつきながら、ようよう答えた。
「見て、られなかった……」
 話すとひどく胸が痛む。息をするのさえ、本当は苦しい。けれども私は懸命に、青年に問いかけた。
「あの子……逃げられた……?」
「ああ」
 ぶっきらぼうな答えに安堵して、私は笑う。絶え間なく襲う痛みに、ちゃんと笑えていたかは判らない。
 けれども、笑いたかった。
「あの子の気持ち、よく判るの。だって私は……逃げられたもの。だからあの子も、逃がして、あげたかった……」
「そのために、こんな怪我までしたというのか」
 そんなこと、大したことじゃない。だって。
「痛いのも、殴られるのも、慣れてるもの……」
 私の言葉に、青年の表情がますます険しくなった。ぶっちりと音をたてて何かが切れたような、そんな形相で、彼は吐き捨てた。
「お前って女は、つくづく腹の立つ奴だな」
 そんなこと言われても、この青年が一体何に腹を立てているのかがちっとも判らない。そしてその内心を慮る余裕は、私にはない。
 だが青年は、それ以上私を詰ることも、無論暴力をふるうこともせず、そして。
 いきなり私を抱き上げた。
「あの……」
「黙っていろ。今手当てをしてやる」
「でも……」
「いいから黙っていろ。その怪我じゃ、喋るのも辛いだろうが」
 青年の言葉は、全く事実だった。そして私の限界も、そこまでだった。動揺と困惑を抱え、だがそれに勝る安堵を感じながら、私はついに目を閉じた。

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