彼方へと送る一筋の光 01

 私のことを、世間一般では「深窓の姫君」と呼ぶのだろう。父はアルバ北西部に広大な所領を持つ領主、母は同じく南部に領地がある大貴族の令嬢。その第一子として生まれた私は、お家のために王族や貴族へと嫁がせるべく、大切に大切に育てられた――はずだった。
 事実私は領主館で、多くの家臣たちに「姫」とかしづかれていたし、与えられていたものの全てが、この国の最高水準のものであったはずだ。
 にもかかわらず、私に対する形容詞はただ一つ。
「ロスマリン! あなたはまた一体何をしているの!」
 母の卒倒せんばかりの叫びを、私は隠れていた樹上で聞いた。
 ロスマリン・バルカロール――北の雄、エルフルト・バルカロール侯爵の息女に対する、家族の評価はただ一言――がさつ。
 完璧な貴婦人として、この家に嫁いできた母にとっては、私は信じがたいほど不出来な娘であっただろう。
 針を持たせれば布より手に多く刺し、楽器を持たせれば通りがかった使用人たちが耳をふさぎ、踊らせればけっつまづいて無様に転ぶといった始末。何をやらせてもものにならない上、落ち着きがなくちっともじっとしていない。ちょっと目を離せば庭に出て花を摘み、木に登り、虫を捕まえる。厩に入り込んでは小馬とたわむれ、泥だらけになったところを家臣に見つけられては連れ戻される。
 ほとほと貴族の令嬢らしくない私に、母は落胆と怒りと共に、軽蔑の念さえ抱いていただろう。
 あの人は、そんな私の前に突然現れた。
 その日も私は、中庭の林檎の木に登っていた。ダンスの授業でやらかした無様な失敗と、それに対する母の冷やかな目がどうにも耐えられなかったからだ。
 自分は不出来だ。父と母の期待に応えたいのに、何一つ満足にこなすことができない。その思いは、幼い私にも重くのしかかってきていた。
 はなはだ矛盾することながら、私の中にはちゃんと、絵に描いたようなお姫様でありたいという思いはあったのだ。それなのに、どうしてこうも自分はらしくあれないのか。どうして自分は、こうも「お姫様にふさわしくない振る舞い」にばかり、心惹かれてしまうのか。
 自分がいっそ、橋の下で拾われてきた子どもならよかったのに。そう何度も思った。本当は姫ではなくて、間違って侯爵家で育てられることになった平民の子だとかなら、いっそ私の気も楽になったろう。だが残念ながら、そういうこともあり得なかった。なぜなら私は、父にも母にもよく似ていたからだ。
 樹上は初夏の風が通る。日差しは生い茂る木の葉が受け止め、わずかなきらめきが私の下に時折こぼれ落ちてくる。枝にまたがり、大きな幹に背を預けてしばし。
 突然、声がかけられた。
「……あなたは?」
 どこかためらいがちな呼びかけは、母屋の方から聞こえた。その声の主は開け放たれた二階の窓辺に立ち、私を驚きに満ちた目で見下ろしていた。
 私は木の枝にまたがったままの、失礼も何もあったものじゃない格好で、その人を見上げた。重ねて失礼この上ないことに、まじまじと見つめてしまった。
 そして、心の底から思った。なんて綺麗、と。
 今まで見たことのない、白い髪と赤い目も。愛らしく整った顔だちも。華奢でたおやかなその立ち姿も。
 嫌々出席させられている夜会で、今まで沢山の人と会ってきた。招待客の素性は幼い私にはよく判らないが、貴族か街の富裕階級の者に違いない。その誰もがきらびやかに着飾っていたが、今目の前にいるこの女性より綺麗な人などいないと思った。
 今着ているのは昼向きの普段着だが、もし夜会用のドレスで装ったら、まさに絵に描いたようなお姫様になるだろう。そう、私が夢に描くような――届きたいのに、届く気がかけらもしない理想のような。
 うっとりとした。いやだからこそ、次の瞬間恥ずかしさに顔が真っ赤になった。母屋にいるということは、両親にとって大事な客人のはずだ。間違いなく上流階級だろうこの女性には、こんな私はさぞ粗野に見えることだろう。
 どうか気づきませんように。私が誰か、気づきませんように。そう内心で、思わず祈ってしまったというのに。
「もしかして、ロスマリン姫様? 侯爵様のご息女の」
 女性の言葉に、私は木の上でなければ跳び上がっていただろう。そして回り右をして走り去っていただろう。けれども高い木の上、簡単に逃げることなどできない。私は進退窮まって泣きだしたくなりながら、それでも無言で頷いた。頷くしかなかった。
 こんな粗野で無礼な娘が、侯爵令嬢か。そう侮蔑の言葉を投げつけられることを予測して、ぎゅっと目を閉じた。だがそんな私に届いたのは、柔らかな声。
「こんな高い木に、お一人で登れるんですか? 凄い」
 瞼の裏の暗闇に響いたのは、驚きと羨望が混じった明るい声。あまりにも意外な言葉に私が目を開けると、窓の向こうで女性が笑っていた。
「お元気でいらして、羨ましい。私、体が弱くて、あまりお日様に当たれないんです。でも一度くらいは、思いっきり外を走り回ってみたかった。木登りなんてできたら、どんなにいいだろう……姫様、そこから何が見えます? 館の窓から遠くを見るのとは、やっぱり違いますか?」
 いくらか茶目っ気を混ぜて、けれどもからかうのではなく大真面目に、女性は問うてきた。ぱちくり、と思わず瞬きをした私に、女性は眩しそうに笑んで告げた。
「アイラシェールといいます、姫様。バルカロール家推挙の女官候補として、アルベルティーヌ城に出仕することになりました。侯爵様がご登城なさるまで、こちらの館でご厄介になります」
 これが私の運命を変えた――いいや、私の運命である出会いとは、当時八歳だった私には、まだ思いも寄らなかった。
「礼儀も弁えない不調法者ですが、どうぞよろしくお願いします、姫様」
 こうして私は、アイラシェール姉様に、一目で魅了された。心底憧れた。
 そして、心を救われた。
 姉様がモリノーの領主館に滞在したのは、父が姉様を伴って登城するまでのたった三ヶ月の間のことだった。けれどもその短い夏は、私の心の中に今でも暖かな記憶として残っている。
 アイラ姉様は、まさに私とは正反対の女性だった。礼儀作法は完璧、珍しい異国の楽器も巧みにこなし、裁縫にいたっては、館付のお針子から余った生地を分けてもらってきて、私の人形のドレスまで仕立ててしまうほどの腕前だった。
 その三ヶ月は姉様にとって、女官としての教育期間であったはずだ。だが教育係を請け負った母は、すぐにほどんどの教育課程を「必要なし」と結論付けた。そのため姉様の時間は大幅に余ることとなり、そして。
「姉様、この間のお話の続き、してください。オフィシナリス古王朝が滅んだ後、ノアゼットから嫁いだお姫様はどうなったんですか?」
 私は分厚い本を抱えて、姉様の部屋の扉を叩く。姉様はいつも優しく笑って、私を迎え入れてくれた。
 姉様が来て以降も、私の不出来さは変わりようがなかった。相変わらず音楽もダンスも手芸も何もかもが苦手だ。教師たちや母が私に叱咤することも、苛立ちをあらわにすることも、何も変わりはない。そして私が家に閉じこもらず、暇を見つけては外を駆け回ることもまた。
 けれども決定的に変わったのは、私が本を読むようになったことだ。
 自分はバルカロール家の姫として不出来だ、姉様みたいになれたらどれだけいいだろう。そう思わずこぼしてしまった私に、姉様はどこかおかしそうに笑って言った。
「ロスマリン様はロスマリン様のままでいいんですよ」
「姉様?」
「ロスマリン様は、バルカロール家の役に立つような姫でなければ、自分は必要ではないのかと思っておられません?」
 姉様の言葉は、ずきりと胸に突き刺さった。それはたった八歳の私が抱えていた、自分でも理解できていなかった感情を描ききっていた。
「確かにお家としては、そうなのかもしれません。貴族の娘にとっての最大の務めが、家のために嫁することであることは、残念ながら否定できません」
「……うん」
「でも、ロスマリン様はそんな定めも越えていける方です」
 この言葉の意味を、この時の私は理解することができなかった。それが叶うのは、私が大きくなってからのことなのだが、それは後の物語として。
 姉様はなおもどこかおかしそうに、確かに愛おしそうに、私に告げる。
「自分で感じられること、自分の好きなもの、自分の本当の気持ちを大切にしてくだされば、聡明で開明的な女性になれます。国中の多くの女性が、姫様の生き方に憧れるようになるでしょう」
「こんな、私でも?」
 姉様の言葉が信じられなかった。こんな風に毎日、両親や先生たちを失望させるばかりの私が、そんな女性に本当になれるのだろうか。
「こんな姫様だから、です。だって鳥や草を愛し、野山を駆け回り、木に登って空を仰ぐお姫様なんて、国中探したってロスマリン様ただ一人ですよ? 他に変わりのいない、ただ一人のお人です」
「それって、誉めてる?」
「勿論誉めてますよ」
 にこにこと笑いながら、姉様は平然と言う。そうして私の未来を開く言葉を、何気なく口にした。
「多分姫様は、知りたいことが沢山おありなんだと思います。そしてそれを、自分の目で確かめないと気がすまないんじゃないかと」
 それは目から鱗が落ちるような言葉だった。確かにそれはその通りだった。
 どうして馬の子どもは馬なんだろう。どうして人の子どもはすぐ大きくならないのに、馬の子どもは生まれてすぐ立てるようになるんだろう。オタマジャクシはどうして蛙の子どもなんだろう。どうしてあんなに違う姿で生まれてきて、あんな風に形が変わっていくんだろう。どうして中庭の林檎の木は、農家が納めて食卓に上がるような大きな実をつけないんだろう。
 外を巡れば、不思議なことが沢山ある。その答えが気になり、その答えを探して、館の外を駆け回っていた。それは無意識のことではあったが、言われてみれば全くその通りだった。
「でも姫様、この館の近隣を巡るだけでは、答えは出てきません。自分の目だけで導き出せるほど、この世の不思議は簡単じゃありません。だから多くの学者がいて、地道な研究があって、その成果を私たちは教えてもらうことができる」
 そう言って、姉様は遠い目をした。その手元にあるのは、一冊の本。おそらくは父の蔵書だったのだろう、と後に思い返すことになる。
「姫様を見ていると、昔の私を思い出します。小さい頃の私も、何でも知りたかった。でも私と姫様が違うのは、私は育ったところから外に出ることができなかったことです。だから私は、本を読んだ。この目で実際に見ることが叶わなくても、この世界にある多くの不思議を、知ることができた」
 そうして姉様は、その本を読んで聞かせてくれた。それは南にある新大陸について書かれた本で、その大きな大陸がどのようにして発見されたのか、それが可能になったのはどんな発明によるものなのか、発見者たちの航海がどれほど過酷なものであったのか、姉様はきっと難しく書かれているだろうそれを、かみ砕いて優しく話してくれた。
 姉様の語る物語は、胸が熱くなるほど面白く、私は時間がたつのを忘れてしまうほどだった。
 そうしてその日以降、私は姉様に沢山のことを教わった。姉様が読み聞かせてくれる物語は全てが面白く、まるで次々と世界が開けていくようだった。それもまた後に思い知ることなのだが、姉様は極めて高度な――この時代には過ぎた学識の持ち主であったこと、そして私が教授してもらった知識が、ものによっては時代を超過していたものであったこと。
 だがその頃は、そんな自覚はなく。ただ姉様の語る物語が面白く。
 そして、私を「不出来な姫」ではなく、まるで実の妹のように愛おしんでくれることが、ただただ嬉しく。
 けれども別れの時が来るのは、あっという間だった。
 北の地の短い夏が終わり、秋。領主館の前庭には、何台もの馬車が連なっていた。
 その中の一台に乗り、姉様は行ってしまう。もう容易には会えないほどの遠い場所――アルベルティーヌ城の最奥へと。
 アルバ王国の廷臣である父と、その正妻である母は、一年のうち半分をアルベルティーヌで過ごす。しかしまだ幼い私は、両親の不在時にも、領国の州都であるモリノーで留守居たちとともに暮らすことになる。もう少し大きくなり、社交界に出る年になればアルベルティーヌへと向かうことになろうが、今は同行を願い出ることはできない。
 そしてたとえ同行できたとしても、女官として城で暮らすことになる姉様とはもう簡単に会うことはできない。
 もしかしたら、もう二度と。
 それは全く脈絡のない不安――予感だった。だがまるで黒雲のように、あっという間に胸の中を覆い尽くしてしまうその思いに、私は恥も外聞もなく姉様のドレスの裾にしがみついた。
「行っちゃ、嫌……」
 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。これが今生の別れのはずがない。そう理性は告げているのに、体の心から沸き上がる衝動が私を突き動かす。
「行かないで、姉様」
「ロスマリン、はしたない真似はおやめなさい」
 母の叱咤に、姉様は黙って首を振った。そのたおやかな手を伸ばし、私の頭をなぜながら、優しく告げる。
「だったら姫様が、アルベルティーヌ城まで会いにきてください」
 諭すように降る言葉。何かを願うように、何かを見透かすように。
「姫様が大きくなって、アルベルティーヌ城まで来てくださる時まで、私は城で頑張ります。もう会えなくなるなんてことにならないよう、私も頑張ります。だから約束しましょう」
 私の目線に降りて、姉様は遠い約束をする。
「私もロスマリン様も、決して自分を曲げないと。決して自分を諦めないと」
 姉様はその約束を守った。そのことを私が知るのもまたずいぶん後の話であるが、姉様は頑張り抜いた。そして決して自分を曲げなかった。
 でも私はもう二度と、姉様には会えなかった。
 姉様が約束を守り抜いたからこそ、会えなくなったのだと知ったのは――それを理解できたのは、私が大人になってからのことだった。

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