彼方へと送る一筋の光 07

 意識が戻ると、全てが変わっていた。
 世界も、国も、友たちも、そして何より自分自身も。
 緋焔騎士団の副長との戦いで受けた傷は、どう考えても致命傷だった。薄れていく意識の中で俺は、率直に死んだ、と思った。
 だが俺は長い欠落の果てに、朧気ながらも意識を取り戻した。そして自分があまりにも不相応な、豪華な寝台に寝かされていることに気づいた。
 どこだ、という声は出ない。錆びついた頭でぼんやりと考え、やがて得心した。
 王宮か、と。
 カティスとカイルワーンは、俺を一介の負傷兵として扱わなかったのだろう。おそらくは王宮の一室を与え、手厚い治療と看護を命じた。二人が最善を尽くしてくれたからこそ、自分が助かったのだと、俺は理解する。
 だがなぜだろう。自分でもびっくりするほど、そのことを嬉しく感じなかった。
 何だろう、俺は死にたかったのか? そう自分に問うてしまうほど、生還の喜びが沸いてこなかった。
 その時感じた寂寥、胸の中にぽっかりと空いてしまった穴の正体。それを悟るのは、ずいぶん後になってからのこと――あいつに出会った後のことで、その時の俺はただ戸惑うばかりだった。
 そしてやっぱり、右腕は、なかった。
 そのことにも、驚くほど心が動かなかった。あの時惜しくない、と思ったのは間違いではない。でも今は、名誉の負傷とか、あいつらのためならば、とかそういう誇らしい気持ちもない。ただ淡々と、ああやっぱり、と独りごちる自分を、俺自身がもてあます。
 何か燃え尽きてしまったかのように、全てのことが空々しく、遠く感じられた。
 これから、どうしようか。ゆるゆると回復していく中で、俺は切迫感もなくそう思った。
 カティスが抜けた後、レーゲンスベルグ傭兵団の団長、という肩書きを預かりはしたけれど、この腕ではそれはもう果たせまい。かといって、隻腕でどうやってこれから食べていこうか。
 見知った人たちの元に戻るのも、奇異や憐れみの眼差しで見られそうで気鬱だった。いっそレーゲンスベルグを出るか――そんな物思いを吹き飛ばしたのは、あまりにも予想外すぎたカイルワーンの一言。
「ブレイリー、本当に申し訳ないんだけど」
 この男は、ある意味カティス以上によく俺のことを判っていた。この後に続ける言葉で、俺がどういう反応をするかを見越していたからこそ、謝罪から話を切り出したのだ。
「レーゲンスベルグ、自治都市として独立したんだ」
 その言葉の意味を、俺は一瞬捉えかねた。やがて、そのことが俺にとってどうして『申し訳ない』のか気づいた瞬間、体の負担を顧みず絶叫していた。
「ちょっと待てカイルワーン! そんなの俺聞いてないぞ!」
 俺は真っ青になった。それはあまりにも寝耳に水だった。
「レーゲンスベルグは王領に――お前らの直轄地になるんじゃなかったのかよ!」
「うん。僕もカティスも為政者としては、レーゲンスベルグは喉から手が出るほどほしいけどね、ギルド連合との関係とか諸々考えたら、王領に組み入れるのは無理だった。ここで一悶着して遺恨を残すより、すっぱりと独立させて、後々まで友好な協力関係を築いた方が得策だと判断した。……まあそれが歴史通りなんだけど」
 カイルワーンが未来から来たこと、だから全ての歴史を知る預言者であることを、俺とセプタードだけは知っている。だから文末については驚かないが、だからといって動揺と狼狽が収まるわけもない。
 正直、騙されたと思った。
「ということは、国軍は」
「レーゲンスベルグには駐留できない。ごめん、ブレイリー」
 今更謝られたって困る、と俺は絶叫したかった。
 それはつまり、レーゲンスベルグは自らで、都市防衛を行わなければならないということ。
 それを一体、誰が、どうやってやるのだ。
 革命以前、都市防衛団を編成して指揮していたのは、カティスを団長とした俺たち。でもそれは、時限が見えていたからこそできたことだ。内乱が終結し王が定まれば、その責務は国軍に預けられるだろう。そう思ったからこそ、引き受けられたこと。
 しかし、だ。レーゲンスベルグが独立したということは、カティスとカイルワーン、そして国軍をあてにすることはできない。
 俺たちがそれを、これから先ずっと、やらなきゃならないってことだ。
 青ざめるなんてものじゃない事態だった。
「帰る」
 俺は即答していた。
「あいつらだけに任せておけない。帰る」
 あいつらは今頃どうしている? 俺がここで意識不明になっている間、誰が傭兵団の陣頭指揮を執った? これから都市防衛を請け負うならば、施政人会議と契約を結び直さなければならない。まさかあいつら、焦って不利な契約を結んじゃいないだろうな?
 堰ききって頭の中を流れる様々な不安と懸念。どう考えたって、ウィミィやイルゼたちだけで乗り切れる事態ではない。体はまだ完治していなかったが、もはやのんびり寝てなどいられなかった。
 俺の言葉に、カイルワーンはほのかに笑って頷いた。その笑顔の意味を、俺はレーゲンスベルグに戻ってから、理解する。
「あの屋敷、傭兵団の拠点として使ってって言ってある。多分みんな、そこにいるんじゃないかな」
 革命の時、レーゲンスベルグの拠点としてカティスが使っていた屋敷――フロリックがカイルワーンのために用意していた館。そこに向かうと果たして、馴染みの顔が揃っていた。
 誰もが一様に安堵の表情を浮かべるのを見て、俺はため息をついた。
 どうなっているのか現状を説明しろ。そう問うた俺に一同は、執務室――カティスが使っていた、この館で一番いい部屋――に行け、とだけ言う。訳がわからず向かった先で待っていた人物に、俺は先ほどと違う安堵のため息をついた。
「ようやく帰ってきたか、大変だったぞ」
「悪い、助かった」
 セプタードは執務机から立ち上がると、顎をしゃくった。それは多分、俺にここに座れ、という意味だ。
 そしてこの机と椅子が、俺のこれから背負うべき立場や責務を意味していることもまた、判った。
 否、ということは、できそうになかった。
 俺が不在だったのは、ちょうど二ヶ月間。その間をセプタードは実にうまく乗り切ってくれていた。その手腕に、俺は思わずこぼしてしまう。
 本当にこいつ、酒場の親父にしておくのがもったいない。
「俺じゃなくて、お前がやらないか?」
「冗談じゃない。お前の仕事だ、お前の」
 多分カイルワーンもセプタードも、判っていたのだ。その上で、この難局をお膳立てしたのだ。
 俺に重責を与えることで、引くに引けない状況を作ることで、切れそうになる俺の中の糸を結びあわせようとしていたのだ。
 困難と雑務の山に忙殺させることで、はかなくなりそうになる俺をつなぎ止めようとしていたのだ。
 その親友たちの気遣いに、俺は複雑な思いを抱いた。正直掛け値なしに、ありがたいとは思わない。けれどもそれを無下にすることもまた、できる状況ではなかった。
 かくして俺の、肩書き団長・実質雑用係の日々が始まった。
 レーゲンスベルグの都市防衛は、そのまま俺たち傭兵団が請け負うことになった。無論兵力は全然足りない。カティスが練成した竜騎兵隊は、基本的に国軍に吸収されたが、レーゲンスベルグへの帰還を希望した者もかなりいたので、奴と協議の上ありがたくもらい受けた。施政人会議からの報酬によって新兵を雇い、練成し、都市防衛団や傭兵団に大急ぎで組み込んでいく。
 組織としての傭兵団はどんどん大きくなり、俺は雑務と金策に奔走する毎日を送った。
 一〇〇〇年から一〇〇五年の戦乱期、レーゲンスベルグもそれに無縁ではいられなかったが、それでも都市自体は平穏だった。レーゲンスベルグは西を海に面し、三方を王領に囲まれている。レーゲンスベルグを陸から攻めるには、先に王領――ひいてはアルベルティーヌを落とさなければならず、海から攻められるほど海戦力を保持している貴族は国内にはいなかった。
 最大の懸念は、諸外国が飛び地としてレーゲンスベルグを手に入れるべく、艦隊を送り込んでくること。しかしそれは幸い起こらなかった。いくら自治都市とはいえ、王国とレーゲンスベルグの関係は深い。カティスとカイルワーンがレーゲンスベルグを他国に占領されて黙っているはずがなく、諸国もそれを承知していたのだろう。レーゲンスベルグを巡ってアルバと全面戦争に及ぼう、という国家が現れる前に、内戦は終息を迎えた。
 そうして七年もの月日が、瞬く間に過ぎた。
 その間色々なことがあった。結婚した奴もいる。子どもが生まれた奴もいる。退団した者も少なくない。だが俺は相も変わらず独りのまま、名目上の団長のまま、この館の一室で働き、暮らし続けていた。
 大陸統一暦一〇〇七年の十一月。その運命は、唐突に俺を襲ってきた。
 館の中がいつもと違う空気に包まれている。困惑と警戒が入り交じった、不安な空気。その緊張に俺は仕事もそこそこに、窓辺から外を見下ろした。
 カティスはなぜ、あんなことを言い出したのだろう? その意図を、俺はかけらも推測することができない。
 国軍付きの文官と、レーゲンスベルグの銃業者ギルドとの交渉の場として、この館の一室を貸してほしい――その突然の依頼に、俺たちは戸惑うより他なかった。
 銃業者ギルドにとって、アルバ国軍は最大の得意先だ。銃業者ギルドの基になった燧石銃工場は、もともとカイルワーンが立ち上げたもの。ギルドとしても国軍は馴染み深い相手だろう。
 その両者の売買交渉だ。ギルドホールでやればよかろうに、カティスは王命をもってここを指定してきた。そしてその意図を明かそうとしない。
 断る理由がなかった。だから受け入れ、応接室を提供した。何らかの妨害工作があることも想定し、館の外と市内も厳重に警戒はしている。だが誰もが釈然としていないだろう。
 カティスは一体、何を考えている?
 窓の外には、中庭が広がっている。一応気をつけて手入れはしているが、美しく整えられているとは言いがたい殺風景な庭。そこを何気なく見下ろして、刹那。
 心臓が、跳ねた。
 あの女、あそこで何をしている。
 執務室を飛び出し、階段を駆け下りた。雑草を踏んで駆けつけた中庭の最奥に、その女は立っている。
 城からの使節団の中にいた女だ。髪をきっちりとまとめ、飾り気のない、だが一目で上等だと判るドレスを着ていたから、地位の高い女官なのだろうと推測していた。
 だがその女が、なぜ交渉の場を抜け出し、こんなところにいる。
 年の頃はまだ十七、八だろう。宮廷女官としては若い部類だ。そして焦げ茶色の髪も、榛色の瞳も、特段珍しいものではない。容姿自体は、取り立てて目を惹くものではない。
 だが俺は、まっすぐに俺を見据えるその瞳から、目が離せなかった。
 こんなにまっすぐな、こんなに強い眼差しをする女を、俺は見たことがない。
 嫌な予感がした。心臓が、早鐘のように打っている。
 お前まさか――。
「お前、ここで何をしている」
 険しい声で問いかけた俺に、女は笑った。それはどこか寂しげで、だが紛れもなく嬉しそうだった。
「ブレイリー・ザクセングルス様とお見受けいたしました。この場所で他の誰よりも先に、貴方とお会いできて嬉しく思います。お噂は、兄様と陛下よりかねがね」
 女は俺の素性を一目で看破すると、ドレスの裾をさばいて優雅に一礼した。
 まるで貴族の男にでもするように、恭しく。
「ロスマリン・アメリア・バルカロールと申します。あなたがもし本当に、ブレイリー・ザクセングルス様ならば、これ以上何も言わなくともお判りになるのでは?」
 やっぱり、という呻きを口にすることを、俺は懸命にこらえた。
「……貴族の娘が二つ名を見ず知らずの男に名乗るなんぞ、正気の沙汰じゃないぞ。何のつもりだ? それともお前は、誰彼構わず二つ名を言って歩いているのか?」
「家族以外の方に名乗ったのは、これが初めてです。でもこれ以外に、貴方に敬意と誠意をお見せする方法が浮かばなかったのです。そもそもこんな方法でこの館に潜り込んだこと自体が、不誠実きわまりないことですから」
 女――ロスマリンのその返答に、俺は不可解なカティスの命令の真意を悟る。
「まさか、今回の燧石銃売買の交渉は……」
「はい。私を使節の一員として、この館の中に入れてもらうために、私が陛下にお願いをして整えていただいたものです。どうしても私はこの館の中に入りたかった。どうしてもこの場所に来て、確かめたいことがあった。……だって、もし私の推測が間違っていなければ、貴方は私の名を聞いたら、絶対ここに入れてはくださらない」
 一瞬目の前が暗くなるほど、心臓が跳ねた。浅くなる呼吸を悟られぬよう懸命にこらえ、俺はロスマリンを睨む。
 ああ、そうだ。間違いなくこの女はロスマリン・バルカロールだ。
 そして、こいつは、きっと何もかも判っている。
 俺たち傭兵団が、命がけで隠してきたことを――。
「だから今ここで、逃げ隠れも一切できない状況で、真っ先に貴方が私を見つけてくださったことは、僥倖でした。……やっぱりお導きって、あるんでしょうか」
 そう言ってロスマリンは、俺から視線をそらした。その目が見つめる先には、小さな碑がある。
 決して上等の石ではない。何の飾り気もないただの小さな、四角い石。それを見据えて、決して逃げられぬ強い口調で、ロスマリンは俺に詰問する。
「答えてください、ブレイリー・ザクセングルス。これは、何ですか」
 判っている。
 判っていて、この女は俺に聞いている。
 その意地の悪さを、俺は憎む。それでも確かめずにはいられない気持ちを、俺は理解する。
 それほどまでに大事なことなのだと、切迫していることなのだと、俺ならば痛いほどに判る。
 だからこそ、俺はことさら厳しい口調で答えた。
「俺はその問いに答えない」
 この答えに、ロスマリンの顔が歪んだ。
「もしお前が本物のロスマリン・バルカロールだというのならば、俺が答えないということそれ自体が答えだということを、理解できるはずだ」
 沈黙が降りた。ロスマリンは何も言わずただ、立ち尽くし、やがて。
 音もなく、そしてドレスが汚れることにも構わず、その場にへたり込んだ。
「おいっ」
 慌てて駆け寄ると、微かな嗚咽が聞こえた。
 地面に座り込んだロスマリンは、唇を噛み、声を殺して泣いていたのだ。
 見開いた目からは、大粒の涙が幾つも幾つもこぼれ落ちていた。
「おい、こんなところで泣くなよ」
「これがどうして……泣かずに、いられるというの……」
 屹然としてロスマリンは俺を見上げる。どうしていいか判らず、真向かいにしゃがみ込んだ俺に奴は。
 手を伸ばしてきた。
 伸ばされた白い手が、俺の残っている左腕を、強くつかんだ。
「ありがとう」
 それはあまりにも、予想外の言葉だった。涙をこぼしながら、それでも懸命に笑おうとしている奴のくしゃくしゃの顔を、俺は呆然と見返す。
「やっぱり、思った通りだった……やっぱり、そうだった……」
 嬉しそうに、だがあまりにも痛々しい笑みが開く。
「貴方たちがいてくれたことで、どれほど……どれほど救われたことか……貴方たちがいてくれて……本当に、本当に、よかった……」
 その瞬間、俺は胸をえぐられた。鋭い刃で本当にざっくりとえぐられたように感じた。
 でもそれは苦しみではなかった。痛かったけれども、苦かったけれども、苦しみでは決してない。
 なぜならば、この目の前の女は、本当に全てが判っているからだ。
 俺たちが苦しんだことも。俺たちが口に出せず抱え込んだことも。やるせなさも憤りも寂寥も、この女は間違いなく全部判っている。判った上で、俺にこう言うのだ。
 俺たちがいて、よかったと。
 だがそれは俺の胸に、苦いものを広げる。その上で――いやだからこそ、俺は疑問に苛まれる。
「本当に、そう思うのか」
 それはあの日以来の、俺の疑問だ。決して誇ることのできない自分に対して、抱き続けてきた疑問。
 そんな俺に、奴は目を見開き、大粒の涙をこぼしながら叫んだ。
「当たり前じゃない!」
 掴んだ手にこもる力。ぎゅぅっと、ぎゅぅっと込められる思いの熱さに、俺は反駁の言葉をなくす。
 俺はどうしていいか判らなかった。痛む胸を押さえる手なく、ただ所在なく呟いてしまう。
「だったら泣くな」
「嬉し泣きくらい、させてよ。判るでしょう? 私が今どれほど嬉しいのか。今どれほどほっとしているのか」
 俺は沈黙した。これ以上、俺に言えることなど何もないことを悟った。
 これは嬉しいことだろうか。これほどまでに泣くほど嬉しいことだというのか。
 そうなのだろう。だから彼女は、こんななりふり構わない方法でここにやってきた。大貴族の令嬢が、傭兵なんて最下層の人間がたむろする危険な場所まで、わざわざ出向いてきたのだ。
 確かに今こいつが得た真実は、こいつの胸の欠損を少し埋めるものかもしれない。
 だけど、と思わずにはいられない。これを救いと思うこと、これを嬉しいと思うこと自体、間違っている。それほどまでの傷を負い続けること、それほどまでの欠損を胸の中に抱え続けることが、正しいはずがない。
 でも、傷は癒えない。
 欠損は埋まらない。
 そのことを誰よりも知るのは、本当は俺だ。
 だから俺はこいつに、これ以上何も言ってやれない。
 こんな貧民と大貴族の令嬢は、出会うはずがなかった。けれども俺たちは一つの秘密を契機にして、あまりにも大きすぎる欠損を媒介にして、結びあってしまった。お互いの存在を己の身のうちに呼び込んでしまった。
 それが正しかったのかどうか、俺は結局死ぬまで判らなかった。
 けれども冬に向かおうとする、薄日が差し込むその中庭で、ロスマリンは泣いていた。俺はどうすることもできず、握りしめられた手をほどくこともできず、ただ傍らにあり続けた。
 彼女が泣き止むまで、ずっと。
 そんな荒れた庭の片隅。小さなみすぼらしい石碑には、ただ一言、こう刻まれている。


 我らの最愛の友、ここに眠る。

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