天を渡る風 (2)

「退屈だ」
 神仙界の東の果て、遠く溶けていく地平線を眺めながら、春螺はぼそりと呟いた。
 柔らかな緑の繁る草原と、その果てに見える荒れ地。見渡す限りの平原には、彼女と彼女の侍女以外、動くものとてない。
 ただそよとばかりに、風が動くくらいだ。
「遊びに行ってらしたらどうですか?」
 耐えかねる、とばかりにあくびを連発する春螺に、侍女の慧が苦笑して申し出た。
 慧は春螺が産まれて以来の侍女。他の誰よりも主人の性格を知っている。
『風』の気質を持つ春螺は、ことのほか停滞を嫌う。長く一所にとどまれる性格ではないのだ。
「公主が頑張って下さったおかげで、『東』も大分安定して参りました。しばらくは私一人でも、大丈夫かと思います。どうぞ気晴らしなさってきてくださいませ」
 ぱっと春螺の顔が明るくなるのを見て取って、慧は苦笑した。
 己が仕える神仙は、最上位に列するだけの力の持ち主であるが、まだ若い。それは不安定さを欠く恐れも伴うが、若さ故の伸びやかさ、屈託のなさは、見る者を破顔させる。
「悪いな、慧」
「そうお思いでしたら、ほどほどで戻ってきてくださいましね」
 笑顔に送られ、己の封土を出た春螺は、しばし虚空を漂った後、不意に一つの『界』に足を向けた。
 その地は仙の封土ではない、自由で不毛な土地。
 彼女たち仙人が、『人界』と呼ぶ未開の土地。
 渦巻く風を抜け、大地に降り立つ。辺りを見回すと、鬱蒼と緑が繁る山中だった。
 水が流れ落ちる、快い音が耳を打つ。
「人界も、久しいな」
 守護する神仙の力で、常によい気候を保っている神界とは違い、人界には『季節』という過酷な移ろいが存在する。だがそれは、その過酷さに相応する美しさを備えている。
 季節は夏。山中の木々は濃緑に沈み、木もれ日がかけらのように降り注いでいる。
 春螺は暗い山中を、戯れに水音の方へ歩いていき――そして、不意に陽光が目を射た。
「誰だ」
 挙がる誰何の声に、春螺は目を細める。水音にかき消されないほど強く、凛とした、そして不快そうな声。
 小さな滝が流れ落ち、淵を作っていた。声の主は、源流の冷たい水に身を浸して、険しい顔つきで春螺を睨んでいる。
 燃え上がるような緋色の髪をした、人間の青年だった。
 青白い、高温の炎のような瞳が、怒りをたたえて真っ直ぐ春螺を見据えている。
「神職の斎戒を覗き見るとは、大概に無礼な奴だ」
「無礼はどちらだ。お前ら人間は、他人と向かい合う時は素っ裸でいるのが礼儀か」
 水浴びをしていたのであろう青年は、何も身につけていなかった。腰まで水に沈めてはいるが、濡れた上半身はあらわだ。
 だが青年は、恥じ入ることもなく背筋を伸ばして立ち、春螺を見据えている。
「斎戒の最中に踏み込んだきたのは、お前だろうが。いったいどこに服を着てる余裕があった」
 見れば、春螺のすぐ側の木の枝に、粗末な服がかけられていた。
「服を着てほしいのなら、とっととそれを取ってよこせ」
 青年の一言に、春螺はまさにかちんとした。自分が生まれてからこれまで、自分にここまでぞんざいな口をきき、あまつさえ自分に何かを命じようとした者があっただろうか。
 自分より格上の神仙など、数えるほどしかいない。その彼らにさえ、ここまで粗略な扱いをされたことなどないというのに。
「人間風情が大層な口をきくな、無礼者!」
 怒りの一喝は風をあおり、木々の枝が折れんばかりにざわめいた。直撃を食らった青年は見事にひっくり返り水没したが、やがて水面から顔をのぞかせると、口許を歪めた。
「これ以上人間の分際で神仙に無礼を働いたら、即刻切り刻んでくれる」
 春螺の脅しに、青年はむしろ皮肉げな表情を作った。
「……女神さまか。古老たちから『神がいる』とは再三再四脅されていたが、実際にお目にかかろうとは」
 その口調は、敬意も尊崇もかけらもなく、ただ冷たい。
「だが普通、状況が逆じゃないのか? 普通は天女が水浴びしているところを、人間の男が覗き見するものだと、古老たちは昔話で言っていたぞ。天女が人間の男の水浴びを覗き見するだなんて、聞いていない」
「私とて、お前の裸が見たくて、ここに来たのではないわ」
「だったら妥協しろ。ご大層な女神さまに『出ていけ』というのは無礼だろうから言わんが、お前がそこの着物を取ってくれなければ、俺は水から出られっこない。人間風情の裸なんぞ、見たくないだろう。だったら妥協して、服を取ってくれ」
 慇懃かつ皮肉たっぷりに言う青年に、春螺は青年の衣服を掴むと、つい、と浮かんだ。青年を頭上から見下ろすと、彼の青い目と己の黒い目が合う。
 その瞬間ふと悪戯な考えが心をよぎった。
「天女の羽衣の話なら、私も聞いたことがあるぞ。天女は男に羽衣を盗られるのであったな」
「ああ」
「馬鹿な話だ。あまりにも馬鹿馬鹿しいから、私もその通りにすることにしよう」
 意地悪げに笑って、春螺は青年の手が届かない高みに駆け登る。見下ろせば、案の定狼狽した青年の顔が見えた。
「冗談じゃないっ! 服持っていくなんてありかーーーっ!」
 青年の叫びも、焦った顔も、何もかもが楽しかった。空の上でくつくつと笑う春螺に、青年は激怒して叫ぶ。
「畜生! それが仮にも神のやることかっ! 二度と廟堂に供物なんか捧げてやらねえぞ!」
「どうぞ勝手に」
 それだけ言い残して、春螺は空の彼方に飛んでいく。その耳を、いつまでも先ほどの青年の声が追いかけてくる気がした。
 今まで何度となく人界に下りた。人間に出会ったことも、一度や二度ではない。しかし、自分を女神だと知ると、どんな人間もひれ伏し己を拝した。それなのに。
 女神であることも知っても、あの男は物おじすることなく、真っ直ぐに自分を見続けた。
 そんな人間は、初めてだった。
 確かに無礼極まりない奴だった。こんなにも立腹させられた存在は、後にも先にもきっとないだろう。それなのに――だからこそなのか、その姿は、声は消えない。
 手の中には粗末な衣服が残っていた。そしてそれには、持ち主の気配が染みついていた。

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