天を渡る風 (4)

「緋凌様のところに、美しい女性が通ってくるという話だ」
「何でも女神だというではないか」
「さすがは『気読み』だ。天の気に通ずれば、天神さえも招き寄せられるものなのか」
 人界の夏の終わり、村から少し離れた小高い丘には、この夏の始まり以来見られるようになった情景が、今日も広がっている。
 緋色の髪、薄青の目をした青年と、黒髪黒目の絶世の美女。
 連れ立って、そして何事か語らっている二人の姿を、村人たちは遠くから眺め、女性のあまりの美しさと神々しさにため息をもらすが、近づいていく勇気のない者たちの元に、その話し声は届かない。
「何を話しておられるんだか」
「わしら程度の者には、到底判るものではないだろう」
「邪魔するものではないな」
 そんなささやきが交わされている頃、丘の上の問題の人物たちは、自分たちがのぞかれていることにちゃんと気づいていた。
「俺、あいつらに今頃何言われてるんだか」
 頭を抱える緋凌に、春螺は事も無げに言う。
「『さすがは『気読み』だ。天の気に通ずれば、天神さえも招き寄せられるものなのか』」
「聞こえるからって、わざわざ言わんでもいい」
 口真似までして村人の言葉を再現する春螺に、緋凌は疲れの見えるため息をついた。
「……こういうのを、世間では『押しかけ女房』というんだ」
「私はお前と結婚した覚えはないぞ」
「俺だって思っちゃいないが、下世話なことを考えてる奴も、期待している奴も仰山いるってことだ。……まったく、俺はお前の暇つぶしにつき合わされているだけだというに」
 嫌になる。そう呟き、目を細めて遠くを見る緋凌に、春螺はふと問いかける。
「お前、子供、作らなくていいのか?」
「春螺」
 遠慮なく呼べ、と言った通り、緋凌はまさに敬意も払わずぶっきらぼうに、そう彼女を呼ぶ。
「お前の立場から考えれば、一刻も早く子供を作って、その子供が後を継げるよう教育しなければならないんだろう?」
「……ああ」
 緋凌は今年で二十。三年前に先代の気読みであり、師である父親を亡くした。母親はとうに身罷っており、村から離れたこの丘の小屋で、ただ一人で暮らしている。
 村の青年たちは大体十六、七歳で所帯を持ち、子供を作る。彼がいまだ独り身なのは立場から考えても、許されることではない。
「判っちゃいるんだが、どうにも気が進まなくてな」
「所帯を持ちたいと思うような女性はおらんのか?」
「子供を作るため、役割のため、それが務めだと割り切ればいいんだろう。おそらく所帯を持つなんて、そういうことなんだろうとは思うんだが」
表情を曇らせ、煮え切らない言葉を紡ぐ緋凌に、春螺は彼の屈託を思う。
 この青年は、自分に対してはひどく傲岸不遜だ。その様は時に立腹させられるが、結果として自分の関心を引き、ここに日々通ってこさせられる原因になっている。だが、その彼自身が己を過信し、神仙である自分をも怖くないと思っているのでは、決してないことも事実だ。
 どれほど底を透かし見ようとしても、見えない。時折矛盾する言葉と態度。その、仙には決してあり得ぬ不透明さと不安定さ。
「……寂しい話だ」
「それを寂しいと感じるのは―――それを許されるのは、長く生きることのできる者だけだ。呆気なく死ぬ人の子は、そんなことに頓着してはならないんだろう」
 冷徹に言いきるも、緋凌の表情には割り切れなさが残る。
 彼の言うことは、間違ってはいない。それなのに、彼は判っていながらそれができない。
 それは、なぜなのか。
「俺が今死ねば、父祖の蓄積は全て無に返る。それは判っているんだが」
 少しばかり苛立たしげに頭を掻く緋凌に、春螺はここしばらく考えていたことを、とうとう口にした。
「緋凌、ここらで『気読み』のやり方を変えてみる気はないか?」
「……というと?」
「字というものを、私から習ってみる気はないか?」
「字……」
 面食らって問い返す緋凌に、春螺は転がっていた木の枝で、地面に丸を書き、周囲に放射状に棒を何本も書く。
「いいか? まずはこうやって絵を描く。これは私が太陽と思って、描いたものだ。そう見えるか?」
「見えないこともないな」
 次に春螺は、デコボコした曲線でできた絵を描く。
「これは雲だと思って描いた」
「ああ」
「これでお前は、この絵を『太陽と雲』と見ることができた。次から私がこの絵を描いたら、何の説明もしなくても、『太陽と雲』だと判るだろう」
「まあそうだろうな。でもそれが、どういうことなんだ?」
「地面に書いた絵は消える。だが物に―――木の板にでも絵を刻めば、大切に保存しておけばそれはずっと残る。これからずっと後になっても、緋凌がこの絵が太陽を意味しているのだと覚えてさえいてくれれば、木の板を見た時『太陽』だと判る。そして緋凌が別の者に、『これが太陽だ』と教えれば、他の人間も判る。たとえお前が死んでも、生き残った人間がまた別の人間に『これが太陽だ』と教え続ければ、この絵はずっと教えてもらった者たちの間で間違うことなく『太陽の絵』だと伝わっていく」
 ここに来て、緋凌は春螺の言いたいことが、何となく呑み込めてきたらしい。身を乗りだして、春螺の説明を聞く。
「お前の覚えている過去の蓄積は膨大だが、それを表現する言葉はそんなに沢山はない。たとえば『晴れ』をこんな絵に決めておく。『雨』はこう、『雪』はこう、『大風』はこうだとでもしよう。今日の天気は晴れだな。だったら、こう描いておく」
春螺は地面に、定めた『晴れの絵』をもう一度描く。
「この絵は、『晴れ』を表してるんだと判らない者には、何の意味もないものだ。だが、これを『晴れ』だと判っている者―――今の場合はお前が見れば、『晴れ』と描いたんだと判るだろう?」
「そして描いた絵を丈夫なものに残しておけば、絵の意味を理解出来る者がいなくならない限り、残る……」
「そういうことだ」
 呆然としたように呟く緋凌に、春螺は笑って頷いた。
「これが『字』の仕組みだ。『字』は所詮訳の判らない絵でしかないが、それを見る者全てが同じ意味に理解すれば、描いた者の意図を永遠に残すことができる。そしてその意図は、理解した後、覚えていなくともよい。『字』の意味を理解する―――このことを『字を読む』というが、その方法さえ判っていれば、忘れてもまた書き留めた『字』を見ればいいのだ。『字を読む方法』さえ間違えなければ、同じ解答を何度でも、どんなに時間が経った後の人間でも、取り出すことができる」
 見れば、微かに肩が震えていた。唇も、それが紡ぐ声さえ震える。
「では……では、過去の蓄積をすべて『字』にして残しておきさえすれば、もう蓄積を頭に焼き付ける必要はなく、ただ『字の読み方』を理解さえすれば、事が足りるようになると言うんだな?」
「あと書き方もだな。緋凌、お前も気づいているだろうが、口伝は後の人間になればなるほど、負担が増える。一人の人間が覚えられる量には、どうしたって限界がある。日々の新しい記憶を詰め込んでいくのは、並大抵ではないだろう。だが、字であれば、毎日やればいいことは、その日の天気を書くだけだ。量が増えれば、必要なものを取り出すのに苦労はするだろうが、それは工夫次第だろう」
「それを……教えてくれるのか? 天神の知識を」
「『字』は仕組みさえ判れば、人間たちで作り出すことさえできるものだ。事実、もはや字を使いこなしている人間とて、少なくないぞ? ただこの『界』の人間が、まだ編み出していなかったというだけで」
 一瞬揺れた、不安げな表情は、今まで一度も彼が見せたことのないもので、だからこそそれが春螺にはとてもおかしい。
「だがまあ、今からお前が一から全ての『言葉』を『字』に置き換えていくのは大変だろうから、私の使っているのを教えてやる」
「頼む」
 緋凌は不意に、春螺の手を掴んだ。全身の力がこもっているのではないかと言うほどの、強い力。
 青い目が真っ直ぐに自分を見ていて、春螺は動揺する。
 決意が悲愴にさえ感じられてしまう、その真摯な眼差し。
 けれどもそれがどこか、傷ついているように見えたのはなぜだろう。
「楽じゃないぞ」
「当たり前だ」
「時間がかかるぞ」
「構わない」
 緋凌のきっぱりとした言葉に、春螺は掴まれた手をほどくこともせず、ただ頷き、そして。
 その日から、二十年に渡る奇妙な生活が始まったのだった。
 そして後に、春螺は思い返す。緋凌が自分に『頼む』と言ったのは―――何かを望んだのは、その二十年の間で、この時ただの一度であったことを。

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