天を渡る風 (5)

 春螺が緋凌に字を教えるために、彼の元に居ついてからしばし。それはひどく規則正しく、狂いのない毎日だった。
 緋凌は夜明け前に起き出し、山中の滝で斎戒という名目の水浴びをしてから観測を始める。空を見、雲を見、水気や風を確かめては記憶を繰り、今日の予測を立てて村に伝えに行く。天候の急変を察知すれば日に何度でも行き、必要があれば長く村に留まって話し込んだりもするが、基本的には伝えることだけ伝えれば、さっさと村から離れた自分の小屋に戻ってくる。
 彼はよほどの雨でない限り、一日のほとんどを屋外で過ごす。ただほけっと空を眺め、遠くを見ているようで、その実頭の中では様々な記憶の反芻や、過去の事例に対する考察が行われていることが、春螺には読み取れた。
 それは口伝で知識を継いでいる彼の仕事の一部であり、身についた習慣なのだろう。
 字の練習は、穏やかで安定した日和の午後や、夜に行われた。
 春螺の作った光は、今日も狭い小屋を暖かい色に照らしている。
 この灯に関しても、すったもんだのやり取りがあった。緋凌はこれを嫌がり、脂の灯で十分だと言い張ったのだが、「こんな明るさのところで字など書いたら、視力が落ちる」という春螺の言葉に折れた。視力の低下は、彼の生業上死活問題だからだ。
 緋凌はことのほか、春螺が仙力を使うこと――ことに自分に関わることで、彼女が力を使うことを嫌がった。その真意はうかがい知れないが、二人で一日のほとんどの時間を顔をつき合わせて暮らすようになれば、どうしてもそのことでぶつからずにはいられない。だが、この灯のことのように、緋凌の方が折れることはまれだ。
「文字には大きく分けて、二つある。『表音文字』と『表意文字』という。今まで私が教えてきたものは、表音文字のくくりに入る、『仮名』という字だ」
 春螺は緋凌に向かい合い、語る。
「表音文字とは音をそのまま記したもので、それ自体は何の意味も持たない。一方表意文字は、その字自体が意味を持っている」
「……判らん」
 意味が掴めない緋凌に春螺は小さく苦笑して、石版に白墨で『ひ』と書いた。
「これは『ひ』と読むことは、もう判ってるだろう。だがこの字からは、『ひ』という音を表していることしか判らない。物を燃やすものも『ひ』だし、昼間空に浮かんでいるものも『ひ』だし、お前の髪の毛の色も『ひ』色と呼ぶ。つまりこの字は、どの『ひ』なのかを区別する機能はないということだ」
「そうだな」
「一方、これを表意文字で表せば、燃えるものは『火』、空に浮かぶものは『日』、赤い色は『緋』だ。この三つの字は、読む分には全て同じ音を表しているが、その字自体が意味を持っている。『火』は、お日様を表したりしない。この字が出てくれば、別の『ひ』を表しているのではなく、燃える『ひ』を表しているのが一目で判る」
 春螺の告げるところを呑み込んで頷き、緋凌は問いかけた。
「それでは、表意文字の方が字としては高等だということか?」
「それが全てにおいてよいかどうかはともかくとしてな」
 少しばかり苦笑いを浮かべた春螺に、緋凌は怪訝な顔をした。そんな彼に、春螺は小さく頷く。
 時に思うことがある。緋凌はまるで内心を見透かせるかのように、他人の―――自分の心の機微に、聡い。
「表音、表意ともに、それぞれいい点と悪い点があるということだ。表音文字は、確かに同音異義語の判別に難がある。だが、習得が簡単だ。なにせ、覚えればいい字の数は、あっても二桁だからな。人界で使われているほとんどの字は、まず表音文字だ」
「ならば、表意文字の利点は?」
「習得さえしてしまえば、読む速度も文意の理解も断然早い。字自体が意味を持っているから意味を読み誤る率も低い。何より、一つの事柄を示すのに、書かなければならない文字の数が減らせる。字自体が意味を持っているから、詳細な文にしなくても、数文字だけで事が足りるのだ」
「つまりは、書きつける板の量を減らせる?」
 苦笑した緋凌に、春螺もそれで応えた。
「そういうことだな。だがそれ以上に、書く方の労力の問題もあろう。だが表意文字にも問題は多い」
「覚える字の数が多い、ということか。『ひ』ですら、あれだけの数があった」
「全てを習得する必要はないが、私が使っている表意文字は、万単位だ。完全な習得など、何者でも不可能かもしれん。一通りでも、千単位の習得がいるかな、やはり」
「とすれば、どちらを習得する方が、効率がいい?」
 当然の緋凌の質問に、春螺はこれまで考えていたことを伝える。
「両方」
「両方か?」
「表音文字を―――仮名を完全に。そして、その上で少しずつ表意文字を―――真名を覚えて、仮名に置き換えていく。全ての真名を覚えられない以上、足りないところは仮名で代用していくよりあるまい」
「つまりは、両方のいいところ取りか」
「完全ではないがな。いいところも取るが、悪いところも取る。どっちも半々だ。ただ、名前くらい真名でつけてもいいのではないかと思う。村の子供たちの名前をつけるのは、お前の仕事だと言っていたろう?」
 ほろりと漏れた春螺の言葉に、緋凌は口許に笑みをこぼした。
「ああ、そういうことか。お前が俺の名を呼ぶ時には、何となく響きが違う気がしていた」
 その瞬間、胸が締めつけられたような錯覚を覚えた。
 それは苦しいのではない。痛みでもない。けれどもぎゅっと、胸の奥が疼く。
 今まで一度たりとも感じたことの感覚だった。
 自分には何が起こっているのだろう?
 今、何を言われて、そして何を感じた?
「名前に表意文字を当てれば、名が意味を持つ。名づけた者の願いが形となって見える―――それは悪くない」
 どこか遠くを見る青い目は慈愛を含んで細まり、いつもの厳しい顔つきはなりを潜めた。
 緋凌は普段の鋭角的な印象からは考えられぬほど、柔らかく笑い―――それは春螺の胸を射抜く。
 あるはずのない鼓動さえ、聞こえる気がした。
 どうして、と春螺は内心で呟く。
 神仙としてこの世に生を受けた。自分にできぬことなど何一つないと、判らないことなど何一つないと、そう思ってこれまで生きてきた。
だが。
 この目の前にいる男に関することといったら、全てが判らないと言っていいだろう。彼自身のことは言うまでもないが、それ以上に判らないのは、自分だ。
 なぜ、自分はただの人間に、かくも興味をそそられるのか。なぜ、こんな酔狂を続けているのか。
 なぜ、ただの人間の一挙一動に、こんなにも振り回されるのか。
 なぜ、こんなにも心が揺れるのか―――。
 惑い続ける春螺に、緋凌はぽつり、と呟く。
 彼女の心を見透かしているのかいないのか、問えぬ謎を残して。
「願いが届いて、叶うのならば、本当にいいんだけれどもな……」

「緋凌は本当に、謎の男だった」
「……確かに、訳の判らん男だ」
 しかめっ面で答える彩妃に、春螺は苦笑した。だが、ふと表情を暗くして、続けた。
「だが私は、所詮何も判ってはいなかったのだ。……最後まで判ったとは言いがたかったがな」
「何を」
「緋凌が何を考えていたのか。そして、何に苦しんでいたのか」

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