天を渡る風 (19)

「俺はここに残る」
 緋凌の死からしばらく呆然としていた春螺が、ようやく重い腰を上げようとした時、偕良はそう告げた。
「お袋は、神仙界に帰るんだろう?」
 偕良に告げられ、もはや自分が逃げているわけにはいかないことを悟った。
「そうだな。いつまでもぼさぼさしていたら、緋凌に怒られてしまう」
 春螺は微苦笑を浮かべて、偕良の真向かいに立つ。
「ここで、父上の後を継ぐか?」
「それは判らない。けれども、自分に何ができるか、自分にとって、皆にとって、何が最善か、精一杯考えながら生きていこうと思う」
 揺るぎない眼差しで、偕良は母に告げた。
「親父が言っていた。救いと甘やかしの差は、どこから生じるんだろうかと。俺にもその答えは判らない。けれども俺はきっと、迷いながらもきっとこの力で人を助けるだろう」
「……なぜ?」
「俺は苦しんでいる人の気持ちが少しは判る。その痛みを、分かち合いたいと思う。そう思えばとてもじゃないが見捨てられはしない」
 偕良はきっとこの先、己の中でせめぎ合い、悩み、時には己の行いを悔やみながら生きていくだろう。
 だがそれも、価値のある一生だろう、と春螺は素直に思った。
「ならば偕良、これを受け取れ」
 差し伸べた手に現れるのは、一振りの刀。
「『黒風』を、俺に……?」
 困惑する偕良に、春螺は告げた。
「お前の力は私より遥かに劣る。となれば、お前の子はお前よりさらに劣るだろう。代を重ねるに連れ、神仙の血は薄まり、いずれは仙力を全く持たぬようになるだろう」
「……そうだろうな」
「だが、私の裔であるという伝承は、長く残るだろう。それにより、過度の期待をかけられたり責務を負わされたりすることもあるかもしれん。そうなればこの血は、呪いにしかならん」
 春螺はためらう偕良に、優しく告げる。
「だから、これをお前に託す。どう使うか、どう伝えるかは、お前に任せる。だが私と緋凌と、お前の裔が、力なき故に苦しむことがあれば、悲しむことがあれば、この刀がきっと助けてくれるだろう」
 しばらく偕良は黙っていたが、やがて手を伸ばして『黒風』を掴んだ。
「ありがとうございます、母上」
 偕良が力強く答えた時、丘の下から声が聞こえた。
「おーい、偕良! 今日は田んぼの雑草抜きをやることになってたろ! 早く来いよ!」
 その声は村の若者たちのものだ。偕良は感動の場面に水をさされたことで渋面になり、春螺はくすくすと笑いをかみ殺した。
「早く行け」
「でも、母上」
「お前は、お前の道を」
 母の最後の言葉に、偕良は穏やかに笑って答えた。
「はい。母上も」
 それだけを言い残し、偕良は丘を走って下っていった。
 自分を待っていてくれる者たちの元に、真っ直ぐに。
 その背を見送り、やがて見えなくなると、春螺は虚空を駆けて己の封土に戻った。
 久しぶりに足を踏み入れた己が封土は、見るかげもなく荒れ果てていた。
 精神の動揺が、直に現れたことは火を見るより明らかだった。
 乾いた大地はひび割れ、芽生え始めていた草は、足元で無残に枯れていた。
 春螺はようやく、自分の我が儘が、この地に芽生えたささやかな命を散らしたかを思い知った。
「すまぬ……本当に、すまなかった」
 緋凌と暮らした二十年を、悔やむつもりはかけらもない。あの一時がなければ、自分はこの先生きてはいけなかった。
 乾いた心が無意識に求めていた慰めが何であったのか、今の春螺ははっきりと判る。
 けれども自分がそのために犠牲にしたものを目の前に突きつけられ、春螺は胸が詰まった。
 あの大嵐の夜の緋凌の気持ちが、何となく判った気がした。
 果たせなかった責任。その重さ。
「すまぬ……許してくれ」
 涙が伝い、乾いた大地に吸い込まれていく。
 春螺は誰も来ない封土でただ独り、涙が枯れんばかりに泣きつづけた。

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