「ちょっと、しっかりしなさいよセプタード!」
軽く頬をはたかれる感触と、動揺した声に俺は目を覚ました。
というか、目を覚ましてみて初めて、自分が人事不省に陥っていたのだと気づいた。
俺の店。窓が閉ざされたままのホール、開け放たれた入口から光が入り込んでいる。
薄暗いぼやけた視界の中では、傍らにいるのが誰なのか目は捉えられない。ただ声には耳馴染みがあった。
「エルマラ……か?」
「そうよ。あなたどうしてこんなところに転がってるの」
「覚えてないんだが……多分、寝落ちた」
二ヶ月ぶりに帰宅し、店の鍵を開けたところで力尽き、ホールにへたり込んだ。
立ち上がる気力が、全く湧かなかった。そこまでは覚えている。
あれからどれくらい時間がたっているんだろう。数刻だったのだろうか。それとも一昼夜以上すぎてるんだろうか? それすらも判らない。
思考力が、完全に死んでいた。
俺の答えに、心底呆れた声音が響く。
「入口の鍵を開けたまま? 馬鹿じゃない。よく無事だったわね」
そう言い残すと、声の主は薄闇の中で窓辺に歩み寄る。バタバタと音をたて窓の鎧戸が開け放たれ、部屋には陽光が差し込んできた。
そのまぶしさに俺は眼を細める。やがてそれに慣れると、陽光の中に赤銅色の髪の女が佇んでいるのが見て取れた。
ああ、間違いなくエルマラだ。
でもなぜこいつがここに? 俺は錆び付いた頭の中の暦をめくる。
「今日は十五日じゃないよ、な」
俺はこいつと約束をしている。毎月十五日、俺が必ずあることをすると。
そしてこいつはそれに合わせてやってくる。必ず俺に付き合うと約束したわけではないが、こいつが来なかったことは一度もない。
今日が十五日だとしたら、俺は一週間近くもここで倒れていたことになる。さすがにそれはないだろうし、家に帰ってきたばかりの俺は全く準備もしていない。
だが、困惑する俺の内心を見透かすように、エルマラは首を振る。
「うん。だけど、いつもの用じゃない。あなたたち傭兵団がアルベルティーヌから帰ってきたって聞いたから」
その言葉に俺は顔をしかめた。
つまりお前は、わざわざ俺に会うためにきたのか?
娼婦であるこいつが、昼の貴重な自由時間を費やしてわざわざ。
「カティスもカイルワーンも王城だぞ。もう戻ってこない」
「そんなことは判っている。終戦から一ヶ月もたっているのだもの。国王と宰相になる、もうすぐ戴冠式だってことくらい、この街に住んでる者たちはみんな知っている。だからこそ、確かめておきたいことがあったの」
見当が全くつかない。怪訝な顔をした俺に、恐ろしいほど鋭い言葉が飛んできた。
「私はあなたたちが、これからも王都であの二人を支えていくのだと思っていた」
俺の心の真芯を射貫く問いかけだった。。
「どうして帰ってきたの」
ああ、と俺は内心で嘆きをあげる。
本当に聡いこの女は、カティスのことがよく分かっているのだ。
そして俺のこともまた。
「学もないこんな一平民が、王城で何ができるっていうんだ」
だからこそ俺は、苛立ちまじりに吐き捨てるしかない。
こいつの言いたいことは判る。けれども今自分たちが捕らえられている問題は、そんな感情論で量れるほど単純じゃない。
だがそんな俺に、エルマラは簡単に言ってのける。
「あんたからカティスとのことをとったら、後に何が残るのよ」
真理を匙でえぐり取るような言葉に、俺はぐうの音も出ない。
本当にどうして俺とこいつは、こんな間柄になったのだろう。
こいつと俺が出会ったのは、996年のこと。親父が亡くなった翌年のことだ。
夜の開店に向けて仕込みをしていた昼下がり、何の前触れもなく現れた。
「あなたがセプタード・アイルね」
長い赤銅色の髪を束ね、質素な街着を着流しているが、気質の女ではないことは何となく察せられた。表戸ではなく勝手口を叩き、厨房にいた俺にそう呼びかける。
「お前は?」
「『千里香』のエルマラ」
店の名は知っている。この街でも大店の部類に入る娼館だ。高級店ではないが、手頃な値段で様々な女と愉しめると評判だと、噂には聞いている。
だが一度も行ったこともない店の娼婦が、なぜいきなり俺を訪ねてくる。
眉根をひそめた俺に、エルマラは動じることなく言った。
「カティスから紹介されて来たの。彼に頼み事をしたのだけれども、それなら自分よりあなたの方が適任だと」
こいつはカティスの馴染みの女か。俺は突然のことにただ驚くしかない。
あいつが花街をたびたび訪れていることは知っているが、俺を訪ねろとはどういうことだ。
「私の話、聞いてもらえるかしら」
訳が判らない。だがカティスが関わっているというのならば、無下にはできない。
無言で開店前の店に通すと、エルマラは携えてきた包みを卓の上に広げた。
現れたのは古びた紙綴り。上質だが年季の入った紙が、丁寧に綴じられている。
「これは?」
「店の先輩のもの。お母さんの形見というか、姐さんがうちの店に来る時、家から持たされてきたものなのだそうよ」
「ということは、元々はいい家の娘だったということか」
何かを紙に書いて残したということは、その娘の親は字が読めるということだ。それは家が裕福だった証拠だ。
「かなりの豪商だったらしいわ。お母さんを病気で亡くし、その後に家も傾いて、継母に売り飛ばされたと」
「ありがちだな」
「結局はそれでも家業を建て直せず離散したらしいわ。つまりはもはや係累はいない」
小さくため息をこぼし、エルマラは本の表紙に手を伸ばす。
「その姐さんの具合がよくないの」
曇った面差しに、俺はその病状の深刻さをおおよそ察した。
春をひさぐ女たちのはかなさは、説いてもらわなくとも判る。
「アルチーナ姐さんは字を教えてもらう前に娼館に売られてしまったから、これを形見としてただ大事に持っていた。けれども今になって、何が書いてあるのかが知りたくなった、と言うのよ。だけどうちの店の子は誰も字が読めない」
「ああ、だからお前はカティスを頼ったのか」
その『今』が何を意味するのか――その娘の内心、妹分であろうエルマラの意図、それをくみ取って俺は納得する。
あいつは貧民と呼んでいい境遇にもかかわらず、読み書きができる。そのことは街の者たちに意外と知られているし、今までもそれを頼りにされたことはあるのだろう。
「そう。だからこれを姐さんに読んで聞かせてやってくれって頼んだの。彼はそれを快く引き受けてくれたんだけど、数枚めくったら、これは自分よりセプタードの方が適任だ。この店を訪れて頼めと」
「どういうことだ」
「私には全く判らない。どういうことなのかは教えてもらえなかった。でもカティスは、あなたが読めば自分が何を考えてるかはすぐ判るだろう、と言っていたわ」
エルマラの顔いっぱいに浮かぶのは、すでに時間を経ている困惑。
そしてそれを解くことができるのは俺だけだと思っているだろう。答えを求める渋面に俺は綴りを取り上げるしかなく、ページをめくって、そして。
カティスの意図を理解し、内心で独りごちる。
なるほど。そういうことか。
確かに「できるできない」の話で考えれば、「できる」のはあいつではなく俺だ。
でもそれを、俺が「すべきかどうか」で考えると、ちょっと悩む。
悩むところでは、あるが。
間接的とはいえカティスの頼みである以上、無下にはできない。
腹を決め、俺はエルマラに確かめる。
「この綴りの持ち主――アルチーナといったか。そいつは今何歳で、お前の店に来たのは何歳の時だ?」
「今は二十六。うちの店に来たのは、確か十歳の時だったと思うけど」
それが何か? と問うてくるエルマラに、俺は思案する。
十歳ならば覚えているだろうか。
それとも十六年という歳月に、記憶は押し流されているだろうか。
判らない。だがたとえ何も覚えていなかったとしても、このカティスの企みは無意味ではないだろう。
そう願って俺はエルマラの問いに答える。
「この綴り、料理帳だ」
意外だったのだろう。虚を衝かれた瞬きをして、エルマラは声を上げる。
「そう、なの?」
「その娘の母親は、遠方から嫁いできたようだ。自分の出身地と生家の来歴と一緒に、今まで食卓に上げてきた出身地の料理の作り方を記している」
記されていた料理は、料理人である俺でも一度も見たことがないものばかりだった。
それらが食べられているという故郷の街は、北方の山間部にある。海沿いのレーゲンスベルグとは使われている食材も大分異なっていた。
一枚。また一枚。俺はそこに綴られる食材と工程を眺めて、やがて問う。
「試作の時間に一週間くれるか」
敢えて説明を省いた俺の言葉を、エルマラは違わず読んだ。驚いた顔つきで問い返す。
「もしかして……作ってくれるの? それに書かれている料理を」
それがカティスがこの件を俺に振った理由だと、もうこいつにも判っている。
だから俺は頷いて続けた。
「完全に母親の味を再現できはしないだろう。元の料理を、俺は一度も喰ったことがないからな。けれども近いものが作れれば、多少の慰みにはなるだろう」
この綴りに書かれている料理を出す店を、俺はレーゲンスベルグでは知らない。
生家が没落し娼館に売られてから十六年。それだけの間アルチーナという娘は、郷里の料理を口にしていないだろう。
ならば最期、それを口にすることができれば。
カティスがそう考えたことは容易に察させられるし、それを知ってしまえば俺は否とは言えない。
否と言うほどの人でなしではない。
「一週間待たせても大丈夫か? 物はまだ食えるか?」
暗に問いかけることにエルマラは気丈に頷く。
「急変しなければ、おそらくは」
「俺みたいなのが食い物を差し入れることを楼主は許してくれそうか?」
「私が説得する」
凛とした返答の後。
弟分の馴染みの女は潤んだ眼差しを俺に向け、深々と頭を下げた。
「ありがとう。よろしくお願いします」
頭を下げ続ける女の姿は、折れそうに細く俺の目には映った。
だから俺はその震える肩に手を載せた。
ただ黙って、手を載せた。
これがこいつと俺の長い付き合いの始まりになるのだとは、この時はお互い全く考えもしなかった。