天を渡る風 (6)

 空が高くなっていた。澄み渡った空はどこまでも深く、透るような硬い光を投げ下ろしている。
 春螺が緋凌の元に居ついてから三ヶ月が過ぎ、季節は秋。収穫の時を迎えていた。
 緋凌の字の学習は、飽くことのない熱心さで続けられ、仮名であればすでに読みこなすことができるようになった。彼が仮名の読み書きを完全に習得するのも、そう遠くないことのように思われた。
 だがそれは、彼の計画のほんの手始めにすぎない。仮名が終われば、真名の勉強を始め、いよいよ記憶を字に置き換えていく作業を始める。そのかたわら、後に字を学ぶ者のために、複雑な真名の意味を仮名で記した手引き――それを春螺は『辞書』と呼んだ――も作っていかなければならない。そして最後には、次の世代に、字を教えなければならない。
 春螺の提案は、長期的に見れば『気読み』と呼ばれる者たちの負担を遥かに軽減するだろう。だが、それは全てが軌道に乗れば、だ。転換の労苦を独りで背負う緋凌の負担は、並大抵ではない。そのことを、ここに到って春螺はようやく実感した。
 そして、と思う。三ヶ月も居ついていれば、見えてくるものもある。緋凌が決して己からは口にしない、複雑な事情が。
「お前は神官だと、私に名乗ったな」
「自分ではそのつもりでいるんだが」
「だからなのか? 村人たちが、お前を近寄り難いものとして見るのは」
 風の向きと混じる水気を確かめていた緋凌は、春螺の言葉に答えなかった。だがいつもとて決して穏やかではない顔つきが、一層険しくなったことが雄弁な答えだった。
 緋凌は村でただ一人、田畑を持たない村人だ。彼の食い扶持は村人たち全員が、天気予測の報酬という形で納めている。それは決して裕福と言える量ではないが、この村の貧しさから考えればかなりの量なのだろう。
 緋凌は春螺に名乗った通り、神官にふさわしい職務もこなしている。村の神事や祭り事を取り仕切るのも彼だし、生まれた子供に祝福とともに名前を贈るのも彼の仕事だ。その権力は、村長に次ぐだろう。
 そんな彼を、村人たちは畏敬をもって接している。尊敬もされているようだし、彼を悪しざまに言う声は、神仙である春螺が聞き耳を立ててもついぞ聞こえてはこない。
 だが、それと裏腹に、村人たちの態度には、親しみや気安さは一切感じられなかった。尊敬し、畏怖し、恭しい態度で接するけれども、それ以上深いところには誰一人立ち入ってはこない。
 そして緋凌は緋凌で、村人相手に一切無駄口を叩かなかった。いっそ鉄面皮とさえ言えるほどいつも隙のない態度で、職務を果たして、それさえすめばとっとと独りになる。
 彼を『緋凌様』と呼ぶ村人と、彼との間には歴然と、目に見えない壁があった。
「嫌な風だな」
 眉をひそめて、緋凌は天を見上げた。彼の頭の中に膨大な記録が詰まっているからそうなるのか、それとも人とは思えぬほど研ぎ澄まされた感覚の持ち主なのか、緋凌の読みは恐ろしいほど的確だ。誤差や時間的なずれは時折生じるが、本筋で読みを外したことがない。
「嫌な、予感がする」
「村に行くのか?」
「今日は長くなるだろう。多分、夜をすぎても戻ってこれない」
 緋凌はこの時、ひどく難しい表情をした。それは困難に立ち向かわなければならない気鬱ととれた。
「気をつけてな」
 だからこそなのか、不意にこぼれた言葉に、言われた緋凌よりも春螺本人のほうが驚いた。そんな彼女に、緋凌はふと表情をゆるめて苦笑した。
 緋凌は、笑顔というものをほとんど見せることはない。けれども、不意に苦笑をもらすことはある。
 それはいくらか寂しそうではあったが、仄かな光を伴っているようで、柔らかく春螺の目には映る。
「ありがとう」
 普段の彼からは信じられないほど殊勝に―――あっさりと礼を述べて、緋凌は丘を下っていく。それを見送ると、春螺は途端に手持ち無沙汰になった。
 緋凌がああ言ったからには、おそらく今晩は戻ってこれないのだろう。ただ独りで、あの小屋で待っているのも退屈だ。
「ちょっとだけ、帰ってくるかな……」
 ちょっと遊びにいってくると言ったまま、人界時間で三ヶ月ものあいだ一度も戻っていない自分の『封土』。そこには自分の帰りを待っている者がいる。
 緋凌にこのままつきあい続ければ、今しばらく戻れなくなる。それを一言伝えて、留守を頼んできた方がいいだろう。
 天を翔け、神界に辿り着くのはただの一刻。己の封土に降り立った春螺は、意外な展開に目を瞬かせた。
 封土はかたりとも音をたてる者とてない。
「慧?」
 いつもなら、帰るなり飛んでくるはずの侍女の気配が、どこにも感じられなかった。
 一方、丘を降りて村に向かおうとしていた緋凌は、道の途中に見たことのない女性が立っているのを見つけた。
 上等の衣に、腰で璧が揺れる。一部を結い上げて流した柳葉色の髪が美しい。
「人ではないな……貴君も神か?」
「慧と申します。縁あって、春螺様にお仕え申し上げております」
 慧は緋凌に軽く頭を下げた。だがそれが、形式的なもので、黄緑の瞳は、紛れもなく敵意をたたえていた。
「用があるのは俺にか? ならば言いたいことは判っている」
 緋凌は臆することなく真っ直ぐ慧を見て、言った。その強い瞳が、慧には癇に触った。
 侍女とはいえ、彼女とて仙の端くれである。人間と目線と同じくされるなど、耐えられることではない。
 だが今はぐっと堪えて、言葉を継ぐ。
「なれど、重ねて申し上げます。春螺様をお返しください。あの方は、神仙としてはいまだお若い。ご自身の『封土』もいまだ安定にはほど遠く、まだ長く離れてよい時機には入ってはいないのです。一刻も早くお戻りいただかなくてはならないのです」
「仙界の住人に、そのような口の利き方をされるとこそばゆい。彼の人の手前を気にしているのならば、そのような気遣いは無用。卑しい人間の不調法は、まずは許されよ」
 緋凌の言葉に、慧はあっけに取られた。彼の反応は、あまりにも自分の予想を裏切っていたのだ。
 その言葉づかいは、春螺に対するものとは全く違う。
 慧はまだ年若い自分の主が心配だった。だから不調法と知りつつも、主の気配を追って彼女の行動をかいま見ていたのだ。そして、主が目をかけるこの青年のことを知った。
 それは慧にとっては信じ難く、許し難い光景だった。
 最高位の神仙である己の主人への無礼な態度、言動。特に敬いもかけらも見せないその口ぶり。いくら主人が許そうとも、彼女には許せことではなかった。
 しかし、春螺がいるところに割り込んでいくことなどできることではなかった。だから、こうして、緋凌が独りになったところを見計らったのだが。
「貴君の言われることは、至極もっともだ。彼の人に責務があり、それを投げ出しているというのならば、諫めねばならないのが仕える者の責務」
「あ……はい」
 面食らって返事しかできない慧に、緋凌は不意に表情を崩した。駄々っ子の対応に苦慮するような、そんな困り果てた苦笑い。
「だが、彼の人は、俺が何かを言って、それでどうにかできる御仁なのか?」
「……………………」
 慧は完全に沈黙した。返す言葉が、全く浮かばなかったのだ。
 まさしく、緋凌の言う通りだった。
「正直なところを言えば、俺には彼の人の行動も真意も、さっぱり判らん。なんで人間の俺風情に興味を抱いたのか、つきまとうのか、字を教えるなんて酔狂なことを言いだして、延々それにつきあい続けるのか……何一つ判らん」
「はい」
「俺自身、自分が彼の人の恩寵を要求できるほど、ご大層な存在じゃないことは判っている。だから『なぜだ』とは思うし、彼の人がここで自分の世界に戻られても、責める気もないし無責任だと思うこともない。それはまあ、当然のことだろう」
「……はい」
 すっかり毒気を抜かれた慧に、緋凌は続けた。
「貴君が彼の人に、『戻ってくれ』と言うことは一向に構わない。それは貴君の務めだろう」
「では」
「だが俺の口から、それを言うことは断る」
 一転、ぴしゃりと言われて、慧は一瞬その言葉の意味を理解できなかった。
「さっき言った通り、春螺は俺が何を言ったところで己を曲げやしないだろう。だが、それとは別の問題として、俺からあいつに『帰れ』とは言えない」
 慧は思わず息を呑んだ。
 初めて緋凌は、春螺の名を呼んだ。敬称も何もつけず、ただ名を呼ぶことが、何より自分には許せなかったはずだ。それなのに。
 ただの人間であるはずの緋凌に、気押されていた。
「なぜ、ですか……」
 辛うじて問うた慧に、緋凌は厳しい眼差しのまま告げる。
「背負う者の気持ちは、当人にしか決して判らないからだ」
 慧はこの瞬間の緋凌を、生涯忘れられぬだろうと感じた。
 彼は背筋を伸ばし、凛と顔を上げて自分を見ていた。臆することなく自分に向かう姿勢は、悲愴とさえ感じられるほどの威厳と強さにあふれていた。
 それはおそらく、矜持と呼ばれるもの。
 心の中のぎりぎりの、彼の根幹をなすもの。
 気押された。気押されて、動けなかった。
「責務があるということ、何かを背負うということ。それが心にもたらす苦痛、苦悩、疲労、逡巡、悔恨……そういった感情は、どれほど長く仕えた臣下とて、どれほど深く心を交わした伴侶とて、真に理解することなどできぬ。その心を慰めることはできても、重みを共に背負うことはできぬから」
「緋凌……殿」
「春螺に『責任を果たせ』というのは、臣下である貴君の大切な務めだ。貴君は、春螺に『そのことを告げる』という責任を負っているのだから。だが、春螺の心は、それだけでは休まらない」
 慧は、もはや何も言えなかった。
「春螺の真意は、さっき言った通り俺には判らん。だが、判らなくても、真意は―――意味は、存在するだろう。本人が自覚しているしていないに関わらずな。酔狂にしか見えんが、それでも、それをこそ春螺自身は必要としているのではないか、と思う。ならば俺は、俺の口から『責任を果たせ』とは言えん。……たとえ一時でも、背負うものから逃れて、心を安んじたいと願っている者に、俺はその台詞は言えん」
 告げる緋凌の顔は、苦かった。その意味を―――緋凌の気持ちを、慧は春螺よりも先に悟った。
 彼には彼なりの苦悩と苦痛が存在することを。
 責務を背負う者の孤独が存在することを。
「真に春螺が責務を投げ出そうといるのならば、それは許されることではない。だが疲れ、悩み、ほんの一時でも心を安んじたいと願っているのならば、その主人にただ責任を突きつけ、責めることは臣下としては本末転倒」
 厳しい言葉で告げられても、もはや怒りは沸かなかった。
「……仰られる通りにございます」
 慧は、緋凌を見上げた。もはやそうせずにはいられなかった。
 負けを、認めずにはいられなかった。
「ならば一時、主をお預けいたします。その間は、卑小なる身ではございますが、私が留守をお守りいたします。ですから必ず、いつか、お返しくださいますよう……」
「必ず。そしてそれはきっと、そう長いことではない」
 緋凌の言葉の真意を、慧ははかり損ねた。しかしそれでも二人は約束を交わし、この場は別れる。
 この約束は遂行された。しかしそれが自分にとって、希望ではなく絶望を意味するものに変わることを、この時の慧はまだ思いも寄らない。
「一つだけ、お教えいただけますか? 緋凌殿」
 慧は問いかける。
「どうして私にはそのように話しかけてくださいますのに、春螺様にはあのような口の利き方をされるのです?」
 その問いに緋凌は振り返り、笑った。
 あのいつもの己を嗤う、苦い苦い笑み。
「ああ、それは、単なる意地だ」

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