天を渡る風 (7)

 緋凌が慧と出会った日、彼は春螺に告げた通りずいぶん帰ってこなかった。夜半過ぎ、ようやく戻ってきた緋凌を迎えた春螺は、今まで見たことのない表情と出会うことになる。
 椅子に座り込み、何も言わずに頭を抱えた緋凌は、ひどく苛立っているようだった。そしてその苛立ちの中に、隠そうにも隠しきれない不安がうかがえた。
 春螺は、彼が自分から口火を切ってくれるのを期待し――そして、その結果ひどく重苦しい沈黙が二人の間を漂った。
「何があったのだ?」
 堪えきれずに問いかけた春螺に、緋凌は顔を上げた。いつもとて決して明るい顔をする男ではなかったが、普段とは比較にならぬほど暗く沈んだ顔をしていた。
「治水が、追いつかない」
 答えてくれないかもしれないと思って問うた春螺だったが、緋凌は意外なほどあっさりと答えた。
 彼とて、誰かに自分の気持ちをぶちまかしたい、愚痴を言いたい、そういう瞬間があったのかもしれない。そう後の春螺は思い返すことになる。
「前々から、川に堤を築こうという話はしてきたんだ。そして少しずつ進めてもきた。でも、まだ高さも長さも全然足りない」
「簡単な工事ではないからな」
「何年かに一度は大雨であふれてるし、何十年かに一度くらいは大嵐がくる。そうなれば、収穫も家屋も人も、みんな押し流される。そうなる前に、村人総出でも、何を差し置いてでも、一気に堤を築いてしまおうと、俺は何度となく主張してきたんだが」
 声音が、表情が、その緋凌の意見が否定され続けたことを雄弁に語っていた。
「忙しい、人手が足りない、時間的余裕がない―――それは判る。田畑の苦労も判っていない俺が、簡単に人手を割けと言っていいことではないのかもしれない。でも、嵐が来てからでは―――川があふれてからでは遅過ぎると、何遍言っても通じやしない!」
声を荒らげた緋凌の顔は、不安に揺れていた。もうここまでくれば、緋凌の懸念が何なのか、春螺にもはっきりと判る。
「大嵐が、来るのか」
「風向きが、例年とは違う。十五年前の大嵐の時と、ここのところの気候が似ているんだ。俺の記憶と勘は、全てによくない方向を示している」
 春螺はこの夜半までかかった話し合いのことを思った。
 村は今、収穫の最盛期。最も忙しい時期だ。今それを放り出して治水工事に当たれと言うのは、確かに無理難題ではある。
 だが嵐が来て、川があふれれば、収穫が水に漬かる。大嵐ならば流される。そうなれば待っているのは、飢えだ。大嵐がくれば、どれほどの人命が損なわれることだろうか。
 緋凌とて、決して譲れなかっただろう。
「誰も、動かないのか」
「『まだ嵐が来ると決まったわけじゃない』のだそうだ」
 吐き捨てるような緋凌の言葉に、春螺は唖然とした。
「信じられぬのならば、何のための気読みだ!」
 春螺の叫びは、理不尽への怒りを端的に表していた。
「信じて従わなければ、どんな予測とて無意味だろうが!」
 緋凌は春螺の言葉に、切なげな顔をして頷いた。春螺が怒ったからなのか、話して気が済んだのか、それはどこか諦めをたたえ。
「人は、自分の信じたいことしか信じられない生き物だ」
「そんな……」
「どのみち、本当に嵐が来るのならば、もう間に合わない。今からあがいても、焼け石に水であるのは確かだ。ただ今は、俺の読みが外れてくれることを―――嵐が来ないことを、祈るばかりだ」
 だが、緋凌はあまりにも優秀な気読みだった。祈りは届かず、彼の懸念は違うことなく、大嵐は村を直撃した。
 厚く黒い雲に覆われ、夜のような闇に覆われた村を、激しい雨が叩く。風が唸りをあげて地を切り裂く。
 窓の羽目板を外して外を覗き見ていた緋凌は、意を決して春螺に告げた。
「行ってくる」
「今外に出るのは、危険だ」
「この俺が―――気読みの俺が、一人高いところでぬくぬくしていていいと思っているのか」
 切迫した声で、表情で言う緋凌に、春螺は初めて緋凌の背負っているものに思い至った。
 気読みと呼ばれる者たちが、背中に負ってきた責務。
 村人の命を、守るということ。
「緋凌」
 出ていこうとしている緋凌を呼び止めて、春螺は告げた。
 その背中を見ていて、どうして何もせずに待ち続けることができよう?
「私が嵐を―――」
「皆まで言うな」
 緋凌は春螺の言葉をさえぎった。その声音に含まれた怒気を感じ取り、春螺は身をすくませる。
 出会って数ヶ月。どんな振る舞いをしても、何を言っても、嫌味を言われたり嫌な顔をされたことはあっても、怒られたことはなかった。その彼が今、間違いなく怒っていた。
「緋凌、だが―――」
「余計なことはするな!」
 全身全霊、ありったけの力を込めるように、叩きつけるように緋凌は叫んだ。違えれば決して許さぬとばかりに。
 これほどまでに強く、激しく己を否定されたことはなかった。
 ただ独り小屋に残された春螺は、ただ呆然と緋凌の消えた扉を見つめていた。
 思いが、深く暗いところに沈む。
 自分には嵐の軌道を変えられる。村は何の被害を出さずにすむ。そうすれば、全てが丸く収まるだろう。
 それなのに、それを緋凌は拒む。
 風は唸りを上げ、老木が折れる音さえ聞いた。叩きつける雨は、痛く感じるほどの激しい音をたてている。
 これほどの嵐で、被害が出ずにすむわけがない。粟や稗は水に漬かり、果実は落ちて傷むだろう。家屋も傷つき、倒壊するものも出るだろう。
 そしてすぐに冬はやってくる。収穫が上がらねば、越冬は困難を極める。弱い子供や年寄り中心に、死者が出るだろう。
 緋凌はそれを、全て判っているはずだ。判っていてなお、自分の助力を拒んだ。
 その気持ちが、意図が、判らなかった。
 不安が胸を叩いた。自分の身の危険などつゆ感じてはいなかったが、外に出ていった緋凌は生身の、ただの人間だ。こんな天候の中、外を走り回っていては命すら危ない。それこそ川があふれたら、呑まれないとも限らない。
 様子を見にいきたかった。助けに行きたかった。けれども、椅子から腰を浮かせるたびに、脳裏を緋凌の怒声がよぎる。
 『余計なことをするな』―――その声が、その言葉がよぎれば、春螺には何もできない。
 どれくらい待ち続けただろうか。嵐の中心が遠ざかり、次第に風の唸り声が小さくなってきた頃、不意に扉が開いた。
 駆け足で流れていく雲の合間から、かすかに星がのぞいていた。
 全身を雨に浸し、ずぶ濡れになった緋凌は、家の中に入ると崩れるように床に膝をついた。座り込み、何も言わずにうなだれている彼の元に歩み寄り、乾いた布でくるむと、震える声が耳を打った。
「堤が……切れた」
 体が、声が震えているのは、雨に打たれて冷えきったからだけではないことを、春螺は痛感した。
「下流で家が二軒、流された。高台に逃げるように言ってあったが、避難が間に合わなかった……」
 この豪雨に流されたとあっては、助からない。そのことを、緋凌も村人も痛いほど判っている。助けようにも、逆巻く川の前では、人間はあまりにも無力だ。
 人間は。
「田畑のかなりの面積が、水に漬かった。この天候では、水が引くより先に籾が腐るだろう。収穫は、絶望的だ」
 うなだれた肩が震えていた。ぽたぽたと床に散る水滴は、髪や体から滴り落ちる、雨だけではなかった。
 見開かれた青い目から、とめどなく涙があふれていた。
「……すがればよかったのか」
「緋凌」
「お前の言葉に、素直に頷けばよかったのか。助けてくれと、嵐を退けてくれと、慈悲を請えばよかったのか」
 爪が刺さらんばかりに握りしめた拳が、激情を押し止めきれずに震え、緋凌はただ己を見つめるばかりの春螺に、問いかける。
 隠されていたすべての思いを、明かす。
「判っていた。どうして誰も真剣に嵐の備えを考えなかったのか。誰もが期待していた。誰もがたかをくくっていた。ひどいことにはなりはしない、助けてくれぬわけがない―――神であるお前が、何もしてくれぬわけがないと」
「緋凌……私」
「だが、それは俺が嫌だったんだ。それだけはしたくなかった」
 自分の申し出を拒み、この結末を選択したのは緋凌本人だ。
 だが彼はこの結末に、心底傷ついている。苦しんでいる。
 ならばなぜ、この道を選んだというのか。
「どうしてだったんだ。それくらいのことを、しても構わないと私はずっと……」
「一度でも助けられれば、人間は必ず次を期待する。期待し、それが当たり前になって、己で備えることを、努力することを、前に進むことを放棄する。何かあるたびに、お前の顔を見るようになる。それが俺は、嫌だったんだ!」
 吐くような緋凌の叫びは、春螺が今まで一度も見ようとしなかった側面を、彼女に突きつけた。
 自分が施す慈悲というもの、恩寵と呼ぶものの、その身勝手さ。
「人間は小狡い生き物だ。自分の都合でしか物を図れない。一度でも救えば、次が当たり前になる。当たり前に慣れて、自分たちでは何もせず、お前に依存するようになる。そして果てには施せなくなった時―――施しをやめた時、お前を無責任と、悪神と罵るだろう。人間はそれほどまでに、身勝手な生き物だ。その身勝手に、お前がつきあうことはない。だから恩寵はいらない、慈悲は―――施しはいらない。そうずっと思ってきた。だけど」
 だけど。その一言で、緋凌の顔は頼りなく歪んだ。
 緋凌が春螺に出会って以来、全身で貫いてきた信念は、すでに根幹から揺らいでいた。
 もはや胸を張って立ち続ける強さは―――その根拠は、彼にはない。
「確かに甘やかしは村のためにならない。先々よくない。その思いは間違いじゃないはずだ。だけど、死んでしまったら、先なんてない! 俺は先のことを考えてお前の慈悲を拒んだけれども、死んじまった奴はもうおしまいだ。どんな理想も、厳しさも、死んでしまった奴には何の意味もないんだ!」
慟哭が胸を打つ。悔恨が胸を刺し、喉を締める。虚勢も理性もかなぐり捨てて、緋凌は泣くことしかできない。
 人の身の彼にはもはや、悔やむこと以外できることはなく、そしてそれさえ、当の春螺以外には口にできることではないのだ。
 それが理想のために、村人の死を選んでしまった報いであり、責任だった。
 本来ならば悔やむことすら許されることではない。だが、失ったものの大きさは、その悔恨は耐えきれるものではなかった。
「俺が、間違っていたのか……」
 うなだれ、顔を覆い、緋凌は声をあげて泣く。
 そんな緋凌を見ながら、春螺は己の酔狂が何を招いてしまったのかをようやく思い知らされた。
 己がここにいるということが、かくも緋凌を追いつめていたのだということに、今の今まで何も気づいていなかった。
 もし自分がいなければ、緋凌はここまで苦しむことはなかった。
 嵐は人の力では避けられない。自分のできる最大限の努力を尽くせば、被害が出ても、死者が出ても、悲しみはしても己を責めることはない。助けられないのは当たり前で、そのことで己を責めることはなかったのだ。
 自分がいたからこその選択肢。自分がいたからこそ、緋凌は村人を見捨てるしかなく、それ故に選べぬ選択肢を選べなかったと己を責め、悔やむ。
 そして村人たちも、緋凌を恨むだろう。なぜ身近に神仙がいながら、助けを請わなかったのかと。
 村を災害から守る『気読み』の立場にあるものが、なぜ村人を見殺しにしたのかと。
 言葉には誰も出さないかもしれない。けれども無言の視線が、自分だけではなく緋凌を責めるだろう。これから困難を迎えるたび、飢えるたび、村人たちは原因として緋凌の顔を思い浮かべるだろう。
 すべて自分がここにいたからなのだ。自分がいなければ、この嵐も、この被害も、避け得ぬものとして諦められたのだ。だが、自分がいれば、誰もあり得た可能性を思う。それを思い、それを拒否した緋凌を恨むだろう。
「緋凌……すまない」
 声が震えた。悔やんでも、悔やみきれなかった。
 自分は、良いことをしているつもりだった。彼に字を教えてやり、つきあってやっているつもりでいた。だが、自分がつきまとうことで、緋凌は口にせぬ苦悩を内に抱え込んでいた。そして、何も言わず自分の酔狂につきあいつづけてくれていたのだ。
 そのことに、何一つ気づいていなかった。
 最高位に列する神仙として生を受けた。自分にはできないことなどないと思っていた。その思い上がりを、今は恥ずかしく思う。
 自分は何もできないではないか。何一つ、何も。
 確かに、村人が飢えないように食物を与えることはできよう。川に流され、死んだ者たちを生き返らせることだってできる。だが、それをすることは許されないのだ。それをすれば、緋凌が血を流して助力を拒んだことが無意味になる。
 神仙の自分が安易に施しを与えることは、何の解決にもなりはしない。緋凌の言うことは、至極正しい。
 けれども、他に自分に何ができる? 一体何が。
 何も、ありはしないのだ。
 無力だった。こんなにも自分が無力だと感じたことはなかった。
 そして自分が緋凌に甘え、彼の負担になるばかりで、何一つ彼に報いてやることのできない存在であることもまた、したたか思い知った。
 何もしてやれない。ただ迷惑をかけるだけで、苦しめるだけで、何も。
「消え……ようか?」
 おずおずと春螺は問いかけた。ただ己がここにあることさえも、申し訳なくて、苦しくて、たまらなかった。
 生まれて初めて感じた自己嫌悪が、胸の奥からせり上がって肺をかき回す。
「こんなにも迷惑しかかけられないのなら、負担になるしかないのなら、消えようか? お前が私の我が儘の犠牲になんか、なることない……」
 己の言葉が辛かった。その言葉が、自分の心を傷つけているのが判った。
 言葉と気持ちは裏腹で、本心は泣きながら否と言う。
 離れたくない。ここから去りたくなんてない。
 けれども、己に何を望む権利があろう?
 そんな春螺の泣きだしそうな言葉を聞いた緋凌は、不意に手を伸ばして、春螺の手を掴んだ。
 すがりつくように、全身の力をこめて。
「行くな」
 震える声は、確かに助けを求めていた。
「ここでいなくなられたら、俺の気が狂う!」
 緋凌の言葉を、どう受け取ったらいいのか、正直春螺は迷った。けれども己の顔を見上げる青い目を見た瞬間、悟った。
 この数ヶ月の己の酔狂の意味。己の心。
 それはとても単純なことだったのだ。
 掴まれていない左手を延ばして、緋凌の頬に触れた。雨に叩かれた肌は冷たく、触れた指を熱い涙が伝っていく。
 堪えられない。
 欲しい、と思うこの気持ちを。
 唇を寄せ、冷えて紫になっている緋凌の唇に触れた。戸惑った目とは裏腹に、唇は誘いに応えて微かに動き、吸う。
 背中に手を回すと、自分の誘いに抗うことなく、舌が柔らかく唇と歯を割る。体の力を抜き、身を委ねた胸は思いもかけず広かった。
 判ってしまった。何もかもが。
 全ては、とても単純なことだったのだ。
 自分はこの青年に、恋をしたのだ。

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